〜喫茶店ローズ第2章 喫茶店ローズ〜ヴァレンティア王国編「いい子だ」
追っ手の車列は、砂煙だけを残して地平線の向こうへ消えていった。
静寂が戻る。
先ほどまで鳴り響いていたエンジン音が嘘のように途絶え、辺りには風が草を揺らす音だけが残っていた。
アレクシアは、その方向をじっと見つめたまま動かなかった。
胸の奥がざわつく。
出会ってから、ほんのわずかな時間しか経っていない。それなのに、最後に見たセリオの背中が頭から離れなかった。
「……なによ。」
ぽつりと呟く。
「勝手に全部抱え込んで。」
彼は笑っていた。
「巻き込みたくない」と言いながら、自分だけが危険へ向かっていった。
あの穏やかな笑顔を思い出すほど、胸が締め付けられる。
「……馬鹿。本当に馬鹿…」
風に溶けるような小さな声だった。
その様子を静かに見つめていたエドワードは、小さく息をついた。
焦る気持ちは理解できる。
だが、感情だけで動けば、状況はさらに悪くなるだけだ。
「アレクシア」
穏やかな声が静寂を破る。
彼女はゆっくりと振り返った。
エドワードはいつものように落ち着いた表情で立っていた。
「それより、今は宿を探そうか」
その言葉に、アレクシアは目を見開く。
「……エドワード?」
「ここで立ち止まっていても、状況は何も変わらない」
エドワードの声は静かだったが、その一言一言には確かな重みがあった。
「今の僕たちは、この国について何も知らない。敵が何者なのか、どこに拠点があるのか、味方になってくれる者がいるのか、それすら分からない。」
セドリックが静かに頷く。
「まずは身を落ち着ける場所が必要ですね。情報も集めなければなりません。」
「ええ」
エリオットも柔らかく続けた。
「旅人としてこの国へ入った以上、不自然な行動は避けるべきでしょう。」
ガブリエルは腕を組み、城壁の向こうを見つめた。
「焦るお気持ちは理解できます。しかし、助けるためには冷静さも必要です。」
アルフレッドは肩をすくめながら苦笑する。
「せっかくの旅行なのに、初日から王子様の逃走劇とはね。なかなか刺激的な歓迎だ」
その軽口に、少しだけ空気が和らぐ。
オスカーは車体を確認しながら、小さく安堵の息を漏らした。
「……車は問題ありません。このまま街まで走れます」
颯太はなおも道路の先を見つめていた。
「でも、本当に今は…あの人を助けなくていいんですか?」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
やがてエドワードが静かに口を開く。
「助けるよ」
短く、はっきりと言い切る。
その場の全員が彼を見た。
「だが、それは今ではない」
蒼い瞳が細くなる。
「敵の規模も、目的も、勢力も分からないまま飛び込めば、それは救出ではなく無謀だ」
彼は静かに白手袋の指先を整えた。
「準備を整え、情報を集め、確実に助け出す。そのためにも、今日は宿を確保する」
アレクシアは黙ってエドワードを見つめていた。
幼い頃から何度も見てきた祖父の表情だった。
穏やかで、冷静で、そして一度決めたことは必ず実行する男の顔。
その姿を見るうちに、高ぶっていた感情が少しずつ落ち着いていく。
やがて彼女は小さく息を吐き、静かに頷いた。
「……分かった」
その返事を聞いたエドワードは、満足そうに微笑む。
「いい子だ」
そう言うと、彼はヴァレンティア王国の巨大な城壁へ視線を向けた。
白い石造りの城壁の向こうには、「薔薇と水の国」と呼ばれる美しい王都が広がっている。
旅はまだ始まったばかりだった。
しかし、その旅はすでに、一人の青年の運命と深く交わり始めていたことを、この時の彼らはまだ知らなかった。




