喫茶店ローズ番外編「文豪」
喫茶店ローズの午後は、いつも静かだった。
カップの触れ合う小さな音と、遠くで鳴る時計の針の音だけが、ゆっくりと時間を刻んでいる。
その一角に——
異物のように、しかし不思議と馴染む形で、高城颯太は座っていた。
背筋を伸ばし、少しだけ緊張した面持ちで、手元の二冊の本を見ている。
向かいには、鷹司。
抹茶ラテの湯気がゆらりと揺れ、その向こうで琥珀の瞳が静かに颯太を見ていた。
「……それが、お前の世界の本か」
低く、整った声。
颯太は小さくうなずく。
「はい。俺の……いた場所では、普通にある小説です」
少し間を置いて、付け加える。
「でも……こっちには、ないって聞いて」
鷹司の視線が、本へと落ちる。
机の上に置かれているのは、
——江戸川乱歩『芋虫』
——宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
「……ほう」
短い一言。
だがその声には、明確な興味が宿っていた。
颯太は無意識に、指先に力が入る。
「正直……その……」
言葉を選ぶ。
「……ちょっと、重い話です」
逃げのない言い方だった。
鷹司は、ふっとわずかに口元を緩める。
「構わん。軽いものには、価値が宿らぬことも多い」
そのまま、『芋虫』を手に取る。
ページを開く指の動きに、無駄がない。
読む。
ただ読む。
店内の空気が、さらに静まる。
颯太は息を殺す。
数分——いや、もっとかもしれない。
時間の感覚が曖昧になる中で、
やがて、鷹司の指が止まった。
「……なるほど」
閉じる。
ゆっくりと、本を机に戻す。
その琥珀の瞳が、再び颯太を捉えた。
「これは、“美しい”な」
颯太の目が、わずかに見開かれる。
「……え」
思わず漏れた声。
美しい——その評価は、想定外だった。
鷹司は淡々と続ける。
「肉体は崩れ、尊厳は歪み、関係は腐敗する」
静かに言葉を置く。
「だが、その歪み方に、一切の無駄がない」
カップに手を伸ばし、一口。
「徹底されている。逃げがない。故に、美しい」
颯太は言葉を失う。
理解できる部分と、できない部分が混ざる。
だが——
否定できない。
鷹司は次に、『銀河鉄道の夜』を手に取った。
ページをめくる音が、やけに大きく感じる。
今度は、読む時間が長かった。
視線が、時折わずかに揺れる。
だが表情は変わらない。
——しかし。
読み終えたとき。
ほんの一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、呼吸が乱れた。
颯太はそれを見逃さなかった。
鷹司は本を閉じる。
今度は、すぐには言葉を発しない。
沈黙。
長い、静かな間。
やがて——
「……これは、卑怯だな」
低く、落ちる声。
颯太の心臓が、どくりと鳴る。
「どこまでも優しく、どこまでも残酷だ」
視線は、本ではなく、どこか遠くへ。
「救いの形を見せておきながら、それを手に取らせぬ」
カップに触れた手が、わずかに止まる。
「……美しい」
今度の“美しい”は、先ほどとは違っていた。
もっと静かで、もっと深い。
颯太は、思わず口を開く。
「俺……これ、好きなんです」
声が、少しだけ揺れる。
「兄貴が……」
言いかけて、止まる。
だが、鷹司は遮らない。
ただ、待つ。
颯太は息を吐く。
「あっ。義兄が、読ませてくれて」
視線が、本に落ちる。
「よくわからなかったけど……なんか、ずっと残ってて」
沈黙。
その言葉を、鷹司は静かに受け取る。
そして——
「よいものを、受け取ったな」
短く、だが確かな肯定。
颯太の肩から、わずかに力が抜ける。
鷹司は再び本に手を置いた。
「この国には、“物語”が浅い」
ぽつりと呟く。
「勝つか負けるか。強いか弱いか。それだけだ」
視線が、颯太へと戻る。
「だが、これは違う」
指先で、本の表紙を軽く叩く。
「敗者にも、意味を与える」
その言葉は、まっすぐだった。
颯太の胸に、静かに落ちる。
「また、俺のおすすめ紹介しますよ」
少しだけ迷いながらの問い。
鷹司は即答した。
「無論だ」
そして、ほんのわずかに笑う。
「次は、より“深いもの”を頼む」
颯太は小さく笑った。
「わかりました」
そのやり取りを、店の奥でエドワードが眺めていた。
「へえ」
面白そうに、口元を歪める。
「鷹司が“物語”に落ちるとはな」
小さく呟く。
そして——
「次は俺にも貸せよ、少年」
その声に、空気が少しだけ動いた。
だが鷹司は、視線も向けずに言う。
「貴様には、まだ早い」
「は?」
ローズの午後に、ほんの少しだけ、温度が生まれた。




