喫茶店ローズ16話「エドワードはどこだ!!」
颯太がこの世界に来て、数日が経った。
最初の一日は混乱だけだった。
通貨が通じない。言葉は通じるのに、価値が通じない。
住み込みが決まり、仕事が始まり、気づけば一日が終わっていた。
二日目は、息をする余裕が少しだけできた。
厨房の位置、食器の配置、常連の座る席。
誰が朝に弱く、誰が妙に早起きで、誰が黙って見ているのか。
三日目になると、体が先に動くようになった。
朝五時に起こされても、驚かなくなる。
野菜を洗う手つきが安定する。
ゴルド硬貨の重みも、もう違和感がない。
そして今日。
店の床を拭きながら、颯太はふと考える。
「慣れてきてるな……」
良い意味かどうかは分からない。
朝はエドワードの蹴りで始まる。
オスカーは相変わらずびくびくしているが、指示は的確だ。
悟真はいつの間にか現れ、いつの間にか消える。
ガブリエルは静かに全体を整える。
アンナは掃除を仕切り、エリオットとセドリックは無言で完璧に動く。
そして昼になれば、常連が来る。
ゴードンは相変わらず大声で、アレクシアに求婚し、ルシアンに切り捨てられる。
鷹司は静かに座り、抹茶ラテを飲み、呼吸と姿勢を語る。
変わらない。
世界は異質なのに、日常は安定している。
それが逆に、不思議だった。
颯太はゴルド硬貨を数えながら思う。
最初は、ここにいる理由を探していた。
帰る方法を考えていた。
今は違う。
まず、ここでやるべきことがある。
皿を割らないこと。
注文を間違えないこと。
常連の名前を覚えること。
立ち方を安定させること。
小さいことばかりだ。
だが、小さいことができないと、大きいことは考えられない。
店の窓から外を見る。
街は相変わらず動いている。
荷馬車が通り、商人が声を張り、ゴルドが回る。
ルミナリア王国。
その名前も、今は頭に定着している。
颯太は気づく。
怖さは完全には消えていない。
夜道を歩くときは、まだ背中がざわつく。
アーサーの言葉も、消えたわけではない。
だが。
「ここにいる」ことに、抵抗が減った。
昨日より、足の裏に重みがある。
鷹司の言葉を思い出す。
地面を感じろ。
試しに、意識して立ってみる。
両足を床に置き、肩を落とす。
呼吸が少し深くなる。
その瞬間、エドワードの声が飛ぶ。
「崩れるな」
「崩れてません」
「今、浅くなった」
見られている。
常に。
だがそれは、排除の視線ではない。
観察だ。
修正だ。
試されているのかもしれない。
それでも、ここ数日で分かったことがある。
この店は、簡単には捨てない。
無能でも、未熟でも、すぐに放り出したりはしない。
代わりに、黙って矯正する。
颯太は布巾を絞りながら、小さく呟く。
「とりあえず、一ヶ月」
帰る方法が見つかるかもしれない。
見つからないかもしれない。
だが今は、目の前の一日をこなす。
その積み重ねが、自分の立場を作る。
異世界に来た少年ではなく、
喫茶店ローズの店員として。
カウンターの奥で、アレクシアが帳簿から顔を上げる。
「颯太」
「はい」
「今日の動き、悪くないわ」
短い評価。
それだけで、少しだけ胸が軽くなる。
数日。
短いようで、確実に何かが変わった時間。
世界はまだ分からない。
だが、自分の呼吸は少しだけ整ってきている。
喫茶店ローズの昼は、だいたい静かだ。
皿の触れる音、コーヒーの香り、ゆっくり流れる時間。
颯太がこの世界に来てから数日。
まだ慣れないことは多いが、この店の空気には少しずつ慣れてきていた。
エリオットがカウンターでコーヒーを淹れ、セドリックが静かにカップを並べる。
アレクシアは伝票を整理しながら、時々店内を見回している。
その奥のソファでは――
エドワードが寝ていた。
完全に昼寝である。
しかもテーブルには、半分ほど食べたチョコタルト。
「平和だなぁ……」
颯太がぼそりと呟いた、その時だった。
――バンッ!!
喫茶店の扉が勢いよく開いた。
一瞬で、店内の空気が変わる。
入ってきたのは、ひとりの老人だった。
整えられた白髪混じりの短髪。
銀縁眼鏡の奥の目は鋭く、短く整えられた顎髭が知性と威圧感を同時に感じさせる。
黒革手袋をした手が、扉を押さえたまま動かない。
派手な人物ではない。
だが――
立っているだけで、場が締まる。
老人は店内を見渡し、低く怒鳴った。
「エドワードはどこだ!!」
声は決して大きすぎない。
だが、圧が強い。
店の空気がピンと張りつめる。
次の瞬間。
アレクシアが即座にキレた。
「うるさいわね!静かに入れないわけ!?」
怒鳴り返す声もまた、遠慮がない。
颯太は思わずエリオットに小声で聞いた。
「エリオットさん、あの方は……?」
エリオットはコーヒーポットを置き、静かに答えた。
「あの方は、この街を牛耳っているオズワルド様です」
颯太は目を丸くした。
「え?ゴードンさんじゃ……」
するとセドリックが、落ち着いた声で続ける。
「ゴードンさんだけではありませんよ」
さらに奥から、ガブリエルが補足した。
「オズワルドさんは、この街の警備を統括しておられます。上層管理部の責任者です」
颯太の頭が一瞬止まる。
(え……。めちゃくちゃ偉い人じゃない?)
その時だった。
ソファの奥から、だるそうな声が聞こえた。
「うるさいよ。そこの2人」
全員の視線がそちらへ向く。
エドワードが、まだ寝転んだまま片目だけ開けていた。
「僕の昼寝とチョコタルトを食べる邪魔するなー」
空気が凍る。
颯太は思わず心の中で叫んだ。
(この人……!街の警察のトップに向かってそれ言う!?)
アレクシアが即座に机を叩く。
「なによ!あんたが原因でしょ!」
エドワードは面倒そうに体を起こした。
髪を軽くかき上げ、欠伸をする。
そして、店の入口に立つ老人を見た。
一瞬だけ、目が細くなる。
「……ああ」
「オズワルドか」
その名前に、颯太はまた驚く。
呼び捨てである。
だが――
オズワルドは怒らなかった。
ゆっくりと店の中へ歩いてくる。
革靴の音が、床に静かに響く。
彼の視線はまっすぐエドワードに向いている。
冷たい。
だが、その奥には何か別のものが混ざっているようにも見える。
オズワルドはテーブルの前で止まった。
そして低く言った。
「……相変わらずだな」
エドワードはチョコタルトを一口食べながら答える。
「何が?」
「昼寝と甘味の優先順位だ」
「仕事より上か」
エドワードは肩をすくめる。
「当然だろ」
「人生の効率が悪い」
一瞬、店内が静まり返る。
オズワルドは続けた。
「警備隊は今朝、三件の騒動を処理した」
「そのうち一件は、お前の名前が関係している」
エドワードはコーヒーを飲みながら言った。
「へぇ」
興味なさそうである。
オズワルドの眉が、ほんのわずかだけ動いた。
だが声は変わらない。
「出来て当然だ」
それが口癖だった。
合理主義の男。
結果だけを見る男。
この街の警備を統括する上級幹部。
誰より冷酷に見えて、
誰より犠牲を嫌う男。
――オズワルド。




