喫茶店ローズ番外編「ベビーシッター」
ある静かな午後のこと。
「……遅れました」
玄関先で、エリオットが穏やかに頭を下げる。
その隣でセドリックも、同じ角度で一礼した。
「申し訳ありません。少々、朝の時間管理に難がありまして」
言葉は丁寧だが、言い訳はしない。
依頼主の母親は一瞬きょとんとしたあと、思わず笑った。
「いえいえ、大丈夫です。むしろ……本当に来てくれたんですね、その格好で」
視線は二人の燕尾服へ。
白手袋、整った襟元、無駄のない所作。
どう見ても——ベビーシッターではない。
エリオットは柔らかく微笑む。
「ええ。子どもに対しても、礼節は必要かと」
「……そういうものですか?」
「ええ、そういうものです」
即答だった。
⸻
リビングに通されると、小さな泣き声が聞こえた。
まだ一歳にも満たない赤子。
母親が困ったように抱いている。
「さっきから機嫌が悪くて……」
セドリックが一歩前に出る。
「失礼いたします」
声が、ほんの少し低く、柔らかくなる。
赤子を受け取る動きは自然で、まるで長年の習慣のようだった。
泣き声が、続く。
だが——
セドリックは何も急がない。
ただ、一定のリズムで揺らす。
「……大丈夫ですよ」
小さく、囁くように。
「ここにいます」
数秒。
十数秒。
やがて——
泣き声が、弱まる。
母親が目を見開いた。
「え……?」
完全に泣き止んだわけではない。
だが、明らかに落ち着いている。
セドリックは視線を落としたまま言う。
「呼吸の速度を合わせております」
「え……?」
「子どもは、環境よりも“人の状態”に影響されますので」
淡々としている。
特別なことをした、という自覚はない。
エリオットはその横で、すでにお湯を沸かしていた。
「お母様、少し温かいものを」
「え、あ……ありがとうございます」
差し出されたのは、ハーブティー。
香りがやわらかく広がる。
「緊張が続くと、子にも伝わりますので」
エリオットは穏やかに言う。
「まずは、貴方様が落ち着かれることが大切です」
母親はカップを受け取り、少しだけ肩の力を抜いた。
⸻
それから数時間。
家の中は、不思議なほど静かだった。
赤子は眠り、起きても泣かない。
セドリックがそばにいるだけで、安心しているのが分かる。
エリオットは洗い物を終え、部屋の空気を整え、必要なものをさりげなく配置する。
会話は少ない。
だが、途切れない。
「エリオット」
「はい」
「ミルクの時間です」
「承知いたしました」
それだけで、すべてが回る。
母親はソファに座ったまま、呆然としていた。
「……すごいですね」
思わずこぼれる。
エリオットは少し困ったように笑う。
「いえ、とんでもない。ただの習慣でございます」
セドリックも淡々と付け加える。
「子どもは、正直ですから」
「安心できる環境であれば、それに応じてくれます」
その言葉は、どこか静かで、確信に満ちていた。
⸻
帰り際。
母親は何度も頭を下げた。
「本当に助かりました……またお願いしてもいいですか?」
エリオットとセドリックは、同時に一礼する。
「もちろんでございます」
「お役に立てるのであれば、いつでも」
玄関を出て、扉が閉まる。
しばしの沈黙。
そして——
エリオットがぽつりと言った。
「……良い子でしたね」
セドリックがうなずく。
「ええ」
少しだけ間を置いて、
「アンナさんを思い出します」
二人の歩調は、自然と揃う。
夕方の光の中、ゆっくりと歩く。
「……次は、寝坊しないようにいたしましょう」
エリオットが言う。
セドリックは静かに返す。
「努力はいたします」
「結果は保証いたしかねますが」
「同感です」
二人は、わずかに笑った。
その穏やかな空気は、どこまでも静かで——
どこか、あたたかかった。




