喫茶店ローズ第二章〜3話ヴァレンティア王国はどうでしょう〜
店内には穏やかな静けさが流れ、食器の触れ合う音や遠くの厨房から聞こえる包丁の音だけが、ゆっくりと空間を満たしている。
アンナが旅行の話を持ち出してからしばらく経っていた。
最初は思いつきのような雑談だったはずなのに、不思議と誰も完全には流さなかった。
それどころか、少しずつ現実味を帯び始めている。
そんな空気の中だった。
「では、ヴァレンティア王国はどうでしょう」
穏やかな声が静かに響いた。エリオットだった。
彼はティーポットを手にしたまま、ごく自然な動作でカップへ紅茶を注いでいる。
まるで今日の天気を話すような口調だった。
だが、その一言に店内の視線が集まった。
「ヴァレンティア、ですか?」
アンナが首を傾げる。
エリオットは微笑んだ。
「ええ。“薔薇と水の国”と呼ばれている王国です」
その言葉に、アンナの目が少しだけ輝く。
エリオットは紅茶の香りを確かめるように目を細めながら続けた。
「王都には大きな運河が張り巡らされておりまして、水路沿いには薔薇が植えられています。街全体が花と水によって彩られているのです」
店の窓から差し込む光の中で、彼の声は静かに流れていく。
「王家の紋章にも薔薇が描かれております。王宮には広大な薔薇園があり、代々の王族が散策や休息に用いてきた場所として有名ですね」
アンナは思わず息を呑んだ。
頭の中に景色が浮かんでいるのだろう。
花で満たされた庭園。
透き通る水路。
陽光を反射する噴水。
まだ見たこともない国なのに、その光景はどこか夢のように美しく感じられた。
「きれい……」
自然に零れた呟きだった。
エリオットは穏やかに頷く。
「薔薇は美と愛を象徴し、水は清らかさと流れを意味しております。その思想は建築や芸術だけでなく、人々の生活にも深く根付いております」
その説明を聞きながら、颯太は窓の外を眺めていた。
だが見ているのは店の前の通りではない。
頭の中で組み上がる景色だった。
風に揺れる花。
ゆっくり流れる水。
騒音のない空間。
胸の奥に沈んでいた疲れが、少しだけ軽くなるような場所。
「……静かそうだな」
気づけばそう口にしていた。
エリオットは微笑む。
「ええ。観光客はおりますが、王都の外れや王宮周辺の庭園であれば、とても穏やかな時間を過ごせます」
まるで颯太が求めるものを知っていたかのような返答だった。
颯太は小さく息を吐く。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
「いいかもしれません」
そう答えると、アンナが勢いよく振り返った。
「本当ですか?」
「ああ」
今度は迷わなかった。
アンナの顔がぱっと明るくなる。
「薔薇園、見てみたいです」
その声は弾んでいた。
普段のアンナは誰かのために動くことが多い。
自分の希望を前に出すことは少ない。
だからこそ、その言葉はとても素直な願いに聞こえた。
アレクシアは腕を組みながら静かに考えている。
店長らしい視線だった。
夢ではなく現実として成立するかを見ている。
「距離は?」
短い質問。
エリオットは即座に答えた。
「移動時間を考慮しても問題ありません」
「治安は?」
「王都周辺であれば非常に良好です」
無駄のないやり取りだった。
アレクシアはしばらく黙る。
全員がその判断を待った。
厨房ではオスカーが包丁を動かしている。
エドワードは黙って紅茶を飲んでいる。
アルフレッドだけが面白そうに状況を眺めていた。
やがて、
「……悪くないわね」
アレクシアがそう言った。
アンナの表情がさらに明るくなる。
アルフレッドが笑った。
「ほら決まりじゃないか」
「まだ決まってないわ」
即座に返される。
だが、その声に否定の色は薄かった。
調整すべきことはある。
日程も予算も確認しなければならない。
それでも、誰も反対していない。
それが答えだった。
颯太は再び窓の外へ視線を向ける。
いつもの街並みが広がっている。
見慣れた景色だ。
けれど、少し先には別の景色が待っている気がした。
水の流れる音。薔薇の香り。
穏やかな風。
その光景を想像していると、近くから小さな声が聞こえた。
「楽しみです」
アンナだった。
まるで自分に言い聞かせるような声。
けれど、その瞳には確かな期待が宿っている。
颯太はその横顔を見て、何も言わなかった。
ただ静かに紅茶を口へ運ぶ。
少し冷めてしまった紅茶は、それでも不思議といつもより美味しく感じられた。
旅行の計画は、まだ始まったばかりだった。




