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カシエルの黒い修道服の袖から溢れ出した影が、煙のように私の右手を包み込んだ。
「うぐ……っ!」
激痛が脳腔を突き抜けた。砕かれ、不自然な方向に曲がっていた指の骨が、影の蠢きによって無理やり元の位置へと繋ぎ合わされていく。肉を縫い合わせるような生々しい音と、氷を直接押し当てられたかのような痛みが肉体を苛む。だが、私は歯を食いしばり、声を漏らさなかった。ここで叫べば、地上で祝杯を挙げているはずの奴らに気付かれる。
「ほう……。骨を繋ぎ直す痛みに、顔色一つ変えんとはな。まともな女なら失神しているぞ」
カシエルは楽しげに喉を鳴らし、私の頬にこびりついた乾いた血を、黒い手袋の指先で優しく拭った。その手つきは驚くほど繊細で、しかし同時に、獲物の解体手順を確認する肉屋のような冷徹さを孕んでいた。
「痛みは記憶だ。私の魔法はお前の傷を肉体的に繋ぐが、痛みそのものは消さない。その痛みを忘れるな、シレーナ。それがお前を動かす『薪』となる」
「忘れるわけがない……。この痛みの百倍、千倍にして奴らに返してやるまでは、死んでも忘れない」
私は新しく繋ぎ直された右手を握り締め、開き、感覚を確かめた。皮膚の下を黒い影の糸が蠢いているような不気味な違和感はあるが、力は入る。斬首刀の重みもしっかりと握り潰すことができる。
地上からは、遠く鐘の音が響いていた。黎明を告げる鐘――私を断頭台へと引きずり出すための朝の到来だ。
重い足音が地下へと続く石段を降りてくるのが聞こえた。甲冑が擦れ合う金属音と、あざ笑うような男たちの下品な声。三人、いや、四人。私に暴行を加え、爪を剥がしたあの拷問官ガロンと、ヴァルハイト家の近衛兵たちだ。
「さあ、お寝坊な元公爵令嬢様のお出ましだ。断頭台の露と消える前に、俺たちの顔をしっかり拝ませてもらうかね」
ガロンの汚らしい声が牢獄内に響き渡る。
カシエルは私の背後に静かに身を引くと、まるで気配そのものを消し去るように暗闇の壁と同化した。彼の持つ『異端審問官』としての異能――影を纏う術。普通の人間には、そこに彼が立っていることすら認識できない。
鍵が回され、不快な音を立てて鉄扉が開いた。
松明を掲げて入ってきたのは、豚のように太った男、拷問官ガロン。その背後に、ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべた兵士が三人。
「おいおい、シレーナ様よ。鎖を解いて、どこへ行くつもりだ? まだ立っていられるほどの体力が残っていたとは……」
ガロンが松明を掲げ、私を見下ろす。床に落ちた鎖を見て、彼の目が警戒に細められた。だが、それは遅すぎた。
「ガロン」
私は低く、静かな声で彼の名前を呼んだ。
「あ?」
「私の右手を砕いた時、お前は言ったわね。『公女様の綺麗な指も、折れればただの肉くずだ』と」
「……頭でも狂ったか? 死に損ないの女が――」
ガロンが腰の鞭に手を伸ばそうとした瞬間、私は一歩を踏み出していた。
カシエルから預かった斬首刀は、暗闇の中で一閃の黒光りを描いた。
過剰なほどの重量を持つ巨大な刃が、空気の壁を切り裂く重厚な音。次の瞬間、ガロンの太い右腕が、肘のあたりから斜めに切断され、綺麗な円を描いて宙を舞った。
「あ……が……っ!?」
噴き出す鮮血が、地下牢の石壁を赤く染め上げた。ガロンは己の右腕がなくなったことを理解するのに数秒を要し、それから喉が潰れるほどの絶叫を上げた。
「ひ、ギャアアアアアアアッ! 手が、俺の手がぁぁぁっ!」
「静かにしなさい。耳障りよ」
兵士たちが腰の剣を抜こうと動くよりも早く、私は踏み込み、切断した刃の返しでガロンの左膝を打ち砕いた。ゴキリ、という不快な骨折音が響き、ガロンは大量の血を流しながら、膝から崩れ落ちる。
「ヒッ……!? こ、この女、なぜ動ける!?」
「構うな、斬れ! 殺せっ!」
動転した兵士三人が一斉に刃を抜いて襲いかかってきた。
だが私の頭脳は恐ろしいほど冷静だった。数秒前、この牢獄で組み立てた『殺害計画』が、完璧な精度で再生されていく。
一人目の剣を、斬首刀の腹で受け流す。金属の硬い火花が散る。間髪入れずに足の裏で奴の膝を蹴り抜き、体勢が崩れたところを、首の根元から一刀両断する。頭部が半回転して床に転がり、肉の柱から血が勢いよく噴き出した。
二人目が悲鳴を上げて後退しようとしたが、その背後の暗闇から伸ばされた『影の手』が、奴の喉元を固く締め上げた。カシエルだ。男は空中で足をバタつかせ、数秒で頸骨を折られて崩れ落ちた。
残る三人目は、刃を捨てて逃げ出そうと石段へ向かって走り出した。
「逃がさない」
私は足元に転がっていたガロンの切り落とされた右腕を拾い上げ、渾身の力で逃げる兵士の背中に向けて投げつけた。重い肉塊が後頭部を直撃し、兵士は前転するように石段で転倒した。
私はゆっくりと歩み寄り、這い上がろうとする彼の背中を力任せに踏みつけ、その首筋へと斬首刀の尖端を突き立てた。
血の海の中で、わずか一分にも満たない屠殺が終わった。
地下牢獄は、再び深い静寂に包まれた。変わったのは、充満する鉄の匂いの濃さと、床を転がる新鮮な死体の数だけだ。
「ひ……ひぃ……っ、シ、シレーナ様……! 頼む、助けてくれ……! 俺は命じられただけだ! ヴァルハイト伯爵に、お前を痛めつけろと命令されたんだ!」
片腕と片膝を失ったガロンが、血の海を這いながら、惨めに命乞いをした。彼の顔は恐怖で歪み、鼻水と唾液でドロドロになっていた。
かつて、この男は私の爪を剥ぎながら、同じように許しを請う私を嘲笑っていた。
「助けて、か」
私はガロンの髪を掴み上げ、彼がかつて私にしたのと同じように、顔を強制的に上へ向けさせた。ガロンの瞳に映っているのは、もはや人間の女ではない。地獄の底から這い上がってきた復讐の悪鬼の姿だ。
「レイヴィスに命じられた……そうね。だから、あなたを一番最後に殺してあげるわけにはいかないの。レイヴィスの前に、まずはお前で練習させてもらうわ」
「や、やめろ――」
私は斬首刀を捨て、手元に落ちていた拷問用の細い鉄串を拾い上げた。
「爪を剥ぐ痛みがどれほどのものか、その豚のような指でじっくり味わうといい」
暗闇の中で、ガロンの狂気的な絶叫が響き渡った。
爪を一枚ずつ剥がし、指の骨を一本ずつ砕く。奴が痛みに耐えかねて気絶するたびに、カシエルの黒い影がガロンの意識を強制的に呼び覚ました。絶望と激痛の無限ループ。奴が私に与えたすべての苦痛を、寸分違わずそのまま叩き返してやった。
「素晴らしい手際だ、シレーナ」
カシエルは壁に背を預け、腕を組んでその惨劇を眺めていた。彼の琥珀色の瞳は、嗜虐的な喜びに揺れている。
「拷問の才能がある。処刑人として私の下で雇いたいくらいだ」
「お世辞はいらないわ。……これで一人目」
ガロンが完全に息絶えたのを確認し、私は血塗られた鉄串を捨てた。息は少し荒くなっていたが、心の中は不思議なほど穏やかだった。父と弟の無念が、ほんの少しだけ報われたような、冷たく不快な快感。
これだ。これこそが、私が生き延びるための唯一の糧。
「さて、シレーナ」とカシエルが歩み寄ってきた。「ここからが本番だ。レイヴィスは今頃、リリアナと共に朝の優雅な朝食をとっているだろう。お前が断頭台へ引きずり出される惨めな姿を、高台のバルコニーから高みの見物決め込むつもりだ」
「私がこのまま姿を消せば、奴らは警戒するわね」
「だからこそ、ここで『死体』を作る」
カシエルが合図を送ると、彼の背後の影がぐにゃりと歪み、そこから人間の形をした『何か』が蠢き出た。それはカシエルの暗黒魔法によって作られた、私とまったく同じ体型、同じ髪色をした肉の傀儡だった。その顔面は無惨に潰され、ガロンたちの死体と共に死肉の山を形成している。
「これをここで燃やし尽くす。地下牢で狂った公爵令嬢が拷問官たちを巻き込んで無理心中を遂げた……レイヴィスにはそう思わせておこう。奴らが安堵し、勝利の美酒に酔いしれ、無防備になったその瞬間こそ、最大の絶望を叩き込む好機だ」
「姿を消し、影から奴らの全てを奪うのね」
「そうだ。奴が手に入れた地位、名誉、財産、そして愛する聖女……それらを一つずつ、最も残忍な方法で削ぎ落としていく。最後には何一つ残らなくなった奴の前に、死んだはずのお前が姿を現すのだ。想像してみろ、シレーナ。その時のレイヴィスの顔を」
カシエルの言葉に、私の唇が自然と吊り上がった。
想像できる。いや、鮮明に見える。
自分が絶対的な支配者だと信じ切っていた男が、足元からすべてを崩され、恐怖に顔を歪ませて私を見上げる姿が。
「楽しみね……本当に」
カシエルが指を鳴らすと、黒い炎がガロンたちの死体と傀儡へと燃え移った。激しい熱量と、肉が焼ける嫌な匂いが牢獄を満たしていく。
カシエルは私の細い腰を抱き寄せると、漆黒のマントで私を包み込んだ。彼の体温は冷たいはずなのに、私を抱く腕の力は不気味なほど強く、固い。
「行くぞ、我が復讐の姫君。地上は雨だ。血を洗い流すには絶好の天気だ」
「ええ……導いて、カシエル」
私たちは激しく燃え盛る黒炎を背に、闇へと消えた。
ヴァルハイト城の地下から抜け出した私たちは、城を見下ろす北の森の丘に立っていた。冷たい雨が、私の血に濡れた髪とドレスを洗い流していく。
丘の上から見下ろす城塞は、朝靄の中で壮麗に聳え立っていた。あの豪華な部屋のどこかで、レイヴィスとリリアナは私という邪魔者が消えたことを祝っているのだろう。
私は雨空に向けて、静かに刃を掲げた。
(レイヴィスが作り上げた偽りの国を、私が内側から叩き潰してあげる。あなたの愛するリリアナが、聖女ではなくただの淫婦であることを白日の下に晒し、あなたが誇るヴァルハイトの家名を泥に塗れさせてあげる)
「まずはどこから手を付ける?」
背後からカシエルが私の肩に手を置き、耳元で甘く囁いた。その声には、私の所有権を主張するような不穏な情熱が宿っていた。
「レイヴィスが帝国の中央進出のために頼りにしている、極秘の『密輸ルート』があるわ。父が生前、奴の不審な動きを警戒して調べていたの」
私は振り返り、仮面から覗くカシエルの琥珀色の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「奴の資金源を断ち切る。奴が帝国の貴族たちに渡している賄賂の証拠を奪い、逆に奴を追い詰める足がかりにするわ」
「いい計画だ。絶望は少しずつ与えるのが一番悦楽だ」
カシエルは私の手に自分の手を重ね、斬首刀の柄を共に握りしめた。
「お前の復讐が完成するその日まで、私はお前の影となり、刃となろう。だが忘れるな、シレーナ。お前がすべてを殺し尽くした時、お前に残されるのはこの私だけだ」
「忘れないわ。あなたの歪んだ愛も、この命の代償も……すべて受け止めてあげる」
私はカシエルの銀の仮面に手を触れ、冷たい金属越しに薄く微笑んだ。
愛などという甘い幻想は、あの地下牢で死んだ。いま私とこの男を結びつけているのは、血と復讐の契り。殺意によって硬く結ばれた、地獄の番人との絶対的な絆だ。
雨が強まり、私たちの姿を深く重い霧の中に隠していく。
さあ、宴の始まりだ。
ヴァルハイト城に飾られた竜の紋章旗が、冷たい風に煽られて不吉に揺れていた。奴らが自分たちの「終わり」の始まりに気づくのは、そう遠い未来のことではないだろう。




