40 罪
淀んだ澱の底で
その黒い塊は深く蝕むように
僕にまとわりつく。
藻掻けば藻搔くほどに一層に
絡みつき、
まるで虬のように
強く縛りつけた。
そして水面には明るい陽が射し
そこへ伸ばす手は水を搔くばかりで
僕の叫びは少しも届かない。
ーーーーー
気がつくと僕はあの
小屋の前に立っていた。
その窓から覗く部屋の中
幼い少年と優しそうに笑う
お爺さん。
僕は自分の足をじっと見つめるが
その足はピクリとも動かなかった。
まるで身体が
凍りついてしまったかのように、
一歩すら踏み出せない。
寒い
(おまえが壊した)
そうだ僕が壊した。
(軽薄なおまえの行動が)
…
(取り返しがつかない…)
涙が溢れてくる。
(恐ろしい現実は全ておまえの…)
景色が滲んでもう見えない。
あの小屋の小さな窓は
見る間に赤く染まり
全てが虚になる。
僕はもう長い間
あの小屋に囚われている。
夢も思い出も、
幸せだったあの日々も
小さな部屋の中に。
ひとかけらの思い出も
キラキラと輝いた小さな喜びも
小さな扉の向こう側に。
伸ばす手は虚空を切り
もう届かない。
僕の足は氷ついた様にピクリとも
動かせず、
その場に縫い止められた様に。
世界は灰色に染まり
急速に色を失ってゆく…
呼吸さえも忘れた様に。
その時急に色が戻り
キィン…
どこからか澄み渡った音が響く。
ふわふわと軌跡を残した螢火が
僕の周りを漂う。
燐光を放つやわらかな人影が
そっと僕の手を取り
優しく泣き笑いのような
切ない音を響かせる。
どこか遠くの記憶で彼女に
出会った事がある…
細く華奢だけど暖かく優しい手、
その手から熱のようなものが伝わる。
(私が包んであげる…)
彼女はふわりと僕を抱きしめる。
暖かく懐かしい熱が心の
氷を溶かして行く。
やわらかな肌の温もりが
僕に少しの勇気をくれたのだ。
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曖昧な記憶の中
唯一残っているとしたら
空っぽな自身の中と
剥き出しの牙だけ。
抜き身のそれは人を傷つける、
だから私はそれを隠す。
誰も触れられないように、
誰からも見えないように。
たとえそれが
自身を切り裂き
血を流したとしても。
始めて得たそれは
後悔と罪悪感だけ。
容易に切り裂き
何をも貫き、
無慈悲に全てを焼き尽くす。
触れればたちまち砕けて消え、
残るのは何もない世界だけ。
自我を持ったのはいつからか
自分が何者で何をなすべきか
未だに分からない。
目的もなく
この巨大な入れ物に
ポツンと小さな私が1人。
後にも先にも暗闇が広がり
誰も何も答えない。
私は泣いている。
でもそれを見せたりはしない
みんながそう願うから。
恐ろしかった
私が触れる物は壊れてしまうのだ。
だからそっと見守るくらいは良いよね?
でもどんどんと勝手に大きく
ココロを閉じ込めたまま
部屋いっぱいに広がってゆく。
苦しい…
切ない…
助けて欲しい…
私のたった一つの小さな願いは。
この小さな手の中だけに。
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名も知らぬ給仕の
あの長い髪の女が
今日も私の所にやってくる。
日に5回きっちり決まった時間
ピッタリに。
私は毎日変わらない景色の
部屋の中に置かれた
テーブルとセットの
ひんやりと冷たい椅子に腰掛けて
今日も本を読む。
来る日も来る日も同じ本を眺める。
ここに記された植物を
混ぜ合わせて何かすると
変わった効能の液体ができるらしい。
南方の高地には血色の結晶が咲く
花がキラキラと音を立てて
揺らめくと言う。
それらは古めかしい装丁の本に
語られるだけの物だった。
私は口を開きかけて
やっぱりキツく閉じる。
給仕は何も話さない。
それどころか誰も
私と話す者などここには居ないのだ。
給事は木彫り面が
張り付いた様な顔で
黙々と仕事を片付けて、
今日もピッタリの時間で
部屋を後にする。
じっと、あの出て行った扉を
虹色の瞳で見つめる。
しんと物音の消えた部屋に
冷たく足音が響いて
白い吐息だけが
緩やかに溶けて消えた。
その場所は険しい山脈の中腹にあり
前方は雲の上の景色が広がり、
その先には海が続く。
山脈の断崖を切り開き、
その岩壁に張り付く様に建てられた
古城である。
ここは尖塔の最上階に位置し
堅牢な古城の一部である、
最下層の巨大な城門からは
恐ろしく長い九十九折りの
階段が雲の下へ続く。
尖塔の最上階にはかなり大きな
バルコニーがあり
寒い季節には一層星空がよく見える。
古城には常に47人の人間が
出入りしており
私の給仕を行なっている。
その中の6人の講師が私に
魔術・薬学・工学・識字・歴史
を教える。
ただし講師は質問にも答えなければ
話しかける事もない。
一方的に講義を垂れ流しているだけだ。
私はその中でも魔術に興味を持った。
識字も当然魔術には必須で
魔法式を組み立てる時使う
工学に含まれる算術も一緒に覚えた。
古城へ出入りする者は
4度の代変わりがあり
自身を認識してから
約160年の時が過ぎた。
私は不思議と彼らの全ての顔を
覚えている。
感傷らしきものは私には
分からなかったが、
1人づつ思い出せるのだ。
しかし
ある日を境に私の記憶は曖昧になった。
あの本棚の本のカビた匂いが消え
気づけば森の中
またある日は人同士の争いの中に
全てはモヤの中
しかし時折見る夢に
赤いドレスの少女がくるくると踊り
そしてぶつりと音をたたて
現実に戻る日々を送った。
あの古城がどこにあったのか
もう私には分からなかった。
そして少女の顔も思い出せない。
雨の音が地を鳴らす度
巨大な咆哮が大地を揺るがせた。
山々は静かに彼女を見守り
その雨は優しく洗い流して
全てを掻き消しすのだ。
暗闇は等しく彼女もその身に包んだ。




