↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喫茶店ローズ  作者: 環状線在住送り犬
喫茶店ローズ第2章〜ヴァレンティア王国編〜
PR
54/129

喫茶店ローズ第二章〜3話ヴァレンティア王国はどうでしょう〜

店内には穏やかな静けさが流れ、食器の触れ合う音や遠くの厨房から聞こえる包丁の音だけが、ゆっくりと空間を満たしている。


アンナが旅行の話を持ち出してからしばらく経っていた。


最初は思いつきのような雑談だったはずなのに、不思議と誰も完全には流さなかった。


それどころか、少しずつ現実味を帯び始めている。


そんな空気の中だった。


「では、ヴァレンティア王国はどうでしょう」

穏やかな声が静かに響いた。エリオットだった。


彼はティーポットを手にしたまま、ごく自然な動作でカップへ紅茶を注いでいる。


まるで今日の天気を話すような口調だった。

だが、その一言に店内の視線が集まった。


「ヴァレンティア、ですか?」


アンナが首を傾げる。

エリオットは微笑んだ。


「ええ。“薔薇と水の国”と呼ばれている王国です」


その言葉に、アンナの目が少しだけ輝く。


エリオットは紅茶の香りを確かめるように目を細めながら続けた。


「王都には大きな運河が張り巡らされておりまして、水路沿いには薔薇が植えられています。街全体が花と水によって彩られているのです」


店の窓から差し込む光の中で、彼の声は静かに流れていく。


「王家の紋章にも薔薇が描かれております。王宮には広大な薔薇園があり、代々の王族が散策や休息に用いてきた場所として有名ですね」


アンナは思わず息を呑んだ。


頭の中に景色が浮かんでいるのだろう。


花で満たされた庭園。


透き通る水路。


陽光を反射する噴水。


まだ見たこともない国なのに、その光景はどこか夢のように美しく感じられた。


「きれい……」


自然に零れた呟きだった。


エリオットは穏やかに頷く。


「薔薇は美と愛を象徴し、水は清らかさと流れを意味しております。その思想は建築や芸術だけでなく、人々の生活にも深く根付いております」


その説明を聞きながら、颯太は窓の外を眺めていた。


だが見ているのは店の前の通りではない。


頭の中で組み上がる景色だった。


風に揺れる花。


ゆっくり流れる水。


騒音のない空間。


胸の奥に沈んでいた疲れが、少しだけ軽くなるような場所。


「……静かそうだな」


気づけばそう口にしていた。


エリオットは微笑む。


「ええ。観光客はおりますが、王都の外れや王宮周辺の庭園であれば、とても穏やかな時間を過ごせます」


まるで颯太が求めるものを知っていたかのような返答だった。


颯太は小さく息を吐く。


悪くない。


むしろ、かなりいい。


「いいかもしれません」


そう答えると、アンナが勢いよく振り返った。


「本当ですか?」


「ああ」


今度は迷わなかった。


アンナの顔がぱっと明るくなる。


「薔薇園、見てみたいです」


その声は弾んでいた。


普段のアンナは誰かのために動くことが多い。


自分の希望を前に出すことは少ない。


だからこそ、その言葉はとても素直な願いに聞こえた。


アレクシアは腕を組みながら静かに考えている。


店長らしい視線だった。


夢ではなく現実として成立するかを見ている。


「距離は?」


短い質問。

エリオットは即座に答えた。


「移動時間を考慮しても問題ありません」


「治安は?」


「王都周辺であれば非常に良好です」


無駄のないやり取りだった。


アレクシアはしばらく黙る。


全員がその判断を待った。


厨房ではオスカーが包丁を動かしている。

エドワードは黙って紅茶を飲んでいる。

アルフレッドだけが面白そうに状況を眺めていた。


やがて、


「……悪くないわね」


アレクシアがそう言った。


アンナの表情がさらに明るくなる。


アルフレッドが笑った。


「ほら決まりじゃないか」


「まだ決まってないわ」


即座に返される。


だが、その声に否定の色は薄かった。


調整すべきことはある。


日程も予算も確認しなければならない。


それでも、誰も反対していない。

それが答えだった。

颯太は再び窓の外へ視線を向ける。


いつもの街並みが広がっている。

見慣れた景色だ。


けれど、少し先には別の景色が待っている気がした。


水の流れる音。薔薇の香り。

穏やかな風。

その光景を想像していると、近くから小さな声が聞こえた。


「楽しみです」

アンナだった。

まるで自分に言い聞かせるような声。


けれど、その瞳には確かな期待が宿っている。


颯太はその横顔を見て、何も言わなかった。


ただ静かに紅茶を口へ運ぶ。


少し冷めてしまった紅茶は、それでも不思議といつもより美味しく感じられた。


旅行の計画は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。