六章・2
僕は川を流れていくリュックを拾うために、川の中に入っていった。
さすがにズボンを脱ぐわけにはいかなかったから、そのまま行った。川の水がしみ込んできて、とても冷たかった。
河原に置いてきた鞄の中からは、何度も何度もメールの着信音が聞こえてくる。うるさいなあ、今は忙しいんだよ。
幸いにもこの川はあまり深くないようで、川の真ん中まで来ても水は膝より少し上までしかこなかった。よかった、下着までは濡らさずに済んだ。風邪を引きたくはない。
もう少しでリュックに手が届きそうというところで、橋の上の彼らが僕に声をかけてきた。今頃気づいたんだろうか。
「おーい! 翔太郎!」
須藤君が楽しげに僕の名前を呼んできた。
「それ拾わなくてもいいんだよ! それ×××の幡宮のだからさあ! 大丈夫だよ!」
ああ、もう、声をかけてくるなよ。
僕は、君みたいに大声で話すのは得意じゃないんだから。
僕は大きく息を吸って、
「うるさいなあ! 幡宮のってことくらいわかってんだよ! 知っててやってるんだよ!! 放っておけよ!」
僕はそう言いながら手を伸ばし、幡宮のリュックを掴みとった。うっわ、もうびっしょびしょじゃん。中に何入ってるのか知らないけど、さすがにそこまで防水性は高くないだろうな。
「な、何言ってんだお前! なんで知ってんのに拾ってんだよ!」
「だから知ってるから拾ってるんだよ!」
もう、うるっさいなあ。早くどっか行けよ。
だけれど僕の望みは叶わず、須藤君は橋の上から、橋の下の川の中に立っている僕に向かって、まだ言ってきた。
「お前、なんなんだよ!?」
「はあ!?」
「幡宮のなんなんだよ!?」
「友達だよ! ばーか!!」
僕が橋の上を睨みながら叫ぶと、そこにいた一人の女子が須藤君に何か話しかけながら袖を引っ張っていた。
たぶんだけど「もういいよ、放っておこうよ。あいつ頭おかしいよ」って言ったんじゃないかと思う。
まあ、たしかに僕は、頭おかしいのかもしれない。
でも、頭の正常な方があいつらだというのなら、僕は頭がおかしくっても問題ない。
僕はリュックを抱えて河原の方に戻った。うう、寒。
水をかき分けながらようやく川岸にたどり着くと、とりあえず僕は上着を羽織った。
「ううううう、さーむーい」
「何、やってんの……」
僕が縮こまって震えていると、横に来た人が僕にそう言った。
「何って、君のリュックを拾ったんだけど?」
「そう、じゃない! そうじゃなくてっ!!」
「なんだよ、君らしくない。もう少し落ち着いてしゃべりなよ。いつもみたいに、間延びした変なしゃべり方でさあ」
「らしくないのは君の方だよ! ねえ、なんで!? もう明日から学校に君の居場所はなくなるんだよ!? 君は平穏な生活がしたかったんじゃないの!?」
「うーん、まあそうなんだけど。でもね、君や君の妹さんを踏み台にしてまで、僕は生きていきたくはないかな、と思って」
「え……どうしてわたしに妹がいるって?」
「会ったんだよ。偶然。それで、話した。そこで、このリュックが大切なものっていうことも知った。ああ、そうだ。はい、これ」
僕は持っていたリュックを彼女に差し出した。
その時、僕はおよそ一月ぶりに彼女の顔を正面から見た。
……ああ、泣いている顔は、似ないんだなあ。
沙耶さんは儚げな印象だったけど、彼女の泣き顔は、爆発してるって感じだ。
怒りとか、悲しみとか、そういう生の感情があふれ出てきてるって感じ。
彼女の涙はきっと、川の水なんかと違って、とっても熱いんだろうなあ。
彼女は涙を流しながら、僕の手からリュックを受け取った。
「まあとりあえずこれで、これからは学校でも君と堂々と話せるね。そう考えると、むしろよかったんだと思えるよ。まあ、少し大変な目に遭うかもだけれど、それはそれとして」
「…………ごめん」
「ん?」
「ごめん、ね。わたしのせいで……」
「いや、僕が勝手にしたことだから君のせいじゃない」
僕はそう言うのに、彼女は首を横に振った。
「わたしが、あの時君に声をかけさえしなければ、今君はこんなことしていない。君の平穏が終わることだってなかった」
あの時とは、本屋で僕に声をかけてきた、あのことだろう。
「それはそうかもしれない。だけれど僕は、君にあの時声をかけてもらって、よかったと思っているよ。君に、僕を見つけてくれたような気がするから」
そうだ。自分で言って、僕は初めて気がついた。僕は初めて幡宮と話したあの時、初めて他人と、舞台の外で話したんだ。彼女相手なら『空気』なんて読まなくってもいい。役のない、素の自分で話せた。
「君と会わなかったら、僕は週末を退屈に過ごしていた。ポニーががんばる姿を見られなかった。障害を持つ人たちががんばっている姿を見られなかった。障害のことに意識を向けることさえなかった。それに」
ああ、これがきっと、一番大きいかもしれないな。
「遠慮なく話せる友達なんて、君と会わなかったら、できなかった」
思えば僕には、心の底から気を許せる友達なんて、いなかった。顔色を窺って、相手の望むことを言ってあげるだけの関係しか持てていなかった。
ああ、そうだよ。僕は自分の選択でそうして生きてきたんだ。それはある意味楽だから。他人の深いところまでは踏み込まなくてもいい関係だから、それは。
僕の周りに人はいたけれど、僕は今までずっと独りだった。そして、それでいいとも思っていた。
だけど僕は、彼女に出会って、やることなすことが全然予想できない彼女に出会って、他人に初めて興味を持てたんだ。
他人のことを、彼女のことを知りたい。心の深いところまで。踏み込みたい。
僕がそう思えるようになれたのは、彼女のおかげだ。
だから、僕は彼女にこう言おう。
「僕は、君と出会えたことを後悔しない。むしろ感謝しているくらいだよ。幡宮、僕と出会ってくれてありがとう」
「……っ! 何を、こんな時に馬鹿なこと言ってるの」
「じゃあついでにもう一つ、馬鹿なことを聞いてほしいんだけれど」
「……何?」
「これからも、ずっと僕と一緒にいてくれないかな? 週末を、また二人で過ごそうよ」
僕がそう言うと、彼女は泣いて赤かった顔をさらに赤くした。へえ、人間の顔ってここまで赤くなるんだな、と思った。
「な、な、なにそれっ!?」
「深い意味はないよ。ただ、君とまた前みたいに一緒にいたいだけ」
「…………」
彼女は何も言ってくれないまま、後ろを向いてしまった。気を悪くさせてしまっただろうか。
「だめかな?」
「…………まあ」
彼女は僕の方に振り返った。
その顔には、一か月ぶりに見る、あの笑顔があった。
「……君が、どうしてもって言うなら、仕方がないなあ! いいよお、一緒にいてあげるよお!」
涙の混じった声だったけれど、それでも彼女は明るくそう言った。
「はは、ありがとう」
「でもさあ、これからどうするのお? 明日から本当に君、学校来れるのお?」
「うーん、もしかしたらキツイかもだけど。でも、二人なら耐えられるんじゃない?」
「おおおおお、言うねえ。でも、そうだねえ。わたしも、一人で我慢するより、君と我慢したいかも。いざとなったら助けてねえ」
「あれ? それって甘えじゃない? 君は助けを求めないんじゃなかったっけ」
僕が意地悪でそう聞くと、彼女は「あはは!」と笑ってから、こう言った。
「これは甘えるってことじゃないよお。これはねえ、頼るってことなんだよお」
「物は言いようだね」
「うるさいなあ。頼られたくないの?」
「いや、頼られたい。それに、頼りたい」
「まかせなさい。わたし、いじめられることに関してはそれなりに経験があるから。もうプロだから」
「おお、それは頼りがいがあるね」
「ふふん、どうよ! わたしも頼りにしてるからねえ」
「任せてよ」
何をって言われると、ちょっと困るけれど。それでも彼女が頼ってくれることは、素直にうれしかった。
「へっくしっ!」
「吉野くん大丈夫?」
「冷えてきたみたい」
陽はもうほとんど見えなくなってきた。一番星が僕たちの頭の上に輝いている。
「そろそろ帰ったほうがよさそうだねえ。風邪ひかないでよ?」
「うん、早く帰って着替えるよ。ああ、そう言えば、リュックの中身、大丈夫?」
僕のズボンと同じくらい濡れているリュックからは、まだしずくが垂れていた。
「うーん、いちおう財布とかは入ってないんだけど、それでもノートとか教科書とかはだめかも」
「そう。どうしようか?」
彼女の場合、新しく買ってもらうというのも難しい。
「見せてよ」
「え?」
「君が教科書見せてくれたら別に問題ないじゃん?」
「席全然違うけど?」
「たしか明日席替えの日でしょ? がんばって隣に来てよ」
「いや、くじ引きなんだから難しいでしょ」
「一緒にいたいって言ったのは君じゃん。がんばってよ」
「ええ……?」
彼女は笑顔で無茶を言う。
「あはは! それじゃ、また明日ねえ」
そう言って彼女は手を振りながら歩いて行った。
そのまま帰るのかと思っていたら、突然振り返ってこう言ってきた。
「吉野くん、ありがとう!!」
そしてまた振り返ると、よたよたと、おぼつかない足取りで走って行った。まだ慣れてないだろうに、こけても知らないぞ。
さて、僕も帰るとしよう。
明日からはきっと、今までにない学校生活が待っている。
正直不安もある。不安しかないと言ってもいいくらいだ。
だけど、彼女と一緒なら大丈夫だと思える。
友達と一緒なら、何があっても大丈夫だ。




