五章・2
土曜日の朝。
もう習慣づいてしまったんだろうか、僕は日の出と同じくらいに目を覚ました。
こんなに早く起きても、今日、僕をどこかに連れて行ってくれる人はいないのに。
もう一度寝ようとしても、いろいろな考えが邪魔をして眠れない。
とりあえず何か飲もうかなと思って、僕はリビングに行った。
「あら、おはよう。今日はでかけないの?」
「おはよう、翔太郎。ずいぶんと早いな」
リビングには、お母さんとお父さんがいた。お父さんは新聞を読んでいて、お母さんは朝ごはんを作っていた。
普通の、朝の様子。
「おはよう。今日は特に予定はないよ。僕もご飯食べたい」
そして僕は家族と朝ごはんを一緒に食べた。
テレビでは朝のニュースが流れていた。天気、政治、芸能界のスキャンダル。
そして、どこかの学校の話。
たまに見るようなニュースだ。年に数回はあるニュース。画面の中では亡くなった人の保護者が理解してあげられなかったと言っていた。亡くなった人のクラスメイトは気づいてあげられなかったと言っていた。その学校の校長が事情を説明していた。全員、涙ながらに言っていた。
全員、その人が自ら命を絶つまでは、見向きもしなかっただろうに。その人の苦しみに、目を向けさえしなかっただろうに。
見向きもしないどころか、責めてさえいたかもしれない。
画面が変わると専門家らしき人が、僕が小さい時にも聞いたようなことを言っている。こういった問題は教育機関が何かしかの手を打つべきであるとかなんとか。道徳教育や生徒の相談に力を入れるべきであるとかなんとか。もしかしたらこの人たちの時間は、僕が小学生くらいの時から止まっているのかもしれない。
専門家の偉い先生は、誰にでも言えそうなこと普通のことを、無駄に難しい言葉を並べて言っている。
そのニュースを見て、お母さんは僕に、心配そうにこう言った。
「翔太郎のところは、こういうことないの?」
「……うん、ないよ。大丈夫」
「そう? ならいいけれど」
少なくとも、ニュースでやっているくらいに悲惨なことは起きていない。だけどそれは、悲惨かどうかは、僕が決めることでもない。
「なあ、翔太郎」
お父さんは僕の方を見ず、どこか違うところを見ながら言った。
「何か、もし、何かお前だけじゃ解決できないことがあったら、僕か、母さんか、それか信用のできる大人に相談しなさい。じゃないと、誰も動けないからな」
お父さんはそう言うと「ごちそうさま」と、席を立った。そして僕の横を通り過ぎるとき、ぽんと肩を叩かれた。
お父さんは、何か気づいたんだろうか? もしかしたら、昨日僕が叫んでいたことを聞いていたのかもしれない。 だけど、どうしてあんなこと言ってきたのか、わからない。親が何を考えているのかなんて、わからない。
僕は自分の分のご飯を食べ終えごちそうさまを言い、自分の部屋に戻った。
だけど、部屋にいてもいろんな考えが浮かんできて、もやもやして、気持ちがまとまらなくなった。頭と胸が、詰まりそうだ。
どこかに、出かけてみようかな。
僕は出かける準備をして、家を出た。
もしかしたら、彼女と会えるかもしれないと、思ったりもして。
彼女はきっと、僕がいなくても、週末は、どこかをさまよっているはずだから。
○
足の向かうまま、気の向くまま、なんとなく歩いていたら、駅前に来てしまった。
彼女の姿は、なかった。
じっとしていたくない。動いていたい。
僕はそんな気持ちになったので、適当な電車に乗って、適当な駅で降りることにした。この場合の適当は、いいかげんな、という方の意味だ。
ホームに来ていた電車に乗る。どこに向かうのかは知らない。僕は乗車口に近いところに座った。
ドアが閉まり、電車が動き出した。流れる景色を見ていても、あまり面白くは感じなかった。
それから電車はいくつか駅に止まった。そのたびに少しずつ人が車内に増えていった。なんとなく、その人たちの顔を眺めていて、それで、少し腹が立った。自分でも、どうしてなのかは、よくわからないけれど。
気持ちの整理がつけたくて外に出てきたのに、失敗だったかな。思えば以前の僕は、そんな理由で外出しようだなんて思わなかった。
彼女のせいだ。
彼女のせいで、僕は外に出て何かを見ることの面白さに気づいたんだ。
まあでも、今日はあまり面白くはないんだけど。
一人だからかな。
そんなことを考えていたら、気がつかないうちに、少し眠ってしまっていた。
僕が目を覚ましたのは、近くから聞こえた大きな声だった。
目を開けて声のした方を見た。その声は、僕の斜め前にある優先座席の方からだった。
顔を真っ赤にしたおじいさんが、優先座席に座っている若い女の人に向かって怒鳴り声を上げている。
いわく、若いもんがそんなとこに座ってどうのこうの。そこはお年寄りの席だどうのこうの。
その女の人は何か言おうとしているんだけれど、おじいさんが怒鳴り散らすおかげで会話が成立していない。
なんだかよくわからないけれど、座りたいのかな。それなら別に優先席じゃなくたってどこの席でもいいだろう。そう思った僕は、そのおじいさんに席を譲ろうとした。僕は別に立っててもいいし、次の駅で降りてもいいんだし。
僕が立ち上がって声をかけようとしたとき、おじいさんはあろうことか、持っていた杖で女の人の足を叩いた。
あーあ、それはちょっとな、と思っていたら、目を疑うことが起こった。
女の人の叩かれた足が、コーンという高い音を立てて、妙な方向に曲がってしまったのだ。普通の足じゃありえない方向に。
身近に似たような人がいるから、僕はすぐに気がつけた。
義足、だったんだ。その人の足は。
その場の空気が一瞬固まった。おじいさんもその空気がまずいとわかったのだろう。ごまかすように、また声を荒げた。
そして、そこでおじいさんは、言ってはいけないことを言ってしまった。その女の人にとってか、おじいさんにとってか、それか僕にとってかはわからないけれど。
とにかく、そのおじいさんはこう言ってしまった。
「お前のような障害者が、普通の人間みたいに出かけるんじゃないっ!!」
そこからは、もう本当によくわからないんだけど、気づけば僕は、おじいさんの腕を掴んでいた。
自分の体が、自分の体じゃないみたいに動く。僕が、僕の後ろから僕を見ている感じ。
都合よく開いた電車のドアから、僕はおじいさんの腕を掴んだまま駅に降りた。おじいさんは何かわめいていたんだけれど、そこは僕も若いから、力づくでどうにかなった。
僕は強引にそのおじいさんをホームのベンチに座らせた。
そして僕は、自分の口からそんな言葉が出るのかと驚くくらいの汚い言葉をそのおじいさんに浴びせて、その場から走って逃げた。
本能的に、気持ちが悪くて。あの空間から一刻も早く離れたくて。
どうしてなんだ。どうしてこの世の中はこんなにも……。
階段を駆け上がって、改札を抜けて、前も見ずに走った。やみくもに走った。
だから、当たり前みたいに僕は人にぶつかった。
そこで僕はやっとのことで、自分の体を自分の意志で動かせるようになった。
「す、すみません……。前を見てなくて」
僕は慌てて頭を下げて謝った。
「あ、いえ、こっちこそ、ごめんなさい」
その声に、僕は聞き覚えがあった。
一月前に初めて聞いた声。僕とたくさん話をした声。僕をからかった声。僕にいろんなことを教えてくれた声。
はっと顔を上げると、ぶつかった人の顔が目に飛び込んできた。
その顔は、ここ最近週末を一緒に過ごした女の子と、同じ顔をしていた。
似た顔じゃない。まったく、同じ顔。
「は、はた、みや……?」
僕が絞り出すように言うと、その人は目を見開いて、そして両手で口を覆った。そう、両手で。
「……あれ、な、なんで?」
僕の目には、彼女に無いはずのものがはっきりと映っていた。
「ひ、だり、てが?」
「あ、あの、もしかして」
その人は、彼女と同じ声で、だけど、彼女が絶対に出さないような、落ち着いた優しいトーンで言った。
「お姉ちゃんの、お知り合い、ですか?」




