喫茶店ローズ番外編「こんな時しか会えないから」
潮の匂いが、風に乗ってくる。
ロウは車から降りた瞬間、わずかに視線を上げた。
海。
広い。
遠くまで続く水平線。
隣でジンドウが、軽く肩を回す。
「……久しぶりだな」
短く呟く声は、いつもより少しだけ緩んでいた。
ロウは何も言わない。
ただ、周囲を一通り確認する。
古びた家。
網。
干された魚。
生活の匂いが、濃い。
その時——
「おおおおお!!」
大声。
地面が揺れたような錯覚。
振り向く。
そこにいたのは——
でかい。
とにかく、でかい。
丸太みたいな腕。
日焼けした肌。
白髪混じりの髪と髭。
そして、満面の笑み。
まさに“クマ”。
「ジンドウ!!帰ってきたかァ!!」
祖父だった。
ジンドウは一瞬、顔をしかめてから、
「うるせえよ、じいさん」
と返す。
だが、声はどこか柔らかい。
祖父は気にした様子もなく、どしどしと近づいてくる。
そして——
ロウの前で止まった。
じっと見る。
数秒。
その大きな目が、ぐっと細くなる。
「……お前も来たか」
低く、しかし優しい声。
ロウはわずかに視線を動かす。
覚えている。
この人間は——
「相変わらずでかいなァ」
祖父は豪快に笑う。
そして、何の遠慮もなく——
ロウの頭を、ぐしゃっと撫でた。
ジンドウが眉をひそめる。
「おい、やめろ」
だが祖父は気にしない。
「いいだろ別に!昔からこうだ!」
ロウは——動かない。
抵抗もしない。
ただ、受け入れている。
その様子を見て、祖父は満足そうにうなずいた。
「変わってねえな」
ぽつりと。
その一言に、妙な重みがあった。
⸻
家の中。
木の匂い。
少し古いが、手入れは行き届いている。
ロウは靴を脱ぎ、静かに上がる。
その動作を見て、祖父が笑う。
「ちゃんと覚えてるじゃねえか」
ロウは返さない。
だが、わずかに動きが止まる。
昔、教えられた。
この家での“普通”を。
「ほら座れ座れ!」
祖父はどかっと座り、二人を手招きする。
テーブルには、すでに料理が並んでいた。
魚。
汁物。
素朴だが、力強い。
ジンドウが座りながら言う。
「相変わらず多いな」
「足りねえよりいいだろ!」
即答。
ロウは静かに座る。
視線が、料理に落ちる。
そして——
ほんのわずかに、止まる。
祖父はそれを見逃さない。
「食え」
短く言う。
「遠慮すんな」
その言葉は、昔と同じだった。
ロウの手が動く。
箸を取る。
一口。
ゆっくり噛む。
味が、広がる。
その瞬間——
ほんのわずかに、
ロウの動きが止まった。
記憶が、引きずり出される。
まだ小さかった頃。
この家。
この味。
言葉は出ない。
だが——
もう一口、食べる。
祖父はそれを見て、満足そうに笑った。
「うまいか」
ロウは答えない。
代わりに、
ほんのわずかに、うなずいた。
それで十分だった。
⸻
夜。
波の音だけが聞こえる。
外の縁側。
ジンドウが座っている。
隣に、ロウ。
沈黙。
だが、気まずさはない。
しばらくして、ジンドウがぽつりと言う。
「……覚えてたか」
ロウは少しだけ視線を動かす。
答えない。
だが、その沈黙は否定ではない。
ジンドウは小さく笑う。
「だよな」
少し間。
「じいさん、ああ見えて全部覚えてるからな」
ロウは、家の方を見る。
明かりが、温かい。
「お前のことも」
短く続ける。
「普通に“家族”だと思ってる」
ロウの視線が、わずかに止まる。
波の音が、少し強くなる。
言葉はない。
だが——
ロウは、そこから動かなかった。
⸻
その夜。
祖父は寝る前に、ぽつりと呟いた。
「……帰ってきたな」
誰に向けたわけでもない。
だがその声は、確かに満ちていた。




