喫茶店ローズ第2章〜ヴァレンティア王国編4話〜 「せっかく旅行に来たのに」
ヴァレンティア王国の外縁を走る街道は、国境を越えた直後からその性質を変える。
整えられた石畳の両側には薔薇が咲き乱れ、手入れされた運河が道に沿うように流れている。水面は陽光を受けて細かく揺れ、まるで街そのものが光を吸い込んでいるかのようだった。
「本当に、綺麗な国ですね」
アンナは窓に身を寄せ、外の景色を見つめていた。
「薔薇と水の国、というのも納得です」
「観光としては、完璧だな」
颯太は短く返しながら、同じ方向へ視線を向ける。
平和。
その言葉が自然と浮かぶ。
だが、その静けさは長く続かなかった。
遠くから、異質な音が混ざり始める。
風でも馬車でもない。機械の唸りに近い音だった。
「……車?」
オスカーが顔を上げる。
次の瞬間、それは視界に現れた。
黒塗りの車両が、街道を破壊するような勢いで走ってくる。速度は明らかに異常だった。後輪は滑り、土を巻き上げながら制御を失っているようにも見える。
さらにその背後。
同じ黒い車両が複数台、正確な隊列で追跡していた。
逃走と追跡。
明確な構図だった。
「何だ、あれ……」
アルフレッドの声が低くなる。
その瞬間、追われている側の車がこちらへと進路を振った。
逃げ場として選ばれたのか、それとも偶然か。
判断する間もなく、窓が開く。
中にいた青年が叫んだ。
「どいて!!」
整った顔立ち。黒髪。深い青の瞳。
身なりは上質だが、今はそれを気にしている余裕はない。必死の表情だった。
直後、追跡車の窓から火花が散る。
銃声。
乾いた音が空気を裂いた。
後方のガラスが砕ける。
アンナが息を呑む。
「撃たれてる……!」
「状況が悪いな」
エドワードが静かに呟いた。
アルフレッドは即座に動いた。
燕尾服の内側から銃を抜き、追跡車へ照準を合わせる。
「タイヤを潰す」
合理的な判断だった。
しかし――
「やめろ!!」
叫んだのは、撃たれかけている本人だった。
アルフレッドの指が止まる。
「は?」
青年はハンドルを握ったまま、必死に首を振る。
「撃たないでくれ!!」
「追われてるんだろ」
「そうだけど!」
「じゃあ黙ってろ」
「黙れない!!」
意味の通らないやり取りだった。
青年は一瞬言葉を選び、そして絞り出すように言った。
「彼らを殺したくないんだ!」
その一言で、空気が変わる。
追跡車は明確に攻撃を続けている。
それでも青年は、そこに“殺意”ではなく“命令”を見ていた。
エドワードの視線がわずかに細くなる。
「……本気か」
その反応が答えだった。
偽善ではない。理想でもない。
ただの意志だった。
しかし、その意志は今の状況ではあまりに危うい。
「来るわよ!」
アレクシアの声。
再び銃撃。
アレクシアは車窓の外を見据えながら叫んだ。
「オスカー! あの車に近づけて!」
前方を猛スピードで走る黒い高級車。その後ろには数台の追跡車が食らいついている。銃を持った男たちの姿まで見えた。
運転席のオスカーは青ざめた顔でハンドルを握り締める。
「む、無茶です……!」
「いいから!」
「はいぃっ!」
悲鳴混じりの返事と同時にアクセルが踏み込まれた。
車体が大きく唸りを上げる。
アンナが後部座席で悲鳴を上げた。
「アレクシア様!?」
「捕まってなさい!」
距離は急速に縮まっていく。
風圧が窓を震わせた。
追跡車から発砲音が響く。
その瞬間、アレクシアは迷わずドアを開いた。
「おい」
エドワードが呆れた声を出す。
「死ぬなよ」
「努力するわ」
次の瞬間には飛び出していた。
風が全身を叩く。
車と車の隙間。
ほんのわずかな距離。
アレクシアは黒い車の窓枠を掴み、そのまま助手席へ身体を滑り込ませた。
運転席の青年が絶句する。
深い青の瞳、整った顔立ち。
驚きで固まった表情。
「なっ……!?」
「説明は後!」
アレクシアは叫んだ。
「このままじゃ追いつかれる!」
青年は混乱したまま彼女を見る。
「いや、君誰!?」
「旅行者!」
「旅行者は走行中の車に飛び乗らない!」
至極真っ当な意見だった。
しかしアレクシアは聞いていない。
「ハンドル貸して」
「貸さない!」
「貸しなさい!」
「嫌だ!」
「頑固!」
「君にだけは言われたくない!」
怒鳴り合いながら二人とも気付いていなかった。
前方の道路に。
石壁が迫っていることに。
青年の表情が変わった。
「まずい」
その一言にアレクシアも視線を向ける。
急カーブ。
速度。
タイミング。
全てが噛み合っていなかった。
「やばっ」
「やめろ!」
青年が叫ぶ。
アレクシアがハンドルへ伸ばした手を掴む。
「危ない!」
次の瞬間だった。
強い力で身体を引き寄せられる。
気付けば青年の胸に抱き込まれていた。
「きゃっ――」
轟音。
激しい衝撃。
車体が石壁へ激突した。
金属が悲鳴を上げる。
窓ガラスが砕け散る。
視界が白く弾けた。
やがて。
静寂が訪れる。
風だけが吹いていた。
アレクシアはゆっくり目を開いた。
身体は動く。
痛みもない。
不思議に思って顔を上げる。
そこでようやく気付いた。
自分が青年の腕の中にいることに。
青年は壁側へ身体を向けていた。
まるで盾になるように。
アレクシアは数秒沈黙した。
青年も何も言わない。
先に口を開いたのは青年だった。
「……怪我は?」
低く穏やかな声だった。
アレクシアは身体を起こす。
「ないわ」
そして青年を見る。
額から血が流れていた。
「あなたはあるみたいだけど」
青年は額を触った。
指先に赤が付く。
「ああ」
苦笑する。
「たいしたことないよ」
「十分たいしたことあるわ」
「そうかな」
「そうよ」
即答だった。
青年は思わず笑う。
「君、面白いね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
青年は小さく息を吐いた。
そして窓の外を見つめる。
追跡車は見えない。
遠くには薔薇畑が広がっていた。
風に揺れる花々が陽光を反射している。
あまりにも穏やかな景色だった。
「ごめん」
不意に青年が言った。
アレクシアが視線を向ける。
「せっかく旅行に来たのに」
青年は苦笑した。
「こんなことに巻き込んでしまった」
今度の謝罪には冗談がなかった。
本気で申し訳なく思っているのが伝わる。
アレクシアは少しだけ彼を見つめた。
整った横顔。
疲れた目。
責任を抱え込んだ人間特有の表情。
「別にいいわ」
「いいの?」
「あなたのせいじゃないもの」
青年は少し驚いたようだった。
アレクシアは続ける。
「それに」
「うん?」
「逃げてる人の顔くらい見れば分かる」
青年が黙る。
「自分のためだけに逃げてる顔じゃなかった」
風が吹いた。
薔薇の花弁が一枚、窓から入り込む。
青年はそれを見つめたまま呟く。
「国を守りたいんだ」
静かな声だった。
「でも国民も傷付けたくない」
アレクシアは何も言わない。
青年は続けた。
「追ってきた連中も本当は国の人間なんだ」
苦しそうな笑みを浮かべる。
「敵じゃない」
「でも追われてる」
「そう」
「面倒ね」
思わず本音が出た。
青年は吹き出した。
「面倒だよ」
「でしょうね」
「かなりね」
二人は少しだけ笑った。
その空気が、先ほどまでの緊張を和らげる。
青年は改めてアレクシアを見る。
「そういえば名乗ってなかった」
「そうね」
「僕はセリオ」
青い瞳が真っ直ぐ向けられる。
「セリオ・ダルヴァル・ヴァレンティア」
アレクシアは一瞬だけ固まった。
「……ふーん」
「うん」
「そう」
「うん」
「あなた、何したの?」
「逃亡」
即答だった。
アレクシアは額を押さえた。
「頭痛がしてきたわ」
セリオは申し訳なさそうに笑った。
その時だった。
遠くからエンジン音が聞こえてくる。
二人が振り返る。
林道の向こうから一台の車が現れた。
ボンネットはへこみ、ドアには傷が増え、見るからに満身創痍である。
それでも走っている。
運転席ではオスカーが泣きそうな顔でハンドルを握り、助手席からアルフレッドが身を乗り出していた。
「おーい!生きてるかー!」
「生きてますぅぅぅ!」
オスカーの絶叫が響く。
後部座席ではアンナが涙目になっており、颯太は疲れ切った表情を浮かべ、エリオットとセドリックは安堵した表情。ガブリエルは静かに祈りを捧げていた。
その光景を見たセリオは思わず吹き出した。
「彼らは?」
「私の家族みたいなものよ」
「賑やかだね」
「かなりね」
セリオは笑った。
事故の直後だというのに、不思議と心が軽くなっていることに気付く。
薔薇の国へ吹く風は穏やかだった。
そして彼はまだ知らない。
この出会いが、自分の運命を大きく変えていくことになるのを。




