表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喫茶店ローズ  作者: 環状線在住送り犬
【番外編】
44/46

喫茶店ローズ番外編「文豪」

喫茶店ローズの午後は、いつも静かだった。


カップの触れ合う小さな音と、遠くで鳴る時計の針の音だけが、ゆっくりと時間を刻んでいる。


その一角に——


異物のように、しかし不思議と馴染む形で、高城颯太は座っていた。


背筋を伸ばし、少しだけ緊張した面持ちで、手元の二冊の本を見ている。


向かいには、鷹司。


抹茶ラテの湯気がゆらりと揺れ、その向こうで琥珀の瞳が静かに颯太を見ていた。


「……それが、お前の世界の本か」


低く、整った声。


颯太は小さくうなずく。


「はい。俺の……いた場所では、普通にある小説です」


少し間を置いて、付け加える。


「でも……こっちには、ないって聞いて」


鷹司の視線が、本へと落ちる。


机の上に置かれているのは、


——江戸川乱歩『芋虫』

——宮沢賢治『銀河鉄道の夜』


「……ほう」


短い一言。


だがその声には、明確な興味が宿っていた。


颯太は無意識に、指先に力が入る。


「正直……その……」


言葉を選ぶ。


「……ちょっと、重い話です」


逃げのない言い方だった。


鷹司は、ふっとわずかに口元を緩める。


「構わん。軽いものには、価値が宿らぬことも多い」


そのまま、『芋虫』を手に取る。


ページを開く指の動きに、無駄がない。


読む。


ただ読む。


店内の空気が、さらに静まる。


颯太は息を殺す。


数分——いや、もっとかもしれない。


時間の感覚が曖昧になる中で、


やがて、鷹司の指が止まった。


「……なるほど」


閉じる。


ゆっくりと、本を机に戻す。


その琥珀の瞳が、再び颯太を捉えた。


「これは、“美しい”な」


颯太の目が、わずかに見開かれる。


「……え」


思わず漏れた声。


美しい——その評価は、想定外だった。


鷹司は淡々と続ける。


「肉体は崩れ、尊厳は歪み、関係は腐敗する」


静かに言葉を置く。


「だが、その歪み方に、一切の無駄がない」


カップに手を伸ばし、一口。


「徹底されている。逃げがない。故に、美しい」


颯太は言葉を失う。


理解できる部分と、できない部分が混ざる。


だが——


否定できない。


鷹司は次に、『銀河鉄道の夜』を手に取った。


ページをめくる音が、やけに大きく感じる。


今度は、読む時間が長かった。


視線が、時折わずかに揺れる。


だが表情は変わらない。


——しかし。


読み終えたとき。


ほんの一瞬だけ。


ほんの一瞬だけ、呼吸が乱れた。


颯太はそれを見逃さなかった。


鷹司は本を閉じる。


今度は、すぐには言葉を発しない。


沈黙。


長い、静かな間。


やがて——


「……これは、卑怯だな」


低く、落ちる声。


颯太の心臓が、どくりと鳴る。


「どこまでも優しく、どこまでも残酷だ」


視線は、本ではなく、どこか遠くへ。


「救いの形を見せておきながら、それを手に取らせぬ」


カップに触れた手が、わずかに止まる。


「……美しい」


今度の“美しい”は、先ほどとは違っていた。


もっと静かで、もっと深い。


颯太は、思わず口を開く。


「俺……これ、好きなんです」


声が、少しだけ揺れる。


「兄貴が……」


言いかけて、止まる。


だが、鷹司は遮らない。


ただ、待つ。


颯太は息を吐く。


「あっ。義兄が、読ませてくれて」


視線が、本に落ちる。


「よくわからなかったけど……なんか、ずっと残ってて」


沈黙。


その言葉を、鷹司は静かに受け取る。


そして——


「よいものを、受け取ったな」


短く、だが確かな肯定。


颯太の肩から、わずかに力が抜ける。


鷹司は再び本に手を置いた。


「この国には、“物語”が浅い」


ぽつりと呟く。


「勝つか負けるか。強いか弱いか。それだけだ」


視線が、颯太へと戻る。


「だが、これは違う」


指先で、本の表紙を軽く叩く。


「敗者にも、意味を与える」


その言葉は、まっすぐだった。


颯太の胸に、静かに落ちる。


「また、俺のおすすめ紹介しますよ」


少しだけ迷いながらの問い。


鷹司は即答した。


「無論だ」


そして、ほんのわずかに笑う。


「次は、より“深いもの”を頼む」


颯太は小さく笑った。


「わかりました」


そのやり取りを、店の奥でエドワードが眺めていた。


「へえ」


面白そうに、口元を歪める。


「鷹司が“物語”に落ちるとはな」


小さく呟く。


そして——


「次は俺にも貸せよ、少年」


その声に、空気が少しだけ動いた。


だが鷹司は、視線も向けずに言う。


「貴様には、まだ早い」


「は?」


ローズの午後に、ほんの少しだけ、温度が生まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ