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北境領の西端に位置する港町ルナリア。冷たい霧と潮煙に包まれたその町は、一見すると寂れた漁村に過ぎないが、裏ではレイヴィス・ヴァルハイトの巨大な資金源――禁忌とされる魔道具や奴隷、そして帝国中央へ流すための違法薬物の密輸拠点となっていた。
激しい雨が波止場の木枠を打ち叩いている。
港の最奥にある不気味な倉庫の屋根の上。私はカシエルの漆黒のマントに包まれ、雨に濡れながら眼下を見下ろしていた。
倉庫の前に立つのは、レイヴィスが最も信頼を寄せる秘密金庫の管理役であり、密輸商人のガルド。かつて我が公爵家に揉み消しを頼み込んできては、父に突っぱねられてコソコソと逃げ回っていた、ドブネズミのような男だ。いまや彼は高級な狐の毛皮を纏い、太った指にいくつもの宝石リングを光らせ、配下の私兵たちに威張り散らしている。
「おい、急げ! 朝までにこの『ブツ』を帝国のルパート子爵へ届けねばならんのだ! 辺境伯様のご意向だぞ! 一箱でも遅れたら、お前たちの首が飛ぶと思え!」
ガルドの怒声が雨音を突いて響く。
「……あの男ね」
私はカシエルの隣で、低く呟いた。
「ガルド・ヴァン。レイヴィスの金の流れをすべて握る裏の記録係だ」とカシエルは私の耳元で囁く。「あいつの金庫には、帝国中央の貴族たちへ渡された賄賂の全記録と、公爵家を陥れるために使われた偽造書類の『原本』が眠っている」
「なら奪うだけね」
私はカシエルから渡された短剣の柄を握りしめた。右手の指は影の糸で固定されているおかげで、強固な握力を保っている。痛みが走るたびに、頭脳が研ぎ澄まされていく感覚があった。
「私がガルドの身柄を押さえるわ。カシエル、あなたは配下の掃除を」
「あまり無茶はするなよ。お前のその体も魂も、私だけのものなのだから。だが、まあ一緒に楽しもう」
カシエルは私の腰を引き寄せ、雨に濡れた唇に自分の指先を滑らせた。仮面の隙間から覗く琥珀色の瞳が、夜の野獣のように妖しく光る。その指先から伝わる冷酷な熱に、私の胸の奥がキュッと締め付けられた。この男の狂気じみた執着は、毒のように私の全身に回り始めている。
「分かっているわ。死にはしない……奴らを地獄へ送るまでは」
私が頷くと同時に、カシエルの姿が影となって消えた。
次の瞬間、倉庫の周囲を固めていた私兵たちの悲鳴が上がった。
「な、なんだ!? 影が……影が這い上がって――」
「うぎゃあああっ!」
雨闇の中から無数の『黒い手』が伸び、兵士たちの喉を、胸を、一瞬で引き裂いていく。血が雨と混ざり合い、波止場の木板を赤く染めていく。声すら上げさせず、一人、また一人と倒れていく惨劇。
ガルドは恐怖に顔を跳ね上げ、毛皮のコートを振り乱して倉庫の中へと逃げ込んだ。
「ひ、ひぃぃっ! 敵襲だ! 誰か、誰かおらんか!」
バン、と倉庫の重い扉が閉ざされる音。
私は屋根の天窓を破り、倉庫の暗がりへと飛び降りた。
バリンッ!
ガラスの割れる音とともに、私はガルドの目の前に着地した。床に積まれた木箱の陰から、私はゆっくりと立ち上がる。
「だ、誰だ……っ!? 教会の手先か! ヴァルハイト辺境伯様が黙っちゃ――」
ガルドが懐から小型の魔導銃を抜きかけ、私の顔を見た瞬間、その動きが完全に硬直した。
「……シレーナ……?」
彼の喉から、ひゅっと空気が漏れるような音がした。彼の瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれる。
「な、なぜ……お前は……地下牢で焼け死んだと……今朝、連絡が……」
「死んだわよ、ガルド」
私は一歩、足を踏み出す。雨と血で汚れた黒髪から、一滴の雫が床に落ちる。
「あの優しくて、愚かで、夫を信じ切っていたシレーナ・公爵令嬢は、あの薄暗い泥の中で死んだわ。……今の私は、あなたたちを地獄へ引きずり降ろすために戻ってきた悪霊よ」
「ひっ……! 狂人め! 死ねええっ!」
ガルドが半狂乱になって魔導銃の引き金を引こうとした。
バンッ!
魔力の塊が私の横を通り過ぎる。
そんな物は当たらない。私の動きの方が早かった。踏み込みざまに短剣を一閃させ、ガルドの右腕の首(手首)を浅く切り裂く。銃が手から落ち、床を転がった。
「あぐっ!?」
「しー」
私は手首を痛めて呻くガルドの首元に短剣の刃を突きつけ、壁際にある重厚な鉄の金庫へと彼の体を押し付けた。
「鍵を開けて、ガルド。あなたの命と、その引き換えに」
「ふ、ふざけるな! 辺境伯様を裏切ったら、俺は生きていけない! どんな目に遭わされるか――」
「レイヴィスから逃げるのと、いまこの場で私に殺されるのと、どちらが確実か試してみたいの?」
私は短剣の先をガルドの右目の瞼に当て、少しだけ力を込めた。皮膚が切れ、一筋の血が彼の頬を伝い落ちる。
「あなたの爪を剥ぎ、耳を削ぎ、鼻を削ぎ落としてからでも、私はこの金庫を力でこじ開けられるわ。ただ、あなたの苦しむ時間が少し長くなるだけ」
「あ……あわわ……っ! 開ける! 開けるから、助けてくれぇぇっ!」
ガルドの股間から、生温かい小便の臭いが立ち込めた。かつて父の前でコソコソと卑屈に笑っていた男の、これが真の姿だ。
ガルドは震える手で金庫のダイヤルを回した。カチリ、カチリと不気味な金属音が倉庫に響く。重い扉が開くと、中には山と積まれた金貨と、ヴァルハイト家の裏の印章が押された台帳、そして帝国貴族たちの弱みを握る密書がぎっしりと詰まっていた。
「……よくできました」
私は一番奥にあった黒い革表紙の台帳を手に取った。そこには、レイヴィスが公爵家の財産をどのように横領し、誰に賄賂を贈って父に謀反の濡れ衣を着せたのか、その全ての記録が克明に記されていた。
「これね……。これさえあれば、レイヴィスの中央進出は瓦解する……」
「シ……シレーナ様、台帳はやる! 金も全部やる! だから、助け――」
ガルドが乞う声を上げた瞬間、彼の胸から鋭い漆黒の刃が突き出た。
「ガハっ……!?」
ガルドの口から血が噴出し、彼の瞳から光が消えていく。背後に立っていたのは、いつの間にか潜入していたカシエルだった。カシエルは冷酷に刃を引き抜き、ガルドの巨体をゴミのように床へ蹴り倒した。
「なぜ殺したの、カシエル? まだ聞きたいことがあったのに」
私が振り返ると、カシエルは血を拭いながら、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「汚い目でお前の顔を見ていたからだ」
「……無駄な嫉妬ね」
「所有権の主張だ」
カシエルは私の手から台帳を奪うと、それを自分の影の中へと仕舞い込んだ。そして、私の腰を抱き寄せ、壁へと押し付ける。ガルドの死体がすぐ足元に転がっているというのに、彼の吐息は熱く、危険な匂いを孕んでいた。
「これで、レイヴィスの『足元』は崩れ始めた。今頃、奴の元には『密輸拠点が襲撃され、記録が奪われた』という報せが届くはずだ」
「ええ……。資金が止まれば、帝国貴族たちは一斉にレイヴィスから離れていく。奴が必死になって築き上げた『帝国中央への道』が、ガラガラと音を立てて崩れ去るわね」
「だが、それだけでは足りまい?」
カシエルは私の顎を指ですくい上げ、仮面の奥の瞳を妖しく蠢かせた。
「奴の自尊心を、最も深く傷つける方法を考えよう。……あの偽りの『聖女』、リリアナだ」
「リリアナ……」
私の胸の中で、黒い炎が弾けた。
あの女。可憐な皮を被り、陰で私を「魔女」と嘲笑い、自作自演の毒劇で私を陥れた女。レイヴィスはあの女を「汚れなき天使」と信じ込み、己の欲望の象徴として愛でている。
「リリアナの『聖女』としての仮面を剥ぎ取るわ」と私は冷ややかに笑った。「あの女が陰でどんな男たちと肉体関係を持ち、どのような毒を使って人を殺してきたか……その汚悪な真実を、レイヴィス自身の目で確かめさせてやる」
「いいな。絶望の底に突き落とされるレイヴィスの顔が、目に浮かぶようだ」
カシエルは私の唇に、深く、傷口を舐めるようなキスを落とした。血と雨の味が、口の中に広がる。私はそれを拒まなかった。カシエルの与える毒のような快楽は、私の復讐心をさらに苛烈に燃え上がらせる薪だったからだ。
────
「さあ、戻ろう、シレーナ。次の舞台は、ヴァルハイト城で開かれる『新聖女お披露目の夜会』だ」
カシエルが指を鳴らすと、倉庫全体に黒い影の炎が広がった。
ガルドの死体も、密輸品も、金庫も、すべてが漆黒の炎に包まれ、灰へと変わっていく。
────
翌朝。
ヴァルハイト城の執務室で、レイヴィス・ヴァルハイトは絶叫していた。
「何だと!? ルナリアの港が全滅しただと!?」
目の前に膝をつく部下は、恐怖でガタガタと震えている。
「は、はい……! 昨夜、何者かの襲撃を受け、倉庫は全焼。ガルド様をはじめ、配置されていた兵士は全員死亡……! さらに、金庫の中にあった『あの例の物』が持ち去られました……!」
「バカな……! バカなバカなバカなッ!」
レイヴィスは高級なオーク材のデスクを激しく蹴り飛ばした。書類が舞い散り、インク瓶が割れて赤い液体のシミを作る。
「誰だ!? 誰がそんな真似を! 敵対勢力の生き残りは全員処刑したはずだ! 最後のシレーナも地下牢で焼き死んだのだろうがッ!」
「そ、それが……現場に残されていた兵士の死体には、まるで『巨大な刃』で一刀両断されたかのような切断面が……そして、その……先ほど届いた物が……」
部下は震える手で、一枚の紙を提出した。赤黒い血で書かれた一文。
『――あなたの殺し方を考えている。楽しみに待っていて。シレーナ』
「な……ッ!?」
レイヴィスの顔から、一瞬で血の気が引いた。
彼の脳裏に浮かんだのは、暗闇の地下牢で、泥に塗れながら不気味に微笑んでいたシレーナの瞳だった。あの、冷たく、澄み切った、絶対的な殺意を宿した瞳。
「ひ……」
レイヴィスの喉から、情けない悲鳴が漏れた。
「レイヴィス様? どうなさったの?」
部屋の扉が開き、薄桃色のドレスを着たリリアナが入ってきた。彼女は不安そうな顔でレイヴィスに近づき、その腕に抱きつこうとした。
「お顔色が真っ白ですわ。何かあったのですか……?」
「触るなッ!」
レイヴィスは激昂し、リリアナの手を強く振り払った。
「あ……っ!」
リリアナは床に倒れ込み、信じられないという目でレイヴィスを見上げた。かつて自分を姫君のように扱い、一度たりとも乱暴な振る舞いなどしなかった男が、自分を拒絶したのだ。
「レイヴィス様……? なぜ、そんな……」
「うるさい! 黙っていろ!」
レイヴィスは爪を噛みながら、部屋の中を立ち狂ったように行き来した。
密輸ルートの壊滅。記録の喪失。帝国貴族たちからの信頼の失墜。そして、闇の中から迫りくる『シレーナ』という死の影。
彼が築き上げた完璧な王国に、最初の巨大な亀裂が入った瞬間だった。
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城から遠く離れた森の中で、私は静かに斬首刀の手入れをしていた。
雨は上がり、雲の隙間から冷たい月光が差し込んでいた。
「ああ〜、レイヴィス。まだ、あなたが私と私の家族から奪ったものの、ほんのひとかけらに過ぎないわ」
その時、カシエルが背後から私を抱きしめ、その冷たい顎を私の肩に乗せた。
「素晴らしい顔だ、シレーナ。もっと壊れろ。もっと狂え。そして最後には、私の腕の中だけでしか生きられない体になれ」
「ふふ……カシエル。あなたが私を地獄へ連れていくというのなら、私は喜んでその手を取るわ」
私はカシエルの仮面に手を重ね、月光の下で冷たく微笑んだ。
奴らは、まだ命を繋ぎ止めている。奴らが最も絶望する瞬間――最高の栄華を極めたと思い込んだその瞬間に、すべてを奪い去っていく。




