墓参り
間羅の国に、穏やかな風が吹いていた。
山々を越えて吹き抜ける風は、木々の葉を揺らし、遠くの町から人々の暮らしの音を運んでくる。
つい先日まで、刃が交わり、幾人もの人間がそれぞれの過去と向き合っていたとは思えないほど、世界は静かだった。
その日、大和は一人、山道を歩いていた。
手には、小さな包みがある。
向かう先は、山の麓にある墓地。
大和にとって、何度も訪れた場所だった。
やがて、見慣れた墓石が視界に入る。
そこには、先客がいた。
墓石の前に腰を下ろし、静かに手を合わせている老人。
大和はその背中を見て、足を止めた。
「じいちゃん。いたんだ」
源蔵は振り返らず、穏やかに答えた。
「まあの」
「……そっか」
大和は源蔵の隣まで歩いていき、墓石に刻まれた名前を見つめた。
鷹司桜。
それだけの名前なのに、そこには数え切れないほどの記憶が詰まっていた。
大和は持ってきた包みを地面に置き、墓石の前にしゃがみ込む。
しばらく、何も言わなかった。
風が吹き、二人の衣服を静かに揺らす。
やがて、大和が口を開いた。
「夏芽、もうちょっと間羅の国にいたらいいのにさ」
源蔵は目を伏せたまま、静かに頷いた。
「まあ、手続きを早う終わらせたほうがええからの」
「分かってるけどさ……」
大和は唇を尖らせた。
「せっかく、じいちゃんとも再会できたんだし。親父さんとも、ちゃんと話せたんだしさ。もう少しくらい、ゆっくりしていけばいいのに」
夏芽が霧島と再会した日のことを思い出す。
二十三年。
あまりにも長い時間だった。
それだけの年月を経て、ようやく父と娘は互いに手を伸ばすことができた。
泣きながら父に抱きついた夏芽。
不器用に、それでも確かに娘を抱き返した霧島。
あの光景は、大和の目にも焼き付いていた。
「……まあ、夏芽にも夏芽の事情があるんだろうけどさ」
「そうじゃな」
源蔵は否定しなかった。
夏芽が警護隊に戻り、必要な手続きを済ませようとしていることも知っている。
あの子は、自分で決めた道を歩く。
誰かに引き留められたからといって、簡単に足を止めるような子ではない。
それは、かつての桜にも似ていた。
「……桜は、あんまり花は好きじゃないぞ」
唐突に、源蔵が言った。
大和はきょとんとする。
「え?」
「墓参りには花じゃん」
「そうじゃな」
「いや、そうじゃなって……」
大和は思わず笑った。
それから、墓石へと目を戻す。
「確かに、桜ばあちゃんは花は好きじゃなかったね」
「そうじゃ」
源蔵の声は、どこか懐かしそうだった。
「綺麗な花を持っていっても、いつも文句を言うんじゃ。『こんなもんに金を使うくらいなら、うまいもんでも買ってこい』とな」
「ははっ! 言いそう!」
大和は声を上げて笑った。
「じいちゃん、絶対それで怒られてたでしょ」
「何度もな」
「何度もなんだ……」
「それでも花を持っていくと、捨てることはせんかった」
源蔵は墓石を見つめた。
「文句を言いながら、ちゃんと飾っておったよ」
大和の笑顔が、少しだけ柔らかくなる。
「……そっか」
二人は、しばらく黙っていた。
墓石の前には、花束が置かれていた。
色とりどりの花ではない。
控えめな花が、ほんの少しだけ。
そして、その傍らには、いくつかの品が置かれていた。
大和は、それらに目を留めた。
薄紅色の羽織紐。
夏芽がいつも大切に持っていた髪飾り。
そして、霧島が長い年月を身にまとってきた羽織。
大和は、思わず息を止めた。
「……これ」
源蔵は静かに頷いた。
「鷹司が、ずっと形見として持っておったものじゃ」
薄紅色の羽織紐。
鷹司が手放すことなく、長い年月を越えて持ち続けてきたもの。
それが今、桜の墓前に置かれていた。
「夏芽の髪飾りも……」
大和は、見覚えのあるそれを見つめた。
夏芽が身につけていた髪飾り。
彼女がどんな思いでそれを持ち続けていたのか、大和にはすべて分かるわけではない。
けれど、簡単に手放せるものではなかったことだけは分かった。
そして、霧島の羽織。
長い年月、彼が背負ってきたものを象徴するような一着だった。
「……親父さんの羽織まであるんだな」
「霧島も、ようやく置いていけたんじゃろう」
源蔵はそう言った。
大和は、その言葉の意味を考えた。
霧島は、二十三年もの間、娘と離れていた。
何を考え、何を抱え、どんな思いで生きてきたのか。
すべてを知ることはできない。
それでも、あの日の霧島の顔を思い出せば、分かることがあった。
娘を抱きしめたときの、あの表情。
長い間、口にできなかった言葉。
ようやく伝えられた思い。
彼は、何かを終わらせたのかもしれない。
「……そっか」
大和は、もう一度呟いた。
「みんな、桜ばあちゃんに会いに来たんだな」
「そうじゃな」
「鷹司さんも。夏芽も。親父さんも」
「そうじゃ」
源蔵は、墓石に刻まれた名前を見つめた。
「桜はな、誰かが自分のために何かをするのを、あまり好かん人じゃった」
「うん」
「じゃが、誰かが自分のことを忘れてしまうのは、もっと嫌がっておった」
大和は、静かに顔を上げた。源蔵は笑っていた。
懐かしい思い出を語るように。
けれど、その瞳の奥には、長い年月を経ても消えない寂しさがあった。
「……だから、こうして来るんじゃろうな」
大和は、墓前の品々を見つめた。
薄紅色の羽織紐。
髪飾り。
羽織。
それぞれが、異なる時間を生きた人間の手を離れ、同じ場所に集まっている。
誰も、桜に直接言葉を届けることはできない。
それでも、ここに来ることには意味があった。
忘れていないと伝えるために。
今も、自分たちの中に生きていると確かめるために。
大和は包みを開いた。
中には、桜が好きだったものが入っていた。
花ではない。
ありふれた、ささやかな食べ物だった。
「……ばあちゃん、これ持ってきたよ」
大和は墓前にそれを供えた。
「花じゃなくて悪いね。まあ、ばあちゃんは花なんかいらないって言いそうだけど」
源蔵が、隣で小さく笑う。
「間違いなく言うじゃろうな」
「だよね」
大和も笑った。
それから、墓石に向かって頭を下げた。
「……また来るよ、ばあちゃん」
風が吹いた。木々の葉が揺れ、枝の間から差し込む光が墓前を照らす。
大和はしばらくその場に留まっていた。
源蔵も、何も言わなかった。
二人はただ、そこにいた。
やがて、大和が立ち上がる。
「じいちゃん、帰ろうか」
「おう」
源蔵もゆっくりと腰を上げた。
最後にもう一度、墓石を振り返る。
その表情は穏やかだった。
「……また来るぞ、桜」
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
二人は並んで歩き出す。
背後には、静かな墓地が残された。
墓前には、薄紅色の羽織紐と髪飾り、そして霧島の羽織。
それぞれが、かつての持ち主たちの思いを静かに伝えていた。もう戻らない時間がある。
取り戻せないものもある。
それでも、人は生きていく。
失ったものを胸に抱きながら、残された者たちと共に。
間羅の国には、今日も風が吹いていた。
その風は、墓前に置かれた羽織の裾を、ほんの少しだけ揺らした。
まるで、誰かがそこにいるかのように。
――そして、長い物語は、静かに幕を下ろしていく。




