喫茶店ローズ番外編「おじさん」
ロウは、その男を見下ろしていた。
……誰だ。
言葉にはならない。ただ、視線だけが落ちる。
目の前の男は、あまりにも場違いだった。
にこにこと笑っている。
白髪。小柄。背中にはパンパンに膨らんだリュック。
片手にはしゃもじ。もう片方には野菜の入った袋。
しかも——
「……?」
男はロウを見上げて、首をかしげた。
本気で、何も分かっていない顔。
ロウの足元には、ついさっきまで敵だった連中が転がっている。
鉄パイプの残骸。砕けたコンクリ。まだ煙の匂いが残る。
普通なら、逃げる。
だがこの男は違った。
「いい体してるねえ!」
場が、止まった。
ロウの眉が、ほんのわずかに動く。
……何を言っている。
男は構わず近づいてくる。てくてくと、遠慮なく。
ロウは一歩も動かない。ただ、視線だけで追う。
「お兄さん、これ落とした?」
差し出されたのは——
血の付いたレンチ。
ロウがさっきまで使っていたものだ。
拾っていたのか、この男は。
ロウはそれを見て、それから男を見る。
……理解できない。
なぜ拾う。なぜ渡す。なぜ笑っている。
「危ないからねえ、こういうのはちゃんと持っとかないと」
男は、まるで近所の子供に注意するみたいな口調で言う。
ロウの手が、ゆっくり動いた。
レンチを受け取る。
その動作だけで、普通の人間なら怯む。だが——
男は嬉しそうにうなずいた。
「よしよし」
……よしよし?
ロウの思考が、わずかに止まる。
その間にも、男はロウの周りをぐるっと見回した。
「散らかしたねえ」
そして、しゃもじを掲げる。
「片付け、手伝おうか?」
ロウは、完全に沈黙した。
断る理由も、受ける理由も、浮かばない。
ただ一つ、はっきりしているのは——
この男は“普通じゃない”。
敵でもない。
味方でもない。
理解もできない。
ロウは、ほんのわずかに視線を細めた。
その反応をどう受け取ったのか、男はぱあっと笑う。
「よかった、怒ってないね!」
……怒る?
ロウは考える。
怒る理由が、見つからない。
ただ——
ひどく、調子が狂う。
そのとき、通信機が小さく鳴った。
『ロウ、状況は?』
ジンドウの声。
ロウは一瞬だけ、男を見る。
男はなぜか、手を振っている。誰に向けてかも分からないまま。
ロウは無言で通信機を押した。
短く、ひとこと。
「……不明」
『は?』
珍しく、ジンドウの声が素で崩れる。
ロウはもう一度、男を見る。
にこにこしている。しゃもじを握ったまま。
完全に——
「誰…?」
ぽつりと、漏れた。
ほとんど使わない声。
その言葉に、男は目を輝かせた。
「お、喋った!」
そして、胸を張る。
「通りすがりのおじさんだよ!」
ロウは思った。
——それは、答えになっていない。
だがその日から、
ロウの任務報告書に、ひとつだけ増えた項目がある。
【不明人物】
・敵対意思なし
・行動予測不能
・接触時、なぜか会話を試みてくる
そして備考欄には、珍しく手書きで——
「対応不能」
とだけ、書かれていた。




