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第8話 少しだけ変わった人

朝のサロンは、開店前から静かに忙しい。


受付では予約表の確認が行われ、バックヤードではスタッフが今日の担当を確認している。


美咲はカウンターの上に置かれた予約表を一枚めくった。


午前十時。


予約の名前を確認していた指が、ふと止まる。


見覚えのある名前だった。


美咲は、もう一度確認する。


間違いない。


以前、一度だけ担当した佐藤だった。


「……あ」


思わず声が漏れる。


「美咲ちゃん、どうしたの?」


隣から未沙が覗き込む。


「この方、前にも来てくださってます」


「そう」


「半年くらい前だったと思います」


「覚えてる?」


「もちろんです」


美咲は少し笑った。


忘れるような人ではなかった。


初めて来たとき、佐藤は何を聞いても「分からない」と答えていた。


転職したい。


引っ越したい。


何か新しいことを始めたい。


何かを変えたい気持ちはある。


でも、何を変えたいのかは分からない。


そんな話をしていた。


最後に美咲が伝えたのは、たった一つだった。


「始めたいんじゃなくて、先に休みたいのかもしれませんね」


それから、しばらく来店はなかった。


「もう一度来てくれるんだね」


未沙が言う。


「はい」


「よかったね、美咲ちゃん」


「……はい」


美咲は少し照れたように笑った。


開店の時間になった。


店内に少しずつ人の気配が増えていく。


美咲も施術の準備を始めた。


十時少し前。


受付のほうから、控えめな声が聞こえた。


「こんにちは」


美咲が顔を上げる。


入口に、佐藤が立っていた。


前より少しだけ髪が短い。


服装も、以前よりどこか軽く見える。


それでも、最初に来たときと同じように、少し緊張した表情をしていた。


美咲は笑顔で近づいた。


「こんにちは。お待ちしていました」


「あ、こんにちは」


「お久しぶりですね」


「覚えてくださってたんですね」


「もちろんです」


そう答えると、佐藤は少し驚いたように笑った。


「なんか、うれしいです」


「前回から、少し空きましたね」


「はい。半年くらいですかね」


「そのくらいですね」


美咲が案内すると、佐藤は店内を見渡した。


「変わらないですね」


「そうですか?」


「なんとなく。落ち着きます」


その言葉を聞いて、美咲は少しだけうれしくなった。


カウンセリングを始める。


「今日は、特に気になるところありますか?」


「肩と首が少し」


「最近、お疲れですか?」


「まあ……普通です」


前にも聞いた言葉だった。


普通。


大丈夫。


別に。


そういう言葉を重ねる人ほど、本当は疲れていることがある。


美咲は少しだけ笑った。


「前回も、そんなふうにおっしゃってましたね」


「あ……そうでしたっけ」


「はい」


佐藤は少し考えてから、苦笑した。


「じゃあ、今回も同じですね」


「そうかもしれませんね」


美咲はそれ以上、深く聞かなかった。


必要なことだけ確認して、施術に入る。


しばらくすると、前回と同じように肩のあたりがかなり張っていることが分かった。


ただ、以前とは少し違った。


「前より、少し力が抜けてますね」


「そうですか?」


「はい。まだ張ってますけど、前ほどずっと力が入っている感じではないですよ」


「……そうなんだ」


佐藤は、少し意外そうだった。


「自分では全然分からないです」


「そういうこともありますよ」


美咲はゆっくりと施術を続ける。


しばらくして、佐藤がぽつりと言った。


「この前、ここで言われたこと、覚えてます」


「何をですか?」


「先に休みたいのかもしれないって」


美咲の手が、一瞬だけ止まった。


「……覚えてます」


「私、あれから少し休んだんです」


「そうだったんですね」


「最初は、休むのが怖かったんですけど」


「怖かったんですね」


「はい。何もしないでいると、置いていかれるような気がして」


美咲は黙って聞いている。


「でも、一日だけ予定を入れない日を作ってみたんです」


「一日?」


「一日です」


佐藤が少し笑った。


「たった一日なんですけど」


「それでも、いいと思いますよ」


「その日は、本当に何もしませんでした」


「どうでした?」


佐藤は少し考えた。


「……暇でした」


美咲が思わず笑う。


「そうですよね」


「何をしたらいいのか分からなくて。最初はスマホばっかり見てました」


「分かります」


「でも午後くらいから、少し眠くなって」


「はい」


「昼寝しました」


「それはいいですね」


「起きたら夕方で」


佐藤が小さく笑った。


「そこで、なんか……まあ、いいかって思えたんです」


「何がですか?」


「何もしない日があっても、別に何かが壊れるわけじゃないんだなって」


美咲はゆっくり息を吐いた。


「それ、大きいですね」


「そうなんですかね」


「大きいと思いますよ」


佐藤はしばらく黙っていた。


「それから、少しだけ考えられるようになって」


「何をですか?」


「仕事を辞めるとか、引っ越すとか、そういう大きなことじゃなくて」


「はい」


「今の生活で、何が嫌なのかなって」


美咲は、その言葉を聞いて少しだけうれしくなった。


前回は、全部が嫌だった。


何かを変えたい。


でも何を変えたいのか分からない。


そんな状態だった。


今は違う。


嫌なものを、一つずつ見ようとしている。


それだけでも十分な変化だった。


「少し整理できてきたんですね」


「たぶん」


「それなら、よかったです」


「まだ何も決めてないですけど」


「決めなくてもいいと思いますよ」


佐藤は少し驚いたように美咲を見る。


「そうですか?」


「はい。前回も、すぐに何かを始める必要はないと思ったので」


「そうでしたね」


「今も同じです」


「……なんか、安心します」


美咲は笑った。


施術が終わるころには、佐藤の表情は来店したときより少し柔らかくなっていた。


鏡の前で髪を整えながら、何度か首を動かしている。


「軽くなりました」


「よかったです」


「身体もですけど」


佐藤が鏡越しに美咲を見る。


「なんとなく、頭も」


「それならよかったです」


「前回来たときは、ここから帰っても、何をしたらいいか分からなかったんです」


「はい」


「今日は、帰ってからやりたいことが一つあります」


「何ですか?」


少し照れながら、佐藤が言う。


「家の中、片づけようかなって」


美咲は笑った。


「いいですね」


「大したことじゃないですけど」


「大したことだと思いますよ」


「そうかな」


「自分のために、少し変えてみようと思えたことが」


佐藤は一瞬黙った。


そして、小さく笑った。


「……そう言われると、なんかちゃんとしたことみたいですね」


「ちゃんとしたことですよ」


会計を終えて、入口まで見送る。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


佐藤は扉の前で一度振り返った。


「また来てもいいですか?」


美咲は笑った。


「もちろんです」


「じゃあ、また来ます」


「お待ちしています」


扉が閉まる。


美咲はしばらく、その後ろ姿を見ていた。


「どうだった?」


背後から未沙の声がした。


振り返ると、未沙が少し離れたところに立っている。


「前に来てくださった方です」


「うん」


「少し元気になってました」


「そうだったんですね」


美咲はタオルを棚に戻しながら話す。


「前は、何をしたらいいのか分からないって感じだったんですけど」


「今日は?」


「家を片づけるそうです」


「いいね」


「ですよね」


美咲は少しだけ考える。


「人生が変わるようなことじゃないですけど」


「そういうことのほうが、大事なのかもしれないよ」


美咲が顔を上げる。


未沙は穏やかに笑っていた。


「大きなことを決められる日ばかりじゃないから」


「はい」


「今日は部屋を少し片づける。それだけでも、その人にとっては十分なのかもしれないよね」


「……そうですね」


美咲はもう一度、入口を見る。


さっきまでそこにいた佐藤の姿は、もう見えない。


でも、少しだけ軽くなった背中は、なんとなく想像できた。


その日の夕方。


美咲が受付で次の日の予約を確認していたら思わず声が出る。


「……あ」


先ほど帰った佐藤から、次回の予約が入っていた。


ずいぶん先の日付だった。


けれど、確かに予約されている。


美咲は画面を見ながら、少し笑った。


「また来てくれるんだ」


誰に聞かせるでもなく、そうつぶやく。


そのとき、隣で未沙が予約表を覗き込んだ。


「次の予約?」


「はい」


「よかったね、美咲ちゃん」


「何がですか?」


「また来たいって思ってもらえたんでしょう?」


美咲は少し考えてから、うなずいた。


「そうだといいですね」


「きっとそうだよ」


未沙はそう言って、予約表から離れた。


サロンの中には、まだ何人かのお客様がいる。


スタッフの声も聞こえる。


受付には新しい予約が入り、施術室では次の準備が始まっている。


いつもの一日。


特別なことは何もない。


それでも、ここを出て少しだけ楽になった人がいる。


そして、その人がまた戻ってくる。


美咲は予約表を閉じた。


「……こういうの、いいですね」


「いいよね」


未沙が笑う。


サロンは今日も、誰かの人生を変えたりはしない。


ただ、少し疲れた人が立ち止まって、深く息をついて、また自分の暮らしへ戻っていく。


それで十分なのだと思う。


大きく変わらなくてもいい。


昨日よりほんの少しだけ楽なら。


次に来るとき、ほんの少しだけ笑えたなら。


そのくらいの変化が、日々の中にはちょうどいい。


美咲は次のお客様の名前を確認して、静かに立ち上がった。

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