「男にとって殺しは美学。女にとって殺しは化粧をするようなもの」
間羅の国。
日が傾き、古い町並みが茜色に染まっていた。
軒先には暖簾が揺れ、通りを歩く人々の声が遠くから聞こえる。夕餉の支度を始めた家々からは、味噌の香りが漂っていた。
平和な町だった。
少なくとも、今のこの町は。
かつて、この国では血が流れた。剣が振るわれ、人が倒れ、守りたかったものを守れなかった者たちがいた。
そのすべてが過去になったわけではない。
ただ、人々が明日を迎えるために、今日を生きているだけだった。
町外れの茶屋。
縁側に腰を下ろしたエドワード・ハーヴィーは、白手袋を外し、手元の煙草に火をつけた。
銀白色の髪は後ろで束ねられ、燕尾服には皺ひとつない。七十歳という年齢を感じさせる落ち着きはあるが、その佇まいには、ただの老紳士では片づけられない鋭さが残っていた。
彼の隣には、大和が座っていた。
頭にはいつもタオル。着慣れた和装の袖をまくり、両手を膝の上に置いている。
二人の間には、しばらく会話がなかった。
大和は、先日エドワードに渡した手紙のことを思い出していた。
九条家の末路。
玄斎が死んだ後に残された者たちが、どのような結末を迎えたのか。
あの手紙を読んだエドワードは、怒りもしなければ、驚きもしなかった。ただ一言、吐き捨てるように呟いただけだった。
――要するに、九条玄斎の答えのために利用されたってか。
その声が、今も大和の耳に残っている。
大和は横目でエドワードを見た。
「……なあ、エドワードさん」
「ん?」
煙草をくわえたまま、エドワードが返事をする。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
「質問の内容によるね。つまらない話なら、聞こえなかったことにするけど」
「そういうところだよな、あんた……」
大和は苦笑した。
だが、すぐに表情を引き締める。
「……あんたは、なんで殺しをしてたんだ?」
風が吹いた。
茶屋の軒先に吊るされた風鈴が、小さく鳴る。
エドワードは答えなかった。
煙草の先に赤い火が灯り、細い煙が夕空へと流れていく。
「……急にどうしたんだい?」
「いや。あんたのことを知りたくなったんだ」
大和は正直に答えた。
「今のあんたは、口は悪いし、すぐ人をからかうし、仕事をサボってるようにしか見えないし……」
「おやおや。ずいぶんな言い草だね」
「でも、剣を持った時のあんたは違う」
大和はエドワードを見つめた。
「人を斬ることに迷いがないように見える。なのに、誰でも殺すわけじゃない。何をするにも、あんたなりの線引きがある」
大和は、これまで目にしてきたエドワードの姿を思い返す。
老紳士然とした男。
軽口を叩き、面倒事を嫌い、気ままに生きているように見える男。
それなのに、いざという時には、誰よりも冷静に状況を見極める。
そして必要と判断すれば、ためらいなく剣を振るう。
その姿は、剣術の才能がない自分が、どれだけ努力しても簡単には届かない領域にあった。
「人を殺すことを、どう考えてるんだ?」
エドワードは、ようやく煙草を口から離した。
「……なるほど」
そして、口元に薄い笑みを浮かべた。
「君は、ずいぶん面倒な質問をするようになったね」
「悪かったな」
「いや。嫌いじゃないよ、そういう質問は」
エドワードは煙を吐いた。
その目は、遠くの山並みを見ていた。
「これは、受け売りだけどね」
大和が顔を向ける。
エドワードは、まるで昔の知り合いの口癖でも思い出すように、静かに言った。
「男にとって殺しは美学。女にとって殺しは化粧をするようなものさ」
大和は、しばらく黙っていた。
「……は?」
「聞こえなかったかい?」
「いや、聞こえたよ。聞こえたけど……なんだよ、それ」
「言葉どおりの意味だろう?」
エドワードは平然としていた。
「ずいぶん物騒な格言だな……」
「そうだね。言った本人も、まともな人間じゃなかったから」
エドワードの口元に浮かんでいた笑みが、ほんの少しだけ変わった。
それは人をからかう時の笑みとは違っていた。
どこか懐かしそうで、それでいて、決して触れられたくないものを抱えているような顔だった。
「それを教えてくれたのは、テディだよ」
大和は瞬きをした。
「……テディ?」
「僕の昔の相棒さ」
エドワードは煙草を指先で回した。
「乱暴で、口が悪くて、礼儀なんてものはどこかに置き忘れてきたような男だった。酒と煙草が好きで、気に入らない相手には年齢も立場も関係なく噛みつく。まったく、どうしようもない男だったよ」
「……あんたが言うのか、それ」
「僕は礼儀正しいからね」
「どの口が言ってんだよ」
エドワードは小さく笑った。
「でも、あいつは剣を抜く理由だけは、妙にうるさかった」
その声から、軽さが消えた。
「殺せるから殺す。命令されたから殺す。金がもらえるから殺す。そういう連中を、テディは心底嫌っていた」
大和は黙って聞いていた。
「人を殺す仕事をしていたくせに、殺しを軽く扱う人間が許せなかったんだろうね。矛盾しているようだけど、あいつにとっては、そうじゃなかった」
エドワードは、煙草の灰を落とした。
「テディはよく言っていたよ。剣を抜くなら、自分の中に理由を持て、と。誰かの命令や、金のためだけに自分の手を汚すな、とね」
「……それが、美学ってことか?」
「さあね」
エドワードは肩をすくめた。
「少なくとも、あいつはそう考えていた」
大和は、しばらく夕焼けを見つめた。
「……じゃあ、あんたもそうなのか?」
「何が?」
「自分の美学ってやつを持って、人を殺してたのか?」
エドワードは答える前に、ゆっくりと煙草を吸った。
そして、目を細める。
「大和」
「ん?」
「美学なんて、便利な言葉だよ」
エドワードの声は穏やかだった。
「自分のやっていることに意味があると思わせてくれる。どんなに汚い仕事でも、自分なりの筋を通していると思えば、少しは胸を張れる」
彼は煙草を指先に挟んだまま、大和を見た。
「でもね。それで殺された人間が納得するわけじゃない」
大和の表情が変わった。
「どれだけ立派な理由を並べたところで、死んだ人間は帰ってこない。残された家族の悲しみも消えない。殺した側が自分の行いをどう飾ろうと、失われたものは戻らないんだよ」
九条家のことが、二人の間をよぎった。
玄斎の信念、彼が求めた答え。
その果てに残された、無残な結末。
エドワードは、それ以上、九条家について語らなかった。
ただ、静かに続けた。
「それでも、人を殺さなければならない時がある。少なくとも、僕はそういう場所で生きてきた」
「……」
「だからこそ、理由が必要だったんだろうね。自分が何をしているのか、分からなくならないために」
エドワードは視線を落とした。
白手袋を外した手には、長い年月を生きてきた者の皺が刻まれている。
その手が、かつてどれほどの命を奪ったのか。
大和には分からない。
本人が語らない限り、知ることもできない。
「テディは、最後まであいつらしい男だったよ」
エドワードがぽつりと言った。
「自分の流儀を曲げず、誰にも頭を下げず、気に入らないことには最後まで文句を言う。死んだと聞いた時も、ああ、あいつならあり得るなと思ったくらいだ」
「……死んだと聞いた時も?」
「ああ」
エドワードは口元を緩めた。
「本当に死んだのかどうか、今でも疑っているけどね」
「なんだよ、それ……」
「テディだからさ」
それだけ言うと、エドワードは再び夕空へ目を向けた。
大和は、もう質問をしなかった。
聞きたいことは、まだいくらでもあった。
殺し屋として生きた日々。
テディと過ごした時間、そして、エドワード自身が、その人生をどう受け止めているのか。
だが、今はそれ以上、踏み込むべきではない気がした。
やがて、エドワードは煙草を灰皿に押しつけた。
「……さて」
立ち上がり、燕尾服の裾を払う。
「昔話はここまでだ。これ以上話していると、僕が立派な人間だと誤解されかねない」
「そんな誤解、誰もしないだろ」
「君は本当に失礼だね」
「そっくりそのまま返すよ」
エドワードは鼻で笑った。
そして、茶屋の戸口へ向かって歩き出す。
夕日が彼の白銀の髪を照らし、長い影が縁側に伸びた。
大和は、その背中を見つめていた。
殺し屋だった男。
今は喫茶店で働き、気まぐれに茶を飲み、周囲をからかって暮らしている男。
その過去は消えない。
犯したことが帳消しになるわけでもない。
それでも、彼は今を生きている。
大和は、ふと思い立って声をかけた。
「なあ、エドワードさん!」
「今度は何だい?」
「そのテディって人……あんたにとって、どんな相棒だったんだ?」
エドワードの足が止まった。
振り返らないまま、彼はしばらく黙っていた。
やがて、肩越しにわずかに顔を向ける。
「……そうだね」
その横顔には、普段のふざけた笑みが戻っていた。
「僕の人生で、数少ない――背中を預けてもいいと思えた男さ」
それだけだった、それ以上の説明はなかった。
エドワードは再び歩き出し、夕暮れの町へと消えていく。
大和は、その背中を見送った。
遠くで鐘の音が鳴った。
町には夜が訪れようとしていた。
誰かが戸を閉め、誰かが明日の仕込みを始める。
人々は生きていく。
それぞれの過去を抱え、それぞれの理由を胸にしまいながら。
そして、かつて殺し屋だった老紳士は、今日も何食わぬ顔で帰っていく。
その胸の内に、何人分の死が眠っているのか。
それを知る者は、もうほとんど残っていない。
ただ一つ。
テディから受け取った言葉だけは、今もエドワードの中に残っていた。
男にとって殺しは美学。女にとって殺しは化粧をするようなもの。
それが正しいかどうかなど、彼はもう語らない。
語ったところで、死者は何も答えないのだから。
夜の帳が、間羅の国を静かに覆っていった。




