〜喫茶店ローズ第2章 喫茶店ローズ〜ヴァレンティア王国編14話「…男?」
オスカーは悟真から受け取ったベイクドビーンズの缶詰を静かに開けると、その中身を年季の入った鍋へ移した。
小さなコンロに火を灯し、木べらでゆっくりとかき混ぜる。
ことことと豆が煮える穏やかな音が、薄暗い廃墟の一室に響き始めた。
冷えた石造りの建物に、温かな香りが少しずつ広がっていく。
逃走を続け、まともな食事も取れていなかった一行にとって、それだけで心がわずかに落ち着くようだった。
「もうすぐ温まりますので、お待ちください。」
オスカーは鍋から目を離さないまま、静かに言った。
その間、アルフレッドは悟真と鷹司の前へ歩み寄る。
普段と変わらぬ飄々とした笑みを浮かべていたが、その瞳には珍しく軽さがなかった。
「さて」
短く息をつき、ここへ至るまでの経緯を語り始める。
ヴァレンティア王国へ入国した直後、何者かに追われる一台の車を目撃したこと。
追っ手を止めようとしたが、追われていた青年自身がそれを制したこと。
アレクシアが青年を助けようとして車へ飛び移り、壁へ激突したこと。
青年は自分たちを巻き込みたくないと言い残し、自ら追っ手のもとへ戻っていったこと。
そして、その直後から自分たちまで刺客に狙われ、命からがらこの廃墟へ逃げ込んできたこと。
部屋は静まり返った。
鍋の中で豆が煮える音だけが、ゆっくりと時間を刻んでいる。
悟真は腕を組んだまま、目を閉じて話を聞いていた。
鷹司は一言も発さず、静かな眼差しでアルフレッドを見つめ続ける。
やがて長い沈黙の末、鷹司が低く口を開いた。
「……男?」
たったの一言。
だが、その一言には別の意味が込められていることを、アルフレッドはすぐに理解した。
苦笑しながら頭を掻く。
「おっと、鷹司おじいちゃん。事情を聞いた途端、『面倒事には関わらない』なんて言うのはなしだからね?」
鷹司は微動だにしない。
「違う」
静かな声が返る。
「そんなことは聞いていない」
アルフレッドは一瞬だけ目を丸くし、すぐに吹き出した。
「ああ、そっち?」
肩越しにアレクシアを見ながら、にやりと笑う。
「心配しなくても、アレクシアが助けた相手ってだけだよ」
突然話を振られたアレクシアは、顔をしかめた。
「ちょっと、勝手に話を進めないで。私はただ、放っておけなかっただけ」
その言葉を聞いた鷹司は、しばらくアレクシアを見つめていたが、やがて静かに目を閉じる。
「……そうか」
それ以上は何も聞かなかった。
一方、悟真は壁にもたれたまま、小さく息を漏らす。
「拙者から見れば、すでに十分面倒な縁が結ばれておるように見えるがな」
「なっ……!」
アレクシアの頬がわずかに赤く染まる。
「違うって言ってるでしょ!」
慌てて否定する姿を見て、アルフレッドは肩を震わせて笑った。
「ははっ、図星じゃない?」
「違う!」
即座に返ってきた声に、エドワードは呆れたようにため息をつく。
「君たち……そんな話をしている場合じゃないだろ」
そう言いながらも、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
張り詰めていた空気は少しだけ和らぐ。
その頃には、鍋の中のベイクドビーンズも食べ頃になっていた。
オスカーは火を止め、一人ひとりの皿へ丁寧によそっていく。
湯気の立ち上る素朴な料理を前に、一行はようやく落ち着いて息をつくことができた。
オスカーが皿を配り終えると、一同はようやく温かな食事に手を伸ばした。
豆の素朴な甘みと香ばしさが、張り詰めていた神経を少しだけ和らげていく。
しかし、その静かな時間は長くは続かなかった。
アルフレッドがスプーンを口に運びながら、ふと思い出したように笑う。
「いやさ?」
その声に、全員の視線が自然と集まる。
アルフレッドは楽しそうにアレクシアを見ていた。
「僕とエド兄の可愛い孫娘のアレクシアが、恋しちゃってるっぽいもん。」
その一言で、部屋の空気が止まった。
「……は?」
アレクシアがゆっくりと顔を上げる。
モーヴピンクの瞳が細くなり、その視線はアルフレッドへ一直線に向けられた。
「な、何を言い出すのよ!?」
「え? 違うの?」
「違うわよ!」
間髪入れない否定だった。
アルフレッドは肩をすくめる。
「でもさぁ。車の中で助けようとして飛び移るし、あの男がいなくなったあと、ずっと気になってる顔してたじゃん」
「それは助けられなかったからよ」
「ふーん」
「それだけ」
「本当に?」
「本当に」
ぴしゃりと言い切るアレクシアだったが、その頬にはほんのわずかに赤みが差していた。
その変化を見逃すアルフレッドではない。
「ほら」
「赤くなった」
「なってない」
「なってる」
「なってない!」
思わず声を荒らげるアレクシア。
アルフレッドは腹を抱えて笑い始めた。
「はははっ! 分かりやすいなぁ!」
「うるさい!」
スプーンを持ったまま睨みつけるアレクシアだったが、その様子は怒っているというより、図星を突かれて動揺しているようにも見えた。
エドワードはそんな二人を横目に見ながら、小さくため息をつく。
「アル」
「からかうのも、そのくらいにしておきな」
「僕は事実を言ってるだけだけど?」
「君の”事実”は余計な一言が多い」
「そう?」
アルフレッドは悪びれる様子もない。
その時だった。
壁にもたれていた悟真が静かに口を開く。
「拙者も、同じように見えた」
「……え?」
アレクシアが固まる。
悟真は表情一つ変えず続けた。
「話を聞いている限り、人を助けようとする目ではなかった。もっと大事なものを失うことを恐れる者の目であった」
その言葉に、アレクシアは何も返せなかった。
胸の奥が、小さくざわつく。
セリオが最後に見せた、あの優しい笑顔。
「これ以上、君たちを巻き込みたくないから」
あの言葉が、頭の中によみがえる。
気づけば、無意識に唇を噛んでいた。
そんなアレクシアを見つめていた鷹司は、静かに茶碗を置く。
「否定する必要はない」
低く落ち着いた声が、部屋に響く。
「人を想うことは、恥ではない」
その一言に、アレクシアはゆっくりと目を伏せた。
否定の言葉は、もう出てこなかった。




