間羅の国編26話「お父さん!」
戦いが終わり、廊下に静寂が戻った。
九条玄斎は、その場に立ったまま動かなかった。
やがて、膝から力が抜ける。
「……」
玄斎の身体が、ゆっくりと崩れかける。
その前に、夏芽が歩み寄った。
「夏芽……」
エドワードが呼び止めようとする。
だが、夏芽は静かに首を振った。
そして玄斎の前に座る。
「玄斎さん」
玄斎が僅かに顔を上げた。
夏芽は、穏やかな表情で玄斎を見る。
「あなたのお孫さんの一葉さん……とっても強かったですよ。私が初めて、剣術で負けた方ですから」
その言葉に――。
玄斎の目が、僅かに見開かれた。
「……一葉……」
初めて、その名を聞いたように呟く。
夏芽はそっと手を伸ばし、玄斎の頬を撫でた。
「きっと……玄斎さんにも、そう伝えたかったんだと思います」
玄斎は何も答えなかった。
ただ、夏芽の言葉を静かに聞いている。
そして――ほんの僅かに、表情が緩んだ。
長い間張り詰めていたものが、ようやく解けたようだった。
「……そうか」
それが最後の言葉だった。
玄斎は静かに目を閉じる。
そして、そのまま力を失った。
夏芽は頬に添えていた手を離さない。
「……はい」
静かな声だった。
「……おやすみなさい、玄斎さん」
誰も何も言わなかった。
エドワードも、鷹司も、源蔵も、治郎も、花都も、霧島も。
ただ静かに、九条玄斎の最期を見届けていた。
九条玄斎を見送ったあと、夏芽はゆっくりと立ち上がった。
そして、少し離れた場所にいる霧島へ視線を向ける。
ずっと会いたかった父親。
23年間、心の中で何度も呼び続けた名前。
「……お、お父さん……」
霧島は黙って夏芽を見つめていた。
その瞬間――夏芽の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……っ」
堪えていたものが、一気に崩れる。
「お父さん……!」
夏芽は駆け出した。
そして、霧島の胸に飛び込む。
「お父さん!」
ボロボロと涙を流しながら、夏芽は父の服を強く掴んだ。
「……会いたかった……!」
霧島は何も言わない。
ただ、目の前で泣き続ける娘を見つめている。
23年間。
離れていた時間が、あまりにも長かった。
夏芽は子供のように泣きながら、霧島に抱きついた。
「ずっと……ずっと会いたかった……!」
霧島はしばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと片腕を上げる。
傷だらけの手で、夏芽の背中にそっと手を回した。
「……夏芽」
低く、静かな声。
それだけだった。
けれど夏芽には、それで十分だった。
「……お父さん……!」
再び涙を流す。
霧島は娘を抱きしめながら、静かに目を閉じた。
「……大きくなったな」
その言葉を聞いた夏芽は、さらに強く父にしがみついた。
それを見ていたエドワードは、静かに目を細める。
鷹司も何も言わず、ただ二人を見守っていた。
源蔵はそっと目元を拭い、治郎は微笑み、花都も顔を背ける。
「夏芽!」
廊下の向こうから、大和の声が響いた。
美琳、ジンドウ、ロウ、すずらも一緒だった。全員、疲労の色を浮かべていたが、どうにかここまでたどり着いたらしい。
大和は夏芽の姿を見つけると、急いで駆け寄ろうとした。
「夏芽! 無事だったんだな……!」
しかし、途中で足が止まった。
夏芽が、誰かに抱きついていたからだ。
黒いシャツに羽織をまとい、全身傷だらけになった男。
霧島だった。
そして、その男は夏芽を抱きしめ返していた。
「夏芽……」
大和が呟く。
源蔵が静かに頷いた。
「そうじゃよ」
大和は言葉を失った。
これまで夏芽がどれほどのものを背負ってきたのか。
どれほど父親に会いたかったのか。
そのすべてを知っているわけではない。
それでも、今の夏芽の泣き顔を見れば、何も聞く必要はなかった。
「……そっか」
大和は、それ以上近づかなかった。
美琳もまた、何も言わずに二人を見つめていた。
先ほどまで、兄の沈博と戦っていた自分。
夏芽に頼りきりだった自分。
そして、夏芽がずっと求めていたもの。
美琳はそっと拳を握った。
「……なっちゃん」
すずらは胸元で両手を組み、安堵したように微笑んだ。
「よかったですね、夏芽さん……」
ジンドウは腕を組み、いつものぶっきらぼうな口調で呟いた。
「……ったく。散々心配させやがって」
その隣では、ロウが静かに夏芽を見守っていた。
包帯に覆われた顔から表情は読み取れない。
けれど、彼もまた、夏芽が父親と再会できたことを喜んでいるようだった。
そのとき、大和が小さく口を開いた。
「……夏芽」
声が聞こえたのか、夏芽の肩がぴくりと動いた。
ゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた顔のまま、そこにいる仲間たちを見つめた。
「……みんな」
大和はいつものように笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……ただいま、夏芽」
夏芽は目を見開いた。
そして、また涙がこぼれた。
「……おかえりなさい」
霧島は娘の背中に手を添えたまま、集まった面々へ視線を向けた。
「……お前らが、夏芽の」
ジンドウが一歩前へ出る。
「そうだ。こいつには、散々世話になってる」
「……そうか」
霧島は短く答えた。
それから、腕の中にいる娘へ視線を落とす。
「……いい仲間を持ったな」
「……はい」
夏芽は涙を拭いながら頷いた。
「みんな……私の、大切な人たちです」
霧島は少しだけ目を細めた。
「……そうか」
その声は、先ほどまで戦っていた男のものとは思えないほど穏やかだった。
そして霧島は、もう一度だけ夏芽を抱きしめた。
今度は、娘が離れていかないようにするためではない。
ようやく帰ってきた娘を、父親として抱きしめるために。
大和たちは、その光景を静かに見守っていた。




