第9話 帰りたい場所
午後のサロンは、朝とは少し違う空気になる。
午前中の慌ただしさが落ち着いて、施術室にはゆったりとした時間が流れている。
受付ではスタッフが次の予約を確認し、奥では美咲が施術の準備をしていた。
そのとき、入口の扉が開いた。
「こんにちは」
美咲が顔を上げる。
入ってきたのは、三十代くらいの女性だった。
少し疲れた表情をしている。
けれど、笑顔だけはきちんと作っていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
「よろしくお願いします」
美咲が案内する。
席に座ると、恩田はバッグを膝の上に置いたまま、店内をゆっくり見渡した。
「ここ、初めてなんです」
「ありがとうございます。緊張なさらなくて大丈夫ですよ」
「はい」
恩田は少しだけ笑った。
カウンセリングを進める。
肩と首の疲れ。
それから、最近は眠りが浅いこと。
食事も少し不規則になっていること。
美咲は必要なことを確認しながら、話を聞いていく。
「最近、お忙しいんですか?」
「そうですね」
恩田は少し考えてから答えた。
「仕事も忙しいんですけど、それより……家のほうが」
「ご家族のことでしょうか?」
「はい」
そこで恩田は一度言葉を止めた。
「実家の母が、少し体調を崩していて」
美咲はそれ以上、急かさなかった。
恩田が話したくなるまで、少し待つ。
「母は一人暮らしなんです」
「そうなんですね」
「私は今、別のところに住んでいて。仕事もあるので、毎日は帰れなくて」
「はい」
「だから、できるだけ電話するようにはしてるんですけど」
恩田は膝の上のバッグを、少しだけ強く握った。
「電話すると、母は大丈夫って言うんです」
「大丈夫って」
「はい。心配しなくていいって」
少し笑った。
「でも、声を聞けば分かるんです。全然大丈夫じゃないって」
美咲は静かにうなずいた。
「それは、心配になりますよね」
「そうなんです」
恩田は小さく息を吐いた。
「帰らなきゃって思うんです」
「はい」
「でも、仕事も休めなくて」
「そうだったんですね」
「だから、電話するたびに、なんか申し訳なくなって」
そこまで話して、恩田は黙った。
美咲は施術の準備をしながら、穏やかに声をかける。
「お母さまに、帰ってきてほしいと言われたことはありますか?」
「……それが、ないんです」
「ないんですね」
「いつも、無理しなくていいって」
恩田は苦笑した。
「母も、私が仕事を辞めたりするのは望んでないと思います」
「そうなんですね」
「だから余計に、どうしたらいいのか分からなくて」
美咲は少し考えた。
「帰りたい気持ちは、あるんですよね」
恩田は黙っていた。
しばらくして、小さくうなずく。
「……あります」
「それなら、その気持ちは大事にしていいと思いますよ」
恩田が顔を上げる。
「でも、帰れないんです」
「今すぐ、全部を変えなくてもいいと思います」
「全部を?」
「仕事を辞めるとか、実家に戻るとか。そういう大きなことじゃなくても」
恩田は美咲の言葉を聞いている。
「今できることを、一つずつ考えてもいいんじゃないでしょうか」
「一つずつ……」
「はい」
美咲は笑った。
「例えば、次にいつ帰るかを決めるとか」
恩田は少し考えた。
「次に帰る日……」
「日にちが決まっているだけでも、少し違うかもしれません」
「そうかもしれません」
「電話だけじゃなくて、実際に顔を見て話せる日が決まっていたら」
恩田は目を伏せた。
「……そうですね」
それ以上は話さなかった。
美咲も、無理に話を続けなかった。
施術に入る。
肩に触れると、かなり力が入っていた。
「かなり張ってますね」
「やっぱりですか?」
「はい。肩も首も、ずっと力が抜けていない感じなの」
「自分では分からないです」
「そういうこと、ありますよね」
美咲はゆっくりと施術を続けた。
しばらくすると、恩田の呼吸が少しずつ深くなっていく。
目を閉じたまま、ぽつりと言った。
「実家、帰ろうかな」
美咲の手は止まらない。
「はい」
「来週とか」
「いいと思いますよ」
「仕事もあるんですけど」
「仕事は、帰る日を決めてから考えてもいいんじゃないでしょうか」
恩田は少し笑った。
「順番、逆でしたね」
「そうかもしれませんね」
「仕事の都合がついたら帰ろうって、ずっと思ってました」
「はい」
「でも、仕事の都合って、いつまでもつかないんですよね」
「そうですよね」
恩田の声が少しだけ柔らかくなった。
「先に帰る日を決めてみます」
「はい」
「母に電話してみます」
「それがいいと思います」
しばらくして、恩田は静かに眠っていた。
美咲は施術を続けながら、その寝顔を見た。
さっきまで眉間にあった力が、少し抜けている。
きっと、帰ることを決めたからといって、何も解決するわけではない。
母親のことも。
仕事のことも。
これから先のことも。
でも、ずっと頭の中だけで行ったり来たりしていたものが、一つだけ前に進んだ。
それでいいのだと思った。
施術が終わる。
恩田はゆっくり身体を起こした。
「……すごく眠ってました」
「少し眠れたみたいですね」
「はい」
鏡を見ながら、首をゆっくり回す。
「身体が軽いです」
「よかったです」
それから恩田は、少し考えるような顔をした。
「帰る日、決めます」
「はい」
「今日、母に電話します」
「それがいいと思います」
「なんか、来る前より気持ちが楽になりました」
美咲は笑った。
「よかったです」
恩田は会計を済ませ、入口まで歩く。
扉を開ける前に、振り返った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「また来てもいいですか?」
「もちろんです」
恩田は笑って、外へ出ていった。
その後ろ姿を見送っていると、未沙が近づいてきた。
「お母さまのことで悩んでいたみたいです」
美咲はそう未沙に伝えた。
「そうだったのね」
「実家に帰る日を決めるって言ってました」
未沙は少しだけ笑った。
「そう。よかった」
「はい」
美咲は入口の外を見る。
恩田はもう見えなくなっていた。
「帰るって、簡単なことなのに、難しいですよね」
未沙は少し考えてから答えた。
「そう」
「美咲ちゃんは、帰りたい場所ってある?」
突然聞かれて、美咲は少し驚いた。
「私ですか?」
「うん」
美咲は少し考える。
「……実家、ですかね」
「そう」
「帰ると、何もしなくてもいい感じがするんです」
「それは、いいね」
「でも、今はもう自分の家もありますし」
未沙は少しだけ笑いながら、
「帰る場所って、一つじゃなくてもいいのかもしれないね」
美咲はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
「……そうですね」
「家に帰ることもあるし、誰かのところへ帰ることもあるし」
「自分が落ち着ける場所なら、どこでもいいんじゃないかな」
美咲は静かにうなずいた。
サロンの外では、午後の光が少しずつ傾き始めている。
行き交う人たちは、それぞれの場所へ向かって歩いている。
その中には、これから家へ帰る人もいる。
誰かが待っている場所へ帰る人もいる。
帰る場所がなくて、どこへ行こうか迷っている人もいるのかもしれない。
それでも。
帰りたいと思える場所があることは、きっと悪いことではない。
美咲は受付に戻り、次の予約を確認する。
「次のお客様、もうすぐですね」
「そうね。準備しましょう」
「はい」
二人で施術室へ向かう。
また、誰かがここへやってくる。
疲れている人。
迷っている人。
何かを抱えている人。
サロンは、その人たちの問題を解決する場所ではない。
ただ、少しだけ立ち止まって、自分の気持ちを見つけるための場所なのかもしれない。
帰りたいと思う場所があるなら。
そこへ帰れるように、ほんの少しだけ背中を押す。
それくらいのことなら、できるのかもしれない。
「また、お待ちしています」
その声に、午後の静かな時間が重なっていった。




