喫茶店ローズ23話「ただいまー」
喫茶店ローズの扉が、軽く鳴った。
カラン。
その音で、俺は顔を上げた。
店の中はいつも通り落ち着いている。午後の客は少なく、窓際の席に数人。静かなピアノ曲が流れていた。
カウンターの向こうでは、アルフレッドさんがコーヒーを淹れている。
そして――
扉を開けて入ってきたのは、エドワードさんだった。
白銀の髪を後ろで束ね、いつもの燕尾服。白手袋もそのまま。朝出ていったときと、ほとんど変わらない姿だった。
ただ、どこか少しだけ疲れているようにも見える。
エドワードさんは店の中を見回し、いつもの調子で言った。
「ただいまー」
アルフレッドさんが振り返る。
「あ、おかえりー」
少し間を置いて、笑いながら続けた。
「退職した?」
エドワードさんは迷いなく答える。
「うん」
俺は思わず手に持っていたカップを止めた。
え。
もう?
アルフレッドさんは「だよね」とでも言うように頷いた。
「早かったね」
エドワードさんはカウンター席に腰を下ろす。
「一日もっただけ偉いよ」
アルフレッドさんが肩をすくめる。
「もった方だね」
二人とも、まるで予想していたみたいに普通の顔をしている。
俺は思わず口を開いた。
「えっと……」
二人がこっちを見る。
「警護の仕事……ですよね?」
エドワードさんは椅子に深くもたれた。
「ああ、そうそう」
「もう終わりなんですか」
「終わり」
あまりにもあっさりしている。
アルフレッドさんがカップを差し出した。
「はい、コーヒー」
「ありがとう」
エドワードさんは一口飲んだ。
そして、少しだけ目を細める。
「……うん」
満足そうに言った。
「やっぱりこっちの方がいい」
俺はまだ状況がよく理解できていない。
「えっと……何があったんですか」
エドワードさんは少し考える。
「食堂で喧嘩した」
俺は固まった。
「……え?」
アルフレッドさんが笑う。
「何人?」
「三人ぐらい」
「少ないね」
「昼ごはんまずかったから」
俺は思わず声を上げそうになった。
でもなんとか飲み込む。
三人。
食堂。
喧嘩。
そして一日で退職。
頭の中で情報がうまく整理できない。
エドワードさんは俺の様子を見て、少し笑った。
「そんな顔するなよ」
「いや……」
俺は正直に言った。
「驚きますよ」
「普通?」
「普通です」
アルフレッドさんはカウンターを拭きながら言う。
「まあ、あの人には向いてないよ」
エドワードさんが指を立てる。
「正解」
それから俺の方を見る。
「颯太」
「はい」
「社会勉強」
俺は首を傾げる。
「え?」
エドワードさんは真面目な顔で言った。
「働くって大変なんだよ」
俺は思わず言った。
「一日しか働いてないですよね」
エドワードさんは一瞬黙る。
それから静かにコーヒーを飲んだ。
アルフレッドさんが笑いをこらえている。
店の空気は、またいつもの落ち着いた雰囲気に戻っていた。
俺は窓の外を見た。
夕方の光が街を少しだけ赤くしている。
ここに来て、まだ数日しか経っていない。
それなのに――
この喫茶店には、普通じゃない人が多すぎる気がする。
俺はカップを持ち直した。
温かい紅茶の湯気が静かに上がる。
そして、ふとエドワードさんを見る。
さっきまで警護隊にいた人とは思えないくらい、くつろいだ顔でコーヒーを飲んでいた。
俺は小さく思った。
この人たちと関わると――
たぶん、普通の毎日にはならない。
でも。
不思議と、嫌じゃなかった。




