四章・2
幡宮が走る練習を始めてから一時間ほどが経った。
僕は僕なりに、走るためのコツとかを彼女に教えてあげた。
左腕が無い分、腕を振ることが難しいけれど、普通に走るには問題ないと思っていた。別に競技に出場するわけじゃないんだ。速くなくたって、ある程度の速度でいい。
ちょっと走れるくらいで上等だと。そう思っていたんだけれど。
幡宮の練習に付き合って、わかったことがある。
「あ、いったあいいっ!」
「これで何度目だよ、こけるの」
彼女はもう、本当に、絶望的なほど、運動ができなかった。いや、もう、信じられないくらいに。
左腕が無いからバランスが取れないとか、もうそういう問題じゃないというか、たぶん彼女は普通に両手両足が揃っていてもこうなんだろうな、と思えるほどだった。
「ほら早く起きて。最低でも五十メートルは走れるようになろう」
なんだか小学生の水泳みたいな目標だけど、この際もう仕方がない。
「くそおっ! もう一回だあ!」
そう気合を入れて、彼女はまた走り出した。まあ、僕の早歩きくらいの速度ではあるけれど。本人が走っている気なんだから、走っているんだろう。
彼女を見ていて、まだましだと思ったのは、諦めないし、弱音や文句も吐かないということだ。
何回こけたって、彼女はまた立ち上がって走り出す。
「うお、ぎゃあ!」
それでまたこけるんだけど。
「大丈夫? そろそろ休憩したら? 水分補給は大事だよ」
今日はそこまで暑くはないけれど、人の体は知らず知らずのうちに渇いていくものだ。運動しているのならなおさら。喉が渇いてからでは遅いくらいだ。
僕は近くに置いてあった彼女のリュックを渡した。
「おお、さんくゆー」
彼女はリュックの中からペットボトルを取り出すと、左の脇に挟んで固定して、右手でキャップを外した。
「そういうのは器用なんだね」
「走るのは不器用ってかあ?」
彼女はペットボトルの水を美味しそうに飲むと「よっしゃあ! もう一回だあ!」と言ってまた走り出した。気合はすごいんだよなあ。
そうしてまた数時間が経ったんだけれど、最長で三十メートルほど走るのが限界だった。もう周りには誰もいない。昼間いた人たちも、もう帰ってしまったんだろう。もう夕方に近い。空も少しずつ赤く染まっていっている。
幡宮は体力が無いわけではないんだろう。だって、これだけ走っても彼女はまだまだ元気だ。だから疲れからこけているわけではないんだと思う。
何がいけないんだろう?
「あああ、惜しいなあ。もうちょっとで五十メートル走れたのになあ」
こけた後も、悔しがる時間は一瞬で、すぐに彼女は立ちあがって走り出そうとする。一呼吸も置かないで。
「ああ。だからか。幡宮さん、ちょっと待って」
「んんん? なあにい?」
僕は今にも走り出しそうな幡宮を呼び止めた。
「君、気合が入っているのはいいんだけど、気合が入りすぎて体がついてきてないんじゃない?」
「どういうこと?」
「気持ちが先行し過ぎってこと。やみくもに足動かしたって、それで走れるってわけじゃないんだから」
ただでさえ走り慣れてないんだ。そんな人が気持ちだけで走ろうとしたって、そりゃあ空回りする。
「一度、深呼吸をして気持ちを静めてみよう。はい吸ってー吐いてー」
僕が言った通りに彼女は深呼吸をした。
「少しは落ち着いた?」
「まあ、そうだねえ」
「ゆっくり、リズミカルに、こう、いっちにいっちに、みたいな感じで走ってみて」
「ゆっくりじゃあ走ってることにならなくない?」
「いいからやってみて」
っていうか今の速度でも十分走ってることにはなっていないから、これ以上遅くしたって別に大差ない。大丈夫だ。
「まあ君が言うのならねえ。わかったよお」
彼女はもう一度、走り出した。
「いっちに、いっちにい」
「そう、そんな感じ。一定のリズムで」
彼女はたったったっと、さっきよりも落ち着いたリズムで足を動かしていた。
「はっ、はっ、はっ」
「うん、いい感じ! そう、そのまま!」
「はっ、はっ、はあ……やったあああああっ!」
そして、ついに彼女は五十メートルを走り切った。
「お疲れ」
「はあ、はあ。いやあ、君のアドバイスは適格だねえ。さすが、わたしが選んだコーチだよお」
「なんだそれ」
「でもまあ、ありがとね。おかげで走れるようになったよ」
「お、あ、うん、よかったね」
彼女があまりに素直に僕にそんなことを言うもんだから、僕は少し戸惑ってしまった。
「走るって、汗を流すって、気持ちがいいねえ」
彼女はそういうと芝生の上にゴロンと横になった。
そして仰向けになって、目を閉じた。
「幡宮さん?」
呼びかけても反応はなく、彼女はただ黙って目を閉じていた。夕焼けに照らされたその顔が眩しい。
「…………」
「…………」
しばらくの間、静かな時間が流れた。彼女は何も言わない。僕も何も言わない。聞こえてくるのは、風で草木が揺れる音とか、遠くを走る車の音くらい。
僕はただ、目を閉じている彼女の顔をじっと見ていた。白くてきれいな肌と整った顔立ちに意識が吸い込まれていきそうだった。
そうして、どれくらい経ったのだろう。
彼女が、パッと目を開けた。
「……これだけ無防備でも、君は何もしないんだねえ」
「はあ?」
「なんでもないよお。さあて、帰ろうかあ」
彼女は起き上がるとリュックにタオルやペットボトルなんかを入れたりした。
僕は何もすることはなく、ただぼうっと、意味の分からない彼女のことを考えていた。




