死に損ない
エドワードが民家を出ていってから、しばらくの時間が流れた。
外からは、間羅の国特有の機械音と、人々の話し声が聞こえてくる。
重傷を負った鷹司は、布団に横たわったまま、静かに天井を見つめていた。その傍らでは、アルフレッドが壁に背中を預け、腕を組んでいる。
「……鷹司おじいちゃん」
「なんだ」
「あの後、エド兄はなんて言ってた?」
鷹司はゆっくりと視線を動かした。
「気になるのか?」
「いんや?全然?」
即答だった。
鷹司は数秒、アルフレッドの顔を眺めた。
「……そうか」
「うんうん。僕は別に、エド兄が何を考えていようが、どこへ行こうが、誰と喧嘩しようが、どうでもいいからねぇ」
「ほう」
「ただ、あいつが余計なことをして、後始末を僕に押しつけてくる可能性がある。それが困るだけさ」
「なるほど。お前は兄思いだな」
「どこをどう聞いたらそうなるのさ?」
アルフレッドは肩をすくめた。
「僕はただの被害者だよ。昔からそう。エド兄が勝手に動いて、僕が巻き込まれる。おかげで、どれだけ苦労したことか」
「それでも、お前はあいつについていった」
アルフレッドの笑顔が、ほんのわずかに止まった。
「……やだねぇ。おじいちゃんは」
それから、壁から背中を離し、鷹司の寝床のそばに腰を下ろした。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、アルフレッドは何気ない調子で尋ねた。
「それで?エド兄、なんて言ってたの?頭撫でられた時、なんか呟いてたでしょ?」
「また聞くのか」
「いやぁ、ほら。僕も兄の弟だからね。多少は気にかけてあげないと」
「先ほどは、どうでもいいと言っていたが」
「人間、考えが変わることくらいあるだろ?」
「お前の場合、都合が変わるだけではないか?」
「ひどいなぁ」
アルフレッドは笑った。
鷹司も、口元にかすかな笑みを浮かべる。
そして、静かに答えた。
「……あいつはな。私がこの場で死んだら、葬式の準備をしてやると言っていた」
「…………は?」
アルフレッドの笑顔が消えた。
「待って。今、なんて?」
「葬式の準備をしてやる、と。やはり、エドワードは私のためにいい葬式をしてくれるらしい」
「いやいやいや。そこは普通、そんなことを言うなとか、必ず助けるとか、そういう言葉が出てくるところじゃないの?」
「そういう言葉を、あいつに期待していたのか?」
「期待なんかしてないよ。してないけどさぁ……!」
アルフレッドは片手で額を押さえた。
「七十歳にもなって、重傷の友人にかける言葉がそれ?あいつ、昔から性格が悪かったけど、年を取ってもまったく改善されてないじゃないか」
「私は嬉しかったがな」
「……え?」
鷹司は穏やかな表情をしていた。
「私が死んだら葬式を出す。そう言ったのだろう?」
「うん。そうだね。普通はそういうの、嫌味って言うんだよ」
「いや。あいつなりの言葉だ」
鷹司はゆっくりと目を閉じた。
「私が死ぬことを、あいつは許していない。だからこそ、あんな言い方をしたのだろう」
アルフレッドは何も言わなかった。
鷹司は続ける。
「エドワードは、心配していると素直に口にする男ではない。ましてや、相手が私ならなおさらだ」
「……まあ、それはそうだねぇ」
「だから、あれでいい」
アルフレッドは兄の姿を思い浮かべた。
いつも涼しい顔をして、毒を吐き、面倒事を避けているように振る舞う男。
だが、本当に大切なものが危険にさらされたとき、誰よりも早く動く。
そのくせ、自分が何を思っているのかは決して口にしない。
「……ほんと、面倒くさい男だよ」
アルフレッドは小さく笑った。
「僕が弟じゃなかったら、とっくに縁を切ってるね」
「そうか」
「うん。間違いない」
「ならば、なぜ今も弟をしている?」
「…………」
アルフレッドは一瞬だけ黙り、それから、いつもの調子で笑った。
「さあねぇ。長年の習慣じゃない?」
「そうか」
鷹司はそれ以上、追及しなかった。
しかし、アルフレッドの表情が少しだけ柔らかくなったことには気づいていた。
やがて、アルフレッドは立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
「……で、鷹司おじいちゃん」
「なんだ」
「エド兄、帰ってくると思う?」
鷹司は即答しなかった。
窓の外では、間羅の国の夜が静かに深まっていく。
しばらくして、鷹司は口を開いた。
「帰ってくるさ」
「へえ。どうして?」
「私に葬式を出すと言った男だぞ」
アルフレッドは、ぽかんとした。
「……それ、理由になってる?」
「なっている」
「いや、全然分からないんだけど」
「お前には分からんか」
「分かるわけないでしょ!」
思わず声を上げたアルフレッドに、鷹司は静かに笑った。
そして、いつもの落ち着いた声で言った。
「エドワードは、私が生きているうちに、もう一度勝負をするつもりなのだろう」
アルフレッドの動きが止まる。
「……ああ」
しばらくして、彼は納得したように頷いた。
「なるほどねぇ。そういうことか」
兄が何を考えているのか、少しだけ分かった気がした。
エドワードは、鷹司を失いたくない。
だが、それを口にする代わりに、葬式の話をする。
そして、鷹司が再び元気になったら、きっと何事もなかったかのようにビリヤード台の前に立つのだろう。
アルフレッドは、ふと鷹司へ視線を戻した。
先ほどまで穏やかに話していた老人は、静かに上半身を起こそうとしていた。
「……おや?」
アルフレッドの目が細くなる。
鷹司は布団の脇に置かれた自分の羽織へ手を伸ばしていた。
「どこへ行くつもり?」
「少し、外の空気を吸いにな」
「へえ。重傷を負った七十歳のおじいちゃんが?」
「私はまだ歩ける」
「そういう問題じゃないんだけどなぁ」
鷹司は返事をせず、ゆっくりと羽織を手に取った。
アルフレッドは、その一連の動作を黙って見ていた。
やがて、口元にいつもの笑みが戻る。
「行く気でしょ? 鷹司おじいちゃんよ」
鷹司の手が止まった。
「止める気か?」
「バカ言わないでよ、死に損ないが」
あまりにも容赦のない言葉だった。
しかし、アルフレッドの声には、怒りよりも呆れが滲んでいた。
「エド兄があんな顔して出ていったんだ。鷹司おじいちゃんだって、じっと寝ていられる性格じゃないでしょ?」
「……よく分かっているな」
「長生きしてると、面倒な老人の扱いにも慣れるんだよ」
「それは、お前自身のことか?」
「僕はまだ若いからねぇ」
「私と同じ七十歳のエドワードは?」
「……あいつは論外」
アルフレッドは即座に切り捨てた。
鷹司は、わずかに肩を揺らして笑った。
だが、その笑みも長くは続かなかった。
「アルフレッド」
「ん?」
「私は、あいつを追いかけるつもりはない」
「……へえ?」
「今の私では足手まといになる。そんなことくらい、自分でも分かっている」
鷹司は手にしていた羽織を、静かに膝の上へ戻した。
「だが、何もせずに待つつもりもない」
その琥珀色の瞳に、かつて剣術家として生きた男の鋭さが戻っていた。
「九条玄斎。そして、この国に薬を流している連中。私を襲った理由も、二十三年前に何が起きたのかも、必ず明らかにする」
「……なるほどねぇ」
アルフレッドは腕を組み、鷹司を見下ろした。
「つまり、決着つけるなら、死ぬと思えって?」
「そういうことだ」
「最初からそう言えばいいのに。いきなり立ち上がるから、また無茶をするのかと思ったよ」
「心配していたのか?」
「いんや?全然?」
アルフレッドは、先ほどとまったく同じ調子で答えた。
鷹司は静かに笑った。
「そうか」
「そうだよ」
短い沈黙のあと、アルフレッドは窓の外へ目を向けた。
兄は、もうどこかで動き始めているだろう。
かつて『蒼刃』と呼ばれた男として。
そして、自分の大切な者たちを傷つけた連中に、相応の答えを突きつけるために。
アルフレッドは小さく息を吐いた。
「……エド兄」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。
「今度ばかりは、格好つけて一人で全部片づけようなんて思わないことだね」
その言葉に、鷹司は何も答えなかった。
ただ、静かに目を閉じる。
二人とも、分かっていた。
エドワードが戻ってきたとき、この国で起きていることは、今とはまったく違う様相を見せているだろう。
そして、そのときこそ。
再び三人が顔を合わせるときこそ、本当の決着が始まるのだ。




