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冷たい雨が、割れた窓ガラスの隙間から吹き込み、石造りの廊下に澱んだ水たまりを作っていた。錆びた鉄と、乾ききっていない古い血の匂い。それが、私が閉じ込められている地下牢獄のすべてだった。
指先の感覚はもうない。冷気で麻痺しているからではない。右手の爪を一本ずつ剥がされ、骨を砕かれたのは三日前のことだ。足首を繋ぐ太い鎖が、体を少し動かすたびにじゃらりと不快な重音を立てる。その音さえも、この暗闇の中では耳障りな生への執着のように聞こえて不快だった。
重い鉄の扉が、軋んだ悲鳴を上げて開く。
松明の揺らめく橙色の光が、黒ずんだ壁を舐めるように照らし出した。光の輪の中心に立つ男の姿を、私は濁った瞳で見上げる。
濡れた漆黒の髪。隙なく仕立てられた深い紺色の軍服。その胸元には、銀色に輝く竜の家紋章。かつて私が息をのむほど美しいと憧れ、その胸に抱かれることを神に感謝した男――我が夫であり、この北境領を統べる辺境伯、レイヴィス・ヴァルハイト。
彼の傍らには、薄桃色のシルクのドレスを纏った小柄な女性が寄り添っていた。聖女と崇められる女性、リリアナ。彼女の純白の肌には傷一つなく、怯えたようにレイヴィスの腕にしがみついている。その可憐な姿は、この泥と腐臭に満ちた牢獄にはあまりにも不釣り合いで、滑稽ですらあった。
「シレーナ」
レイヴィスの声が響く。かつて私の名前を甘く囁いたその声は、いまや氷のように冷たく、吐き捨てられる侮蔑に満ちていた。
「見苦しいな。かつて公爵家の公女と呼ばれた女が、泥に塗れて蛆虫のように這い回るとは。……己の罪を認める気になったか?」
私は答えない。ただ、彼の足元に散らばる水たまりを見つめていた。
「黙っているのか」
レイヴィスが一歩踏み出す。高級な革ブーツが泥を踏みつける音が、静寂を破る。彼は私の頭髪を容赦なく掴み上げ、強制的に顔を上げさせた。強い力で頭皮が引きちぎれるような痛みが走るが、私の顔からは一切の感情が削ぎ落とされていた。
「私を謀り、リリアナを毒殺しようとした罪。我がヴァルハイト家に災いをもたらした魔女としての罪。お前には死すら生ぬるい。……なぜ何も言わない? 命乞いをしたらどうだ? かつてのように、泣き叫んで私に縋り付いたらどうだ!」
レイヴィスの瞳の奥に、苛立ちの火が揺らめいているのを私は見逃さなかった。
彼は私が泣き喚くことを望んでいるのだ。絶望に狂い、己の無力を嘆き、彼の慈悲を乞うて見苦しく這い回ることを。かつて彼を盲目的に愛し、彼のために己の人生も、実家の財産も、貴族としての誇りすらもすべて差し出したあの愚かな女が、惨めに砕け散る様を確かめたいのだ。
レイヴィスの隣で、リリアナが小さく息を呑み、怯えた声を装う。
「レイヴィス様……もうやめてあげてください。シレーナ様も、きっとお怒りなのですわ。本当のことが暴かれ、お立場を失われたのですもの。お話しになりたくないのも無理はありません……」
言葉とは裏腹に、彼女の口元がわずかに歪み、嘲笑の形を作っているのを私は知っている。
私が毒を盛ったのではない。この女が自分で毒を煽り、私になすりつけたのだ。そしてレイヴィスは、最初から私を捨てるための口実を探していた。魔女の血を引くという古い家系の私の存在は、帝国の中央へ進出しようとする彼にとって、いまや邪魔な汚点でしかなかったのだから。
私の実家である公爵家は、一ヶ月前に謀反の冤罪を着せられ、当主である私の父も、まだ若かった弟も、全員が処刑された。それを主導したのが、他ならぬ私の夫、レイヴィス・ヴァルハイトだった。
父の生首が城門に晒された日、レイヴィスは私を抱き寄せ、「お前の安全だけは私が守る」と甘く囁いた。私はその嘘を信じ、彼の胸で泣き明かした。……すべては、私から戦力と後ろ盾を奪い、完全に孤立させるための罠だったというのに。
「どうした、シレーナ? 舌まで切られたわけではなかろう」
レイヴィスが私の顔を覗き込む。その顔には、圧倒的な優位に立つ者の、冷酷でサディスティックな愉悦が浮かんでいた。
「かつての高慢な面影もないな。声も出せんほど怒りに打ち震えているのか? だが、お前がどれほど怒ろうと、明日にはお前の処刑が決まる。断頭台の上で、己の愚かさを呪うがいい」
彼は私を吐き捨てるように放り投げた。頭部が硬い石壁に激しくぶつかり、視界が真っ赤に染まる。鉄の味が口の中に広がった。
「参りましょう、レイヴィス様。こんな汚らわしい場所に長居されては、お体が痛んでしまいます」
リリアナが鈴を転がすような声で言い、レイヴィスの腕に甘えるように身を寄せた。
「そうだな。お前にこのような不快なものを見せてすまなかった、リリアナ」
レイヴィスは彼女の腰を優しく抱き寄せ、一度も私振り返ることなく、足早に牢獄を去ろうとした。松明の光が遠ざかり、再び暗闇が部屋を支配しようとする。
その時、私は小さく息を吐き出した。
乾いた、小さな笑い声が、私の喉から漏れた。
レイヴィスの足が止まる。彼は不快そうに振り返った。
「……何が可笑しい」
私は泥に塗れた体をゆっくりと起こした。砕かれた右手の痛みも、引きちぎれそうな頭皮の痛みも、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。私の全身を巡っているのは、血ではなく、冷たく澄み渡った殺意だった。
私は、怒ってなどいない。
怒りなどという生ぬるい感情は、父と弟の首が落とされたあの日に、疾うの昔に焼き尽くされた。絶望も、悲しみも、裏切られた憎悪すらも、いまや私の中には残っていない。
脳裏の中で、鮮明な景色が広がっていた。
レイヴィスのその美しい首筋を、どの角度から刃を入れれば一番深く血が噴き出すか。
彼の自慢であるその誇り高き瞳を、どのような手順で抉り出せば、最大の絶望を映し出せるか。
彼の肉を一枚ずつ削ぎ落とし、骨を叩き割り、彼が愛するこの城の石畳にその肉片をぶちまけるのに、何分の時間が必要か。
リリアナのあの薄桃色のドレスを、彼女自身の内臓で赤く染め上げ、絶叫が途絶えるまでその口に泥を詰め込む方法。
一通りではない。百通り、千通りの殺害手順が、私の中で恐ろしいほどの緻密さで組み立てられていた。どの順番で傷つければ命が一番長持ちし、どれほどの激痛を与え続ければ、彼らが私に乞うのは慈悲ではなく「死」そのものになるのか。それを精密な時計を組み立てるかのように、静かに、丹念にシミュレーションしていたのだ。
だから、声など出す必要がなかった。無駄な叫びで喉を枯らすくらいなら、その体力を一筋の殺意に変換したかった。
「……気味が悪いな」
レイヴィスが眉をひそめた。暗闇の中で静かに微笑む私を見て、彼の肌に小さな鳥肌が立ったのを、私は見逃さなかった。強者が弱者に向ける蔑視の中に、ほんのわずかな、本能的な恐怖の芽が混ざり込んだ瞬間だった。
「行こう、レイヴィス様……! この女、頭がおかしくなっていますわ!」
リリアナが引きつった声を上げ、レイヴィスの服の裾を強く引っ張った。
「……フン、狂ったか。哀れな女だ」
レイヴィスは強がりように吐き捨てると、今度こそ背を向け、重い鉄扉を脱出した。重厚な扉が閉じられ、大きな鍵が回される音が響く。
再び、完全な暗闇と静寂が訪れた。
私は暗闇の中に横たわり、天井を見つめた。深く、静かな呼吸を繰り返す。心拍数は驚くほど安定していた。血の匂いと腐臭に満ちたこの地下牢は、いまや私にとって、完璧な処刑計画を練るための静謐な書斎にすぎなかった。
「……見事な殺意だ」
突然、誰もいないはずの暗闇の奥から、低く掠れた男の声が響いた。
私はピクリとも動かず、声のした方角へ視線を向けた。鎖の音はさせない。息を殺し、気配を探る。
暗闇の輪郭が歪み、影の中から一人の男が滑り出すように姿を現した。
松明の光すら届かないはずの暗闇の中で、男の着ている漆黒の修道服と、その胸元に下げられた逆さ十字の銀飾りが目に入った。男の顔半分は白い銀の仮面で覆われており、露わになった左目だけが、暗闇の中で妖しい琥珀色に輝いていた。
男の背後には、長大な斬首刀が背負われている。
異端審問官兼、帝国の処刑人――カシエル。
皇帝直属の影として、国家の害悪や魔女を秘密裏に処理する「帝国の鋏」と呼ばれる男だ。彼がここにいるということは、私の処刑が公の断頭台ではなく、闇から闇へと葬られる形になることを意味していた。
「叫ばず、乞わず、ただ獲物の喉笛を絶つ術だけを計算している……。素晴らしいな、公爵令嬢。いや、落日の一族の生き残りよ」
カシエルは音もなく私の前に膝をついた。彼から漂うのは、長年血を浴び続けた者にしか纏えない、濃密な死の香気だった。
「私を殺しに来たの?」
私の声は、自分でも驚くほど冷ややかに響いた。掠れてはいたが、震えてはいなかった。
「半分はそうだ」とカシエルは低く笑った。「明日、お前を断頭台へ引きずり出し、その首を跳ねるのが私の仕事だ。レイヴィス辺境伯からは『手違いで見苦しく暴れぬよう、今夜のうちに手足を完全に潰しておけ』と裏で頼まれていてね」
「そう」
私は小さくつぶやいた。右手の潰された指に、少しだけ力を込める。動かない。だが、左手と、まだ動く足がある。首を噛み切るための歯もある。この処刑人が私を痛めつけようと近づいてくるなら、その隙に彼の喉笛を食いちぎり、背中の斬首刀を奪うまでだ。
私の瞳に宿る野生の凶暴さを読み取ったのか、カシエルは満足そうに口角を上げた。
「……だが、もう半分は興味だ。我が主である皇帝陛下も、レイヴィス辺境伯の急速な台頭と、公爵家の突然の滅亡には疑問を抱かれておられる。お前の中に、まだ反逆の『牙』が残っているかを見に来たのだ」
カシエルは銀の仮面で覆われた顔を近づけ、私の頬に触れた。彼の指先は、私が触れてきたどの人間よりも冷たかった。
「お前の瞳は死んでいない。それどころか、地獄の業火よりも深く、暗い炎が燃えている。レイヴィスはお前を狂人と笑ったが、私には分かる。お前はただ、あいつの殺し方を完璧に反芻していただけだ」
「分かっているなら……去りなさい。私の邪魔をしないで」
「邪魔? 違うな、シレーナ」
カシエルは懐から一本の小さな鍵を取り出した。そして、私の足首を固く縛り付けていた鉄の鎖の錠前へ、迷いなく差し込んだ。
カチャリ、と硬い金属音が響く。
「私はお前に手を貸そうと言っているのだ」
重い鎖が床に落ち、私の足が自由になった。あまりの唐突さに、私は一瞬言葉を失った。
カシエルは私の目の前に斬首刀の柄を差し出し、琥珀色の瞳を怪しく光らせた。
「お前が求めているのは、安らかな死か? それとも、あいつらの肉を食らい、血を飲み干す復讐か?」
「……愚問ね」
私はかすれた声で言い、動く左手を伸ばした。冷たく重い斬首刀の柄を、しっかりと握りしめる。鉄の重みが、私の掌に確かな現実感をもたらした。
「あいつらは、簡単に死んではいけない。私が受けた屈辱、父と弟が流した血、奪われたすべての代償を……一滴残らず、骨の髄まで支払わせる」
「いい顔だ」
カシエルは深く、愉悦に満ちた息を吐いた。
「ならば、契約と行こう。お前に力を与えよう。レイヴィスとリリアナ、そして彼らを裏で操る全勢力を引き裂くための力を。その代わり――お前が復讐を果たし、すべてを焼き尽くした時、お前のその美しい魂と残りの人生は、この私のものだ」
彼の言葉には、甘美で毒々しい愛執が孕まれていた。レイヴィスが見せた偽りの愛とは違う。私の醜悪な殺意も、黒く濁った復讐心も、すべてを丸ごと喰らい尽くそうとする、絶対的な執着。
だが、今の私にとって、その企みがどれほど危険であろうと関係なかった。
悪魔に魂を売ろうと、地獄の底に堕ちようと構わない。あの男たちを地獄のさらに底へと引きずり下ろせるのなら。
「いいわ」
私はカシエルの手を取り、その冷たい指を固く握り返した。
「私の命も、魂も、すべてあげる。……ただし、あいつらの断末魔を、特等席で見届けてからよ」
「交渉成立だ、我が愛しい復讐者」
カシエルは私の額に、誓いの吻を落とした。氷のような冷たさが、私の身体の奥深くに浸透していく。
外では、冷たい雨が依然として降り続いていた。
だが、私の胸の中で燃え盛る黒い炎は、二度と消えることはない。
レイヴィス。リリアナ。
あなたたちが私に与えた絶望の数々を、私は一つとして忘れていない。
楽しみにしていて。私の静寂が終わり、あなたたちの肉を削ぎ落とすその瞬間を。




