喫茶店ローズ17話「蒼刃」
扉が閉まったあと、店の中にはしばらく沈黙が残った。
テーブルの上には、潰れたチョコタルト。
フォークが床に転がり、コーヒーカップがわずかに揺れている。
そして、その静けさを壊したのは――
「……ふっ」
小さな声だった。
次の瞬間。
「はは……ははははは……!」
笑い声が漏れる。
アルフレッドだった。
最初は肩を震わせるだけだったが、やがて腹を抱えるほどの笑いに変わる。
「ははははははは!!」
椅子の背に体を預け、天井を見上げて笑う。
白銀の髪がゆるく揺れ、赤みがかった琥珀の瞳が細くなる。
「見たか今の?」
誰に聞くでもなく言う。
「エド兄の顔」
また笑う。
「叩きつけられる瞬間の、あの顔」
テーブルを軽く叩く。
「最高だな」
颯太は固まったまま、その様子を見ていた。
ついさっき、エドワードは気絶させられて連行された。
普通なら笑う場面ではない。
それなのに、この男は心から楽しそうだった。
アレクシアがため息をつく。
「うるさいわね」
アルフレッドは肩をすくめた。
「いや、だってさ」
マカロンを一つ摘み、口に入れる。
「オズワルド、相変わらず容赦ない」
くすくす笑いながら続ける。
「昔からだよ」
その言葉に、エリオットの手が一瞬止まった。
だが何も言わない。
颯太は思わず尋ねる。
「……昔から?」
アルフレッドは椅子の上で足を組んだ。
燕尾服の上着を少し崩し、くつろいだ姿勢になる。
「そう」
軽く指を鳴らす。
「四十五年前も、あんな感じだった」
その言葉に、セドリックがわずかに視線を上げる。
アルフレッドは続けた。
「エド兄ってさ。昔から人の神経逆撫でするのが上手くてね」
笑いながら言う。
「オズワルドは真面目だから、よく怒ってた」
颯太は聞きながら首を傾げる。
四十五年前。
その数字が引っかかる。
アルフレッドはマカロンをもう一つ口に入れ、しばらく噛んでから言った。
「でもさ」
赤い目が、わずかに細くなる。
「途中から会ってないんだよね」
颯太が瞬きをする。
「会ってない?」
アルフレッドはあっさり頷いた。
「うん。まあ、色々あったからねー」
店の空気がわずかに変わる。
エリオットは黙ったままカップを並べている。
セドリックも何も言わない。
アルフレッドは気にする様子もなく続ける。
「僕とエド兄さ、まあ、行方不明扱い?にされてたからさ」
さらりと言った。
まるで大したことではないように。
颯太の頭が止まる。
「……え?」
アルフレッドは椅子を揺らしながら笑った。
「いやぁ。あの頃は色々あってね」
視線が少し遠くなる。
ほんの一瞬だけ。
だがすぐに元の軽い表情に戻った。
「気づいたら四十五年経ってた」
冗談のように言う。
「オズワルドにとっては、突然消えた友達が、急に目の前に現れたわけ」
颯太は何も言えない。
アルフレッドは楽しそうに言葉を続ける。
「しかも」
フォークで潰れたチョコタルトをつつく。
「相変わらず昼寝してチョコタルト食べてる」
くすっと笑う。
「そりゃ叩きつけたくもなる」
アレクシアが冷たく言う。
「あなたも同類よ」
「僕はもっと優しい」
アルフレッドは軽く笑う。
赤みがかった瞳が、ほんの一瞬だけ鋭く光る。
「それにさ」
颯太の方を見る。
「オズワルド、エド兄のこと好きだったし」
また軽く言う。
「四十五年前の友人」
まるで昔話でもするような口調だった。
だがその裏には、長い時間がある。
四十五年。
その間、エドワードとアルフレッドは姿を消していた。
どこにいたのか。
何をしていたのか。
誰も語らない。
アルフレッドはマカロンを食べ終えると、椅子の背に体を預けた。
「まあ」
軽く言う。
「久しぶりの再会なんだから、多少荒くても仕方ないよ」
そしてまた、笑った。
「ははははは!」
目を覚ましたとき、最初に感じたのは鈍い頭痛だった。
僕はゆっくりとまぶたを開く。天井は見覚えのない灰色の石。古い建物特有の冷たい空気が漂っている。
「……痛いな」
思い出す。
オズワルドだ。
あの老人、いきなり髪を掴んで僕の顔をテーブルに叩きつけやがった。七十の老人にする扱いじゃない。
まあ、僕も老人だが。
僕は上体を起こした。すると、妙な違和感に気づく。
「……なんだこれ」
胸元を見る。
黒い制服。厚手の生地。肩には銀の縁取り。腰には帯刀具。
警護隊の制服だった。
「……は?」
一瞬、思考が止まる。
僕は自分の腕を見る。白手袋はそのままだが、燕尾服は消えている。代わりに、完全に警護隊の装備だ。
「……誰だよ、勝手に着せたの」
ため息をつく。
服を整える。妙にサイズが合っているのが腹立たしい。
部屋の壁には鏡があった。そこに映る自分の姿を見て、さらに呆れる。
白銀の髪を後ろで束ねた老人。蒼い目。警護隊の制服。
「……似合ってるのがまた腹立つな」
僕は立ち上がった。
その瞬間、扉が開く。
入ってきたのは、黒革手袋の男。
オズワルドだった。
白髪混じりの短髪。銀縁眼鏡。短く整えられた顎髭。姿勢はまっすぐで、部屋の空気が一瞬で張り詰める。
彼は僕を一瞥した。
「目が覚めたか」
僕は肩をすくめる。
「おはよう。老人にあの起こし方はどうかと思うよ」
「貴様は老人ではない」
即答だった。
僕は笑う。
「七十だよ?」
オズワルドは腕を組む。
「出来て当然だ」
口癖だ。
昔から変わらない。
僕は椅子に腰を下ろした。
「で、何これ。コスプレ?」
「警護隊の制服だ」
「見れば分かる」
「今日から働け」
「嫌だ」
即答。
オズワルドの眉がわずかに動いた。
「貴様は元暗殺者だ」
「だった、だよ」
「刀も体術も衰えていない」
「見てたの?」
「記録は残る」
僕は鼻で笑う。
「僕は喫茶店のウェイターなんだけど」
「違う」
「違わない」
「貴様は蒼刃だ」
その言葉で、部屋の空気が少し変わった。
蒼刃。
昔の呼び名だ。
蒼い目と刀で暗殺をしていた頃の名前。
僕はしばらく黙った。
それから肩をすくめる。
「懐かしい呼び方だね」
オズワルドは静かに言う。
「四十五年だ」
僕は目を細めた。
四十五年。
その言葉には、重さがある。
僕とアルフレッド。
僕たちは、四十五年前に消えた。
世間から。
記録から。
この街から。
誰も知らない場所で、生き延びてきた。
オズワルドは続ける。
「貴様とアルフレッドは四十五年間、行方不明だった」
「そうだね」
「死んだと思われていた」
「よくある話」
「だが生きていた」
「残念ながら」
僕は机に肘をついた。
「それで?」
オズワルドは一歩近づく。
「この街の警護は薄い」
「へえ」
「使える人間が必要だ」
「僕は使われるの嫌いなんだけど」
オズワルドは眼鏡の奥から僕を見る。
その視線は昔と同じだ。
冷たい。合理的。無駄がない。
だが、ほんのわずかに。
懐かしさが混じっている。
僕はそれに気づいたが、何も言わない。
オズワルドは言う。
「出来て当然だ」
僕は笑った。
「相変わらず厳しいね」
「当然だ」
「七十の老人に仕事させるなんて」
「貴様は老人ではない」
同じ返事。
僕は立ち上がる。
刀を確認する。
鞘から少しだけ抜く。
刃は綺麗だ。
「……悪くない」
僕は肩を回す。
体は動く。
鈍ってはいない。
「仕方ない」
僕はため息をついた。
「ちょっとだけ働いてやるよ」
オズワルドは言う。
「最初からそう言え」
「言ってない」
「同じだ」
僕は笑う。
「相変わらずだね、オズワルド」
彼は答えない。
ただ扉へ向かう。
その背中を見ながら、僕はぼそっと言った。
「……アルフレッドは?」
オズワルドは止まる。
一瞬だけ。
それから言う。
「生きている」
僕の蒼い目がわずかに細くなる。
「そう」
オズワルドは振り返らない。
「いずれ会う」
そう言って、部屋を出た。
僕は静かな部屋で一人になった。
警護隊の制服。
刀。
七十の老人。
そして四十五年前の名前。
蒼刃。
僕は小さく笑う。
「……まったく」
窓の外を見る。
街が広がっている。
「老後の仕事にしては、ちょっと騒がしいな」
僕は刀を腰に差した。
蒼刃でそうじんと呼びます。テストには出ません。
廊下に立ってろ




