最終話 透子とトウコ
朝から雨だった。
細い雨が庭の砂利を濡らし、雨どいを伝って一定の音を立てている。
雅代はその音を聞きながら、味噌汁を温め直していた。
透子はもう起きていて、居間の窓際に座っていた。膝に手を置き、外を見ている。
和夫は新聞を広げたまま一文字も読んでいない。
亮介はスマホの画面を指でなぞっているだけだった。
家の中に、四人分の居場所があるのに、誰一人落ち着いていなかった。
「今日、役所行こうと思うの」
雅代が言った。
「必要なもの、確認して……」
「もういいよ」
透子が振り向かずに言った。
雅代の手が止まる。
「え?」
「昨日、連絡した人がいるから。別の方法でなんとかする」
雅代は鍋の取っ手を握ったまま、何も言えなかった。
昨日、自分は“できることはする”と言った。
その言葉を、透子はもう待っていなかった。
昼前、和夫が急に立ち上がった。
「はっきりさせる」
誰に向けた声でもない。
「いつまでこんな……気味の悪いことを」
透子は黙って湯呑みに口をつけた。
「何か証拠でも出せ。おまえが透子だって証拠を」
亮介が小さく
「父さん」と言ったが、
和夫は止まらなかった。
「思い出話なんていくらでもできる。癖だって調べればわかる。靴を揃える? 七味? そんなもん——」
「和夫さん!」
雅代の声が珍しく強く響いた。
だが和夫は、震える手で新聞を畳んだ。
「もし本物なら……」
そこまで言って、口をつぐむ。
透子が初めて和夫をまっすぐ見た。
「困るんだね」
和夫の顔色が変わった。
透子は静かに立ち上がり、二階へ向かった。
誰も止められなかった。
しばらくして、古い缶箱を抱えて戻ってくる。
赤いお菓子の缶だった。角が少しへこんでいる。
雅代の胸が詰まった。
それは昔、透子が宝物入れにしていた缶だ。
「まだあったんだ」
透子は座卓の上に置き、ふたを開けた。
中には、
色褪せたヘアピン、
切れたミサンガ、
ガラス玉、
映画の半券、
古い鍵、
そして小さく折りたたまれた紙。
亮介が息をのむ。
「それ……押し入れの天袋?」
「うん」
透子は笑った。
「私しか届かなかった場所」
昔、家族の中で一番背が高かったのは透子だった。
亮介が追い抜くまでは。
透子は折りたたまれた紙を開いた。
子どもの丸い字だった。
20さいになったら
このいえをでる
ひとりでくらす
だれにもたよらない
日付は、失踪する二年前。
和夫の肩が落ちた。
雅代は口元を押さえた。
亮介は、その紙を見たことがあった。
姉の机で見つけ、面白がって友達に読んだ。
透子が泣きながら取り返した。
その記憶が、遅れて胸に刺さった。
「証拠になる?」
透子が言った。
誰も答えない。
「なら、もう一つ」
透子は缶の底から、古いカセットテープを取り出した。
和夫が目を見開く。
「それ……」
「お父さんが車でいつも聴いてたやつ。私、嫌いだった」
和夫の喉が鳴る。
演歌のベスト盤。
家族旅行のたびに流していた。
透子だけが酔っていた。
「海の日も、これ流れてた」
雅代の手から菜箸が落ちた。
海の日。
熱のある透子を連れて行った日。
「私、三回吐いたよ」
透子は責める口調ではなかった。
「でも誰も覚えてなかった」
雅代の膝が崩れ、座り込んだ。
「……ごめん」
ようやく出た声は、二十年遅れていた。
和夫が椅子に腰を落とす。
「探したんだ……」
かすれた声だった。
「警察にも行った。ビラも…」
「三日だけ」
透子が言う。
和夫の顔が上がる。
「四日目には、近所に
“反抗期だから”って笑ってた」
和夫の口が開いたままになる。
透子は続けた。
「五日目には、玄関の私の靴箱なくなってた」
雅代が泣き声を漏らした。
亮介は思い出した。
父が靴箱を外し、
母が黙って拭いていた午後を。
亮介は立ち上がった。
「俺も……」
喉が震える。
「俺、あのノート……覚えてる。書いた」
透子が見る。
「ねえちゃんはいらないって……」
「うん」
「ごめん」
亮介は初めて姉の前で泣いた。
透子は少し困ったように笑った。
「子どもだったじゃん」
「でも——」
「大人だった人たちのほうが、重いよ」
その言葉に、和夫と雅代は顔を上げられなかった。
昼過ぎ、雨がやんだ。
透子は荷物をまとめていた。
ボストンバッグひとつ。
来たときと同じ量だった。
「行くの?」
雅代が縋るように言う。
「手続きは……家族は……これから……」
透子はファスナーを閉めた。
「家族って、今からなるもの?」
雅代は何も言えなかった。
透子は玄関へ向かい、靴を履く。
いつものように、家族の靴を端へ寄せ、向きを揃えた。
和夫が震える声で言った。
「透子」
透子は振り返る。
「……お父さん」
その呼び方に、和夫は泣き崩れた。
雅代は一歩踏み出した。
「お願い……一度だけ、許して」
透子は少し考えるように黙った。
それから、穏やかに言った。
「お母さん」
雅代が顔を上げる。
「あの夜、一度だけ助けてって言ったよ」
玄関の外の風が、静かに吹き込んだ。
雅代の口が開く。
障子の向こう。
小さな声。
布団の中で、息を殺した自分。
忘れたふりをしていた夜が、二十年ぶりに戻ってきた。
透子は頭を下げた。
「じゃあね」
誰も引き止められなかった。
門扉が閉まる音がして、家の中はしんと静まった。
亮介のすすり泣きだけが続く。
和夫は玄関に座り込み、靴箱にもたれて動かない。
雅代は、透子が揃えていった靴を見ていた。
昔から、この子はそういう子だった。
家の中がどれだけ乱れていても、
自分の足元だけは、きちんと整える子だった。
雅代は泣きながら、その場に崩れ落ちた。
透子は、最初からずっと、透子だった。




