喫茶店ローズ番外編 颯太「ここまでハマるのか…?」
喫茶店ローズの午後は、変わらず静かだった。
だが——ひとつだけ、明確に“変わったもの”がある。
カウンター奥。
窓際の席。
鷹司の前に、積まれた本。
——『源氏物語』
——『伊勢物語』
——『竹取物語』
——そして、これまで颯太が持ち込んだ数々の書物。
カップの中の抹茶ラテは、すでに冷めている。
それでも、鷹司は気づかない。
ページをめくる音だけが、規則的に響いていた。
⸻
「……おい」
エドワードが、いつもの席から声をかける。
「聞いているのか、鷹司」
反応はない。
ページが一枚、めくられる。
「おい」
少しだけ声が低くなる。
それでも——反応はない。
エドワードの眉がぴくりと動く。
「……おい」
立ち上がる。
歩み寄る。
そして——
本を、指で軽く叩いた。
ぱし、と乾いた音。
ようやく。
鷹司の視線が、ほんのわずかに動いた。
「……何だ」
遅れて返る、低い声。
エドワードは呆れたように息を吐く。
「何だ、じゃない。三時間だぞ。僕を無視した時間がな」
鷹司は、ほんの一瞬だけ考え——
「ああ」
と、興味なさそうに返した。
「些事だ」
「些事で済ませるな」
エドワードは椅子を引いて座る。
「最近のお前、明らかにおかしいぞ」
鷹司は、何も言わずにページを閉じた。
その動きに無駄はない。
だが——
次の瞬間。
「……続きが気になる」
ぽつりと、落ちた。
エドワードが固まる。
「は?」
鷹司は本を見たまま言う。
「この“余白”が、思考を止めぬ。次を読まずには、収まらん」
静かだが、はっきりとした言葉。
エドワードはしばらく無言になり——
やがて、吹き出した。
「ははっ……!」
肩を揺らして笑う。
「なるほどな。落ちたか」
鷹司の眉が、わずかに動く。
「落ちた、とは」
「決まっているだろう」
エドワードは愉快そうに言う。
「物語にだよ」
沈黙。
鷹司は、否定しない。
⸻
その頃。
店の入口で、買い出しに行っていた颯太が足を止めていた。
中の様子を見て、少しだけ驚く。
(……まだ読んでる)
昨日も、その前も。
鷹司は、ほとんど同じ場所で本を開いていた。
颯太は静かに近づく。
「……鷹司さん」
声をかける。
鷹司は顔を上げる。
その目が——
ほんのわずかに、鋭さを増していた。
「少年」
短く呼ぶ。
「次はあるか」
間髪入れない問い。
颯太が一瞬だけ言葉に詰まる。
「え、あ……」
鷹司は続ける。
「より深いものだ。より歪み、より人を抉るもの」
その言葉は、静かだが確実に熱を帯びていた。
「足りぬ」
ぽつりと落ちる。
「まだ、足りぬ」
颯太は、その変化をはっきりと感じた。
前とは違う。
“興味”ではない。
“渇き”に近い。
だが——
どこか、楽しそうでもある。
颯太は小さく息を吸う。
「あったかな…」
そう答えると、
鷹司はほんのわずかにうなずいた。
それだけで、また本に視線を落とす。
⸻
エリオットが、そっと新しい抹茶ラテを置いた。
「冷めておりましたので」
鷹司は見ずに言う。
「すまぬ」
だが、手は止まらない。
セドリックが静かに付け加える。
「ほどほどに、なさってください」
その声には、わずかな苦笑が混じる。
鷹司は一瞬だけ止まり——
「善処する」
とだけ返した。
だが。
そのページは、すぐにまためくられる。
⸻
エドワードはそれを眺めながら、肩をすくめる。
「まったく……厄介な趣味を植え付けたな、少年」
颯太は少し困ったように笑う。
「そんなつもりはなかったんですけど……」
「いや、いい」
エドワードは口元を歪める。
「面白いものが見られる」
その視線の先で——
鷹司は静かに、本を読み続けている。
勝負の場とは違う。
だが確かにそこにあるのは、
“戦い”に近い集中。
文字と向き合い、
意味を削ぎ、
美を見出す。
そして——
ページをめくる。
その指先は、
ビリヤードのキューを構える時と、まったく同じだった。




