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再会  作者: 志に異議アリ


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4/5

名前のない年月


透子は、この家で眠るのが苦手だった。

 

二十年ぶりに戻った実家の二階。


かつて自分の部屋だった場所は、物置に変わっていた。


押し入れから出された客用布団。


知らない洗剤の匂い。


壁紙の黄ばみ。

 

窓の外で鳴く、昔と同じ電車の音。

 

体は横になっているのに、どこにも身を置けていない感じがした。

 

昔もそうだったな、と透子は思う。

 

家にいても、

帰宅しても、

いつも少しだけよそ者だった。

 

十四歳の秋、透子は家を出た。

 

その夜、母の部屋の前に立ったことを覚えている。

 

制服の袖は裂けていた。

頬は熱を持ち、

唇の端が切れていた。

 

学校で三人に囲まれ、

笑われ、

鞄を捨てられた帰りだった。

 

父は酒を飲んで寝ていた。

 

弟は二階でゲームの音を立てていた。

 

母の部屋の障子の向こうには、明かりがついていた。

 

透子は小さく言った。

「お母さん」

返事はない。

もう一度。

「お母さん」

布団のこすれる音がした。

起きているのはわかった。

けれど、障子は開かなかった。

 

透子はそのまま玄関へ行き、

靴をそろえて履いた。

鍵はかけなかった。

朝には、いなくなっていた。

 

最初の数日は、公園と駅で過ごした。

腹が減ることより、夜が怖かった。

酔った男の声、笑い声、足音。

ベンチに座っているだけで値踏みされる目。

名前を聞かれても答えなかった。

透子と呼ばれるたび、この家がついてくる気がした。

 

やがて年上の女に拾われた。

コンビニの裏でパンを食べていたときだった。

「そんな顔してると、食われるよ」

女はスナックで働いていて、しばらく店の裏部屋に置いてくれた。

 

その代わり、皿洗いと掃除と、客への愛想笑いを覚えた。


そこで初めて別の名前をもらった。


トウコ。

漢字のない名前。

 

それが少しだけ楽だった。

十代の終わりには、また別の場所へいた。

工場。

寮。

介護施設。

スーパーの品出し。

名字も住所も何度か変わった。


恋人と呼べる男もいた。

だが、名前のない人間を本気で抱きしめる者はいなかった。

透子自身も、誰かに預けられるほど、自分を持っていなかった。

 

気づけば三十代になっていた。

若さで通れていたものが、年齢で止められるようになった。

 

保証人。

身分証。

保険証。

賃貸契約。


“なんとかなる”が、

少しずつ終わっていった。

 

四十手前の冬、職場で倒れた。

立ちくらみだと思っていたが、病院では検査を勧められた。


「保険証は?」

受付の女は事務的だった。

透子は黙った。

古い財布の中には、期限切れのカードと、何度も折りたたんだメモしかない。


病院の椅子に座りながら、

透子は急に笑いたくなった。


生き延びることばかり考えてきて、

生きるための紙一枚を持っていなかった。


その帰り道、透子は駅前のベンチで何時間も座っていた。


帰る場所なんてない。

そう思ってきた。

でも、帰れない場所なら一つだけある。


そこにまだ、自分の名前が残っているかもしれなかった。

 

翌週、透子は電車を乗り継いだ。

車窓の町並みは変わっていた。

 

店がなくなり、

知らないマンションが建ち、

畑が駐車場になっていた。

 

なのに、家の最寄り駅に着いた瞬間、足が震えた。

 

体は覚えている。

帰り道。

曲がり角。

犬に吠えられた家。

駄菓子屋の跡地。

 

玄関前に立ったとき、逃げたくなった。

それでもチャイムを押した。

二度目で、母が出た。

 

今、透子はその家の居間で一人だった。

 

家族はそれぞれ仕事や用事で出ている。

 

自分だけが残されている。

昔と同じだ、と少し思う。


棚の上には、家族写真が増えていた。

 

亮介の結婚式。

 

父の還暦祝い。

 

母と旅行先で撮った写真。

 

透子のいない二十年が、きれいに額に収まっている。

 

透子は一枚ずつ眺め、最後に写真立てを元の角度へ戻した。

 

玄関が開く音がした。

雅代だった。


「ただいま……あ、ごめん、一人で退屈だったでしょう」

「平気」

 母は買い物袋を置き、少し迷ってから言った。

「今日ね、役所に聞いてみたの。手続きのこと」

 透子は黙って見た。

「色々確認がいるみたい。でも、できることはするから」

 透子は頷いた。

「ありがとう」

 雅代の目が潤む。

「戻ってきてくれて……」

 

その言葉の続きを、透子は聞かなかった。

「私、戻ってきたわけじゃないよ」

雅代の顔が止まる。

透子は穏やかに言った。


「必要になったから来ただけ」

冷たい言い方ではない。

事実を置いただけだった。

 

それが一番、母を傷つけた。

夜、布団に入っても眠れず、透子は窓を少し開けた。

 

外の空気は冷たかった。

遠くで犬が鳴く。

電車の通る音。

昔と同じ町の音。

透子は小さく息を吐いた。

 

二十年ぶりに帰ってきても、

 

ただいま、とは最後まで言えなかった。



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