〜喫茶店ローズ2章〜2話「旅行に行きたいです!」
午後の光が、喫茶店ローズの床にやわらかく落ちていた。
磨かれた木目の上に、窓越しの影がゆっくりと伸びていく。店内には客も少なく、静かな時間が流れていた。カップが触れ合う微かな音と、厨房から聞こえる包丁の規則的なリズムだけが、空間に確かな輪郭を与えている。
高城颯太はカウンター席に座り、湯気の立つ紅茶に視線を落としていた。
琥珀色の液面がわずかに揺れる。その揺らぎを、意味もなく見つめる。
落ち着く時間だった。
考えごとをするには、こういう静けさがちょうどいい。
「旅行に行きたいです!」
その静寂を、軽やかな声が破った。
颯太はゆっくりと顔を上げる。
アンナが、トレイを抱えたまま立っていた。瞳をきらきらと輝かせ、まるで思いついたことをそのまま形にしたような勢いで。
「……旅行?」
思わず聞き返す。
「はい!」
アンナは大きく頷いた。
「どこか遠くに行ってみたいです。海とか、山とか……あ、温泉もいいですね」
言葉が止まらない。
その様子は、普段の丁寧な接客とは少し違っていた。もっと素直で、もっと子どもらしい願いに近い。
颯太はカップを置く。
「急だな」
「そうでしょうか?」
不思議そうに首をかしげる。
その仕草に、颯太は小さく息を吐いた。
「そうだろ」
アンナは少しだけ考えてから、ふっと笑う。
「でも、たまにはいいかなって思いまして」
その一言が、妙に引っかかった。
“たまには”。
軽く言ったようでいて、その奥に何かがある。
颯太はそれ以上踏み込まない。
ただ問いを変える。
「どこ行きたいんだ」
アンナの表情が、ぱっと明るくなる。
「海です!」
迷いのない答えだった。
「広くて、きれいで……それで、のんびりできるところがいいです」
その言葉を聞きながら、颯太は一瞬、景色を思い浮かべる。
音の少ない場所。風だけがある場所。
「……いいな」
気づけば、そう口にしていた。
アンナが少し驚いたように目を見開く。
「颯太さんも、ですか?」
「ああ」
短く答える。
「静かな場所は好きだ」
嘘ではなかった。
むしろ、そういう場所でなければ落ち着かない。
アンナは嬉しそうに微笑む。
「じゃあ一緒ですね」
その言葉に、颯太はわずかに言葉を失う。
「……一緒って」
「あ、すみません」
アンナは慌てて頭を下げた。
「変な意味じゃなくてですね、その……」
言葉を探している。
颯太はそれを遮るように言う。
「わかってる」
それで十分だった。
アンナはほっとしたように息をつく。
そのとき、
「旅行、ね」
低く、よく通る声が背後から落ちた。
アレクシアだった。
いつの間にかカウンターの奥に立っている。
その視線は穏やかでありながら、どこか測るようでもあった。
「店を空ける気?」
軽く笑いながら言う。
アンナがびくりと肩を揺らす。
「い、いえ、そんなつもりでは……!」
「冗談よ」
アレクシアはあっさりと言い、腕を組む。
そして少しだけ間を置いた。
「でも、悪くないわね」
その一言に、アンナの顔が上がる。
「本当ですか?」
「ええ」
アレクシアは視線を店内へと流す。
「全員で行くなら、ね」
その言葉は、思っていた以上に重かった。
颯太は眉をひそめる。
「全員って」
「そのままの意味よ」
淡々とした口調。
「店を閉めて、まとめて休む」
現実離れした提案だった。
だが、この店に限っては、完全に否定できない。
「面白い案だ」
別の声が重なる。
振り向くと、エドワードが立っていた。
気配はなかった。
その背後にはアルフレッドもいる。
「いいねぇ、旅行」
楽しげに笑っている。
その笑みには、間違いなく何か含まれている。
アンナは戸惑いながらも、どこか期待を滲ませていた。
颯太はその様子を見つめる。
静かな日常の中に、少しだけ違う流れが入り込んできている。
それが悪いものではないと、どこかで感じている自分がいる。
「……本気で言ってるのか」
問いかける。
アレクシアはわずかに口元を緩める。
「どう思う?」
試すような視線。
颯太は少し考えてから、
「半分くらい」
と答えた。
アレクシアは満足そうに目を細める。
「正解」
アンナが小さく笑った。
その笑い声は、店の静けさに溶けるように広がっていく。
まだ何も決まってはいない。
けれど、確かに何かが動き出していた。
その「動き」は、すぐには形にならなかった。
その「動き」は、すぐには形にならなかった。
だが、一度口に出された言葉は、思っている以上に場に残る。
午後の営業が終わる頃には、店の中の空気がわずかに変わっていた。
いつもと同じはずの動きの中に、どこか落ち着かないものが混じっている。
「で、どこ行く?」
アルフレッドがカウンターに腰掛けたまま言った。
完全に乗り気だった。
アレクシアは帳簿を閉じながら答える。
「まだ決めてないわ」
「海がいいです!」
アンナがすぐに口を挟む。
迷いがない。
アルフレッドはにやりと笑う。
「いいねぇ、海。開放的でさ」
その言い方が、どう考えても別の意味を含んでいる。
「余計なこと考えてるでしょ」
アレクシアが即座に釘を刺す。
「失礼だな」
全く反省していない顔で返す。
颯太は少し離れた席でそのやり取りを聞いていた。
賑やかだ、と思う。
嫌ではない。
むしろ、こういう空気は嫌いじゃない。
「海か……」
小さく呟く。
自然と視線が窓の外へ向く。
見えるのは街の景色だけだが、頭の中には別の風景が浮かんでいた。
波の音。
風。
何もない空間。
そのとき、
「静かな場所がいいんだろ」
低い声が横から落ちた。
エドワードだった。
いつの間に隣に立っている。
颯太は一瞬だけ驚くが、すぐに落ち着く。
「……はい」
「なら、観光地は外せ」
淡々と言う。
「人が多い場所は、お前には合わない」
的確だった。
言い返す余地がない。
颯太は少しだけ苦笑する。
「そうかもしれません」
エドワードは軽く肩をすくめる。
「場所は選べ。旅行は“どこに行くか”でほとんど決まる」
その言葉には、妙な説得力があった。
経験に裏打ちされたもの。
ただの雑談ではない。
颯太は小さく頷く。
「……考えてみます」
そのやり取りを、少し離れた場所からアンナが見ていた。
興味深そうに。
そして、少しだけ嬉しそうに。
「颯太さん、乗り気ですね」
不意に言われる。
颯太は少しだけ視線を逸らす。
「……まだ決まったわけじゃない」
「でも、考えてますよね」
図星だった。
颯太は短く息を吐く。
「……まあな」
アンナは柔らかく笑う。
その笑顔は、どこか安心したようにも見えた。
「よかったです」
小さな声。
その言葉の意味を、颯太は深くは聞かなかった。
聞かなくても、なんとなくわかる気がしたからだ。
そのとき、
厨房の方から物音がする。
ガタン、と少し大きめの音。
全員の視線がそちらに向く。
オスカーだった。
手を止めて固まっている。
「……すみません」
小さな声で言う。
どうやら鍋を落としかけたらしい。
アレクシアがため息をつく。
「怪我は?」
「い、いえ……大丈夫です」
「ならいい」
それだけで終わる。
責めることはしない。
ただ確認だけ。
オスカーはほっとしたように頷き、再び作業に戻る。
その様子を見て、アンナが小さく笑う。
「みんなで旅行、楽しそうですね」
ぽつりとこぼす。
その言葉に、店の空気が一瞬だけ静かになる。
誰も否定しない。
誰もすぐには肯定もしない。
ただ、少しだけ現実味を帯びた。
アレクシアが視線を上げる。
「日程、調整するわ」
静かに言う。
それは、ほぼ決定に近い言葉だった。
アルフレッドが口笛を吹く。
「決まりだな」
エドワードは何も言わない。
ただ、わずかに目を細めていた。
颯太はその光景を見て、ゆっくりとカップを手に取る。
紅茶はもう冷めかけていた。
それでも一口飲む。
味は変わらない。
だが、さっきより少しだけ、違って感じた。




