↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喫茶店ローズ  作者: 環状線在住送り犬
喫茶店ローズ第2章〜ヴァレンティア王国編〜
PR
53/129

〜喫茶店ローズ2章〜2話「旅行に行きたいです!」

午後の光が、喫茶店ローズの床にやわらかく落ちていた。


磨かれた木目の上に、窓越しの影がゆっくりと伸びていく。店内には客も少なく、静かな時間が流れていた。カップが触れ合う微かな音と、厨房から聞こえる包丁の規則的なリズムだけが、空間に確かな輪郭を与えている。


高城颯太はカウンター席に座り、湯気の立つ紅茶に視線を落としていた。


琥珀色の液面がわずかに揺れる。その揺らぎを、意味もなく見つめる。


落ち着く時間だった。


考えごとをするには、こういう静けさがちょうどいい。


「旅行に行きたいです!」


その静寂を、軽やかな声が破った。


颯太はゆっくりと顔を上げる。


アンナが、トレイを抱えたまま立っていた。瞳をきらきらと輝かせ、まるで思いついたことをそのまま形にしたような勢いで。


「……旅行?」


思わず聞き返す。


「はい!」


アンナは大きく頷いた。


「どこか遠くに行ってみたいです。海とか、山とか……あ、温泉もいいですね」


言葉が止まらない。


その様子は、普段の丁寧な接客とは少し違っていた。もっと素直で、もっと子どもらしい願いに近い。


颯太はカップを置く。


「急だな」


「そうでしょうか?」


不思議そうに首をかしげる。


その仕草に、颯太は小さく息を吐いた。


「そうだろ」


アンナは少しだけ考えてから、ふっと笑う。


「でも、たまにはいいかなって思いまして」


その一言が、妙に引っかかった。


“たまには”。


軽く言ったようでいて、その奥に何かがある。


颯太はそれ以上踏み込まない。


ただ問いを変える。


「どこ行きたいんだ」


アンナの表情が、ぱっと明るくなる。


「海です!」


迷いのない答えだった。


「広くて、きれいで……それで、のんびりできるところがいいです」


その言葉を聞きながら、颯太は一瞬、景色を思い浮かべる。


音の少ない場所。風だけがある場所。


「……いいな」


気づけば、そう口にしていた。


アンナが少し驚いたように目を見開く。


「颯太さんも、ですか?」


「ああ」


短く答える。


「静かな場所は好きだ」


嘘ではなかった。


むしろ、そういう場所でなければ落ち着かない。


アンナは嬉しそうに微笑む。


「じゃあ一緒ですね」


その言葉に、颯太はわずかに言葉を失う。


「……一緒って」


「あ、すみません」


アンナは慌てて頭を下げた。


「変な意味じゃなくてですね、その……」


言葉を探している。


颯太はそれを遮るように言う。


「わかってる」


それで十分だった。


アンナはほっとしたように息をつく。


そのとき、


「旅行、ね」


低く、よく通る声が背後から落ちた。


アレクシアだった。


いつの間にかカウンターの奥に立っている。


その視線は穏やかでありながら、どこか測るようでもあった。


「店を空ける気?」


軽く笑いながら言う。


アンナがびくりと肩を揺らす。


「い、いえ、そんなつもりでは……!」


「冗談よ」


アレクシアはあっさりと言い、腕を組む。


そして少しだけ間を置いた。


「でも、悪くないわね」


その一言に、アンナの顔が上がる。


「本当ですか?」


「ええ」


アレクシアは視線を店内へと流す。


「全員で行くなら、ね」


その言葉は、思っていた以上に重かった。


颯太は眉をひそめる。


「全員って」


「そのままの意味よ」


淡々とした口調。


「店を閉めて、まとめて休む」


現実離れした提案だった。


だが、この店に限っては、完全に否定できない。


「面白い案だ」


別の声が重なる。


振り向くと、エドワードが立っていた。


気配はなかった。


その背後にはアルフレッドもいる。


「いいねぇ、旅行」


楽しげに笑っている。


その笑みには、間違いなく何か含まれている。


アンナは戸惑いながらも、どこか期待を滲ませていた。


颯太はその様子を見つめる。


静かな日常の中に、少しだけ違う流れが入り込んできている。


それが悪いものではないと、どこかで感じている自分がいる。


「……本気で言ってるのか」


問いかける。


アレクシアはわずかに口元を緩める。


「どう思う?」


試すような視線。


颯太は少し考えてから、


「半分くらい」


と答えた。


アレクシアは満足そうに目を細める。


「正解」


アンナが小さく笑った。

その笑い声は、店の静けさに溶けるように広がっていく。

まだ何も決まってはいない。

けれど、確かに何かが動き出していた。

その「動き」は、すぐには形にならなかった。

その「動き」は、すぐには形にならなかった。


だが、一度口に出された言葉は、思っている以上に場に残る。


午後の営業が終わる頃には、店の中の空気がわずかに変わっていた。


いつもと同じはずの動きの中に、どこか落ち着かないものが混じっている。


「で、どこ行く?」


アルフレッドがカウンターに腰掛けたまま言った。


完全に乗り気だった。


アレクシアは帳簿を閉じながら答える。


「まだ決めてないわ」


「海がいいです!」


アンナがすぐに口を挟む。


迷いがない。


アルフレッドはにやりと笑う。


「いいねぇ、海。開放的でさ」


その言い方が、どう考えても別の意味を含んでいる。


「余計なこと考えてるでしょ」


アレクシアが即座に釘を刺す。


「失礼だな」


全く反省していない顔で返す。


颯太は少し離れた席でそのやり取りを聞いていた。


賑やかだ、と思う。


嫌ではない。


むしろ、こういう空気は嫌いじゃない。


「海か……」


小さく呟く。


自然と視線が窓の外へ向く。


見えるのは街の景色だけだが、頭の中には別の風景が浮かんでいた。


波の音。


風。


何もない空間。


そのとき、


「静かな場所がいいんだろ」


低い声が横から落ちた。


エドワードだった。


いつの間に隣に立っている。


颯太は一瞬だけ驚くが、すぐに落ち着く。


「……はい」


「なら、観光地は外せ」


淡々と言う。


「人が多い場所は、お前には合わない」


的確だった。


言い返す余地がない。


颯太は少しだけ苦笑する。


「そうかもしれません」


エドワードは軽く肩をすくめる。


「場所は選べ。旅行は“どこに行くか”でほとんど決まる」


その言葉には、妙な説得力があった。


経験に裏打ちされたもの。


ただの雑談ではない。


颯太は小さく頷く。


「……考えてみます」


そのやり取りを、少し離れた場所からアンナが見ていた。


興味深そうに。


そして、少しだけ嬉しそうに。


「颯太さん、乗り気ですね」


不意に言われる。


颯太は少しだけ視線を逸らす。


「……まだ決まったわけじゃない」


「でも、考えてますよね」


図星だった。


颯太は短く息を吐く。


「……まあな」


アンナは柔らかく笑う。


その笑顔は、どこか安心したようにも見えた。


「よかったです」


小さな声。


その言葉の意味を、颯太は深くは聞かなかった。


聞かなくても、なんとなくわかる気がしたからだ。


そのとき、


厨房の方から物音がする。


ガタン、と少し大きめの音。


全員の視線がそちらに向く。


オスカーだった。


手を止めて固まっている。


「……すみません」


小さな声で言う。


どうやら鍋を落としかけたらしい。


アレクシアがため息をつく。


「怪我は?」


「い、いえ……大丈夫です」


「ならいい」


それだけで終わる。


責めることはしない。


ただ確認だけ。


オスカーはほっとしたように頷き、再び作業に戻る。


その様子を見て、アンナが小さく笑う。


「みんなで旅行、楽しそうですね」


ぽつりとこぼす。


その言葉に、店の空気が一瞬だけ静かになる。


誰も否定しない。


誰もすぐには肯定もしない。


ただ、少しだけ現実味を帯びた。


アレクシアが視線を上げる。


「日程、調整するわ」


静かに言う。

それは、ほぼ決定に近い言葉だった。

アルフレッドが口笛を吹く。


「決まりだな」


エドワードは何も言わない。

ただ、わずかに目を細めていた。


颯太はその光景を見て、ゆっくりとカップを手に取る。

紅茶はもう冷めかけていた。

それでも一口飲む。

味は変わらない。


だが、さっきより少しだけ、違って感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。