喫茶店ローズ番外編「ひな祭り」
三月初めのやわらかな日差しが、喫茶店ローズの窓辺を淡く照らしていた。
アンナはいつもより少しだけ早く出勤し、店内の小さな丸テーブルに布を広げている。淡い桃色のクロスだ。
「店長、こちらでよろしいでしょうか?」
アレクシアは帳簿から目を上げ、店内を見渡した。
「悪くないわ。春らしくて。……どうしたの、急に」
アンナは少しだけはにかむ。
「私の生まれ育った場所では、この時期に“女の子の幸せを願う日”があったそうなんです。詳しくは知らないのですが……綺麗なお人形を飾って、甘いものを食べると聞きました」
アレクシアの黒い瞳が、わずかに細くなる。
「へえ。面白いじゃない」
この国には、そんな習慣はない。王族の祝祭や収穫祭はあるが、特定の少女の健やかな成長を祈る日など存在しない。
「それでですね、今日はローズでも少しだけ、似たようなことをしてみたいなと思いまして」
アンナの声は明るいが、どこか控えめだ。
自分のため、ではなく、誰かのための提案のように聞こえる。
アレクシアはその微妙な響きを聞き逃さない。
「誰の幸せを願うの?」
「……皆様の、です」
即答だった。
「女の子に限らず、ですけど。守られる存在って、悪いことじゃないと思うんです。だから今日は、甘いお菓子を少し増やして、店内も明るくして……“健やかに過ごせますように”って、こっそり願えたらいいなと」
アレクシアはペンを置いた。
「アンナ」
「はい」
「今日は看板娘じゃなくて、主役にしてあげる」
アンナが目を瞬く。
「え?」
「“少女の幸せを願う日”なんでしょう。なら、今この店で一番若い女の子を祝うのが筋よ」
「そ、そんな、私なんて」
慌てて首を振るアンナ。
その仕草がまた年相応で、厨房から顔を出していたアルフレッドが笑う。
「いいじゃないか。十四歳。立派に祝われる側だ」
エドワードも新聞をたたむ。
「反対はしない」
「エドワード様まで……」
アンナは頬を赤らめる。
彼女は自分が“守られる側”であることに慣れていない。尽くすことの方が、よほど落ち着く。
それでも今日は、逃げ道がなさそうだった。
昼前、店内には桃色の花が飾られ、小さな陶器の人形がカウンターに並んだ。王国の伝統衣装を模した、簡素な作りのものだ。
「即席だけど、悪くないでしょ」
アレクシアが腕を組む。
「とても素敵です」
アンナは本気でそう思っている顔だ。
午後になると、常連客たちが集まり始めた。
オスカーは珍しく淡い色のネクタイを締め、ゴードンは大袈裟に花束を抱えて現れる。
「アンナちゃんの晴れ舞台と聞いてな!」
「晴れ舞台ではありませんよ」
アンナは一瞬だけ動きを止め、それからいつも通りの笑顔を作る。
全員が揃った頃、アレクシアがグラスを軽く鳴らした。
「今日は、この店の小さな試みよ。春を迎えるにあたって、健やかな日々を願う。特に……アンナ」
名を呼ばれ、アンナは背筋を伸ばす。
「あなたがここに来てから、店はよく笑うようになった。だから今日は、あなたの幸せを願う日」
店内が静まる。
アンナは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます。ですが、私だけではなく、皆様もです。私はこのお店で働けて、とても幸せですから」
言葉に嘘はない。
過去の家庭で、名前を名乗ることすら怖かった自分が、今は堂々と名札をつけて立っている。
エリオットとセドリックの苗字を借りていることも、恥ではない。守られている証だ。
エドワードが低く言う。
「アンナ。自分の幸せも願え」
「……はい」
小さく、しかしはっきりと。
テーブルには、特製のカスタードパイが並ぶ。アンナの好きな味だ。
アレクシアが一切れを差し出す。
「今日はブラックコーヒーは無し。甘いものだけ」
アンナが笑う。
「アレクシア様、それは皆様が困ります」
「今日くらい我慢しなさい」
穏やかな笑いが広がる。
桃色の花の下で、アンナは初めて、自分が“祝われる側”であることを素直に受け取った。
この世界に正式なひな祭りはない。
けれど、誰かの成長と無事を願う気持ちは、どの国でも同じだ。
アンナは小さく手を合わせ、心の中でそっと祈る。
どうか、この場所が、これからも温かいままでありますように。
そして、自分もまた、守られるだけでなく、誰かを守れる存在になれますように。




