第7話 何かを始めたい人
朝のサロンには、開店前の静かな時間がある。
まだお客様の姿はない。
受付ではスタッフが予約表を確認し、奥では今日使うタオルや備品が整えられている。
美咲はパソコンの画面を確認しながら、今日の予約を一件ずつ見ていた。
「午後二時、ご新規様です」
隣にいたスタッフが声をかける。
「井上さん?」
「はい。ボディケアで六十分です」
「備考欄に何か書いてある?」
「特にないです」
「分かった。ありがとう」
美咲は予約表に目を戻した。
ご新規様の井上。
名前と予約内容以外には、何も分からない。
どんな人が来るのか。
どんな話をするのか。
それは、その人がここへ来てから少しずつ分かっていく。
美咲は画面を閉じた。
「今日もよろしくお願いします」
「お願いします」
店内に、いつもの一日が始まる気配が広がっていった。
午後二時。
受付に女性が入ってきた。
「こんにちは」
「こんにちは。ご予約のお時間、二時からですね」
「はい」
「井上様ですね」
「はい」
美咲が笑顔で迎えると、井上も少しだけ笑った。
けれど、その笑顔にはどこか遠慮があった。
緊張しているのかもしれない。
初めての場所では、誰でも多少はそうなる。
美咲はそう思いながら、カウンセリングへ案内した。
「今日はどのあたりが気になりますか?」
井上は少し考えた。
「肩と首です」
「最近、特に張るようになりました?」
「そうですね……ここ何週間か、ずっと重い感じがして」
「お仕事はデスクワークですか?」
「はい」
「お時間、大丈夫でしたら、少し詳しく伺ってもいいですか?」
「はい」
井上はうなずいた。
仕事のこと。
睡眠のこと。
普段の生活のこと。
ひとつずつ聞いていく。
話をしているうちに、井上の口数が少しずつ増えていった。
「最近、あまり眠れてなくて」
「夜、遅くまでお仕事をされているんですか?」
「それもあるんですけど……」
井上はそこで言葉を止めた。
「何か気になることがあります?」
「いえ……」
少し笑う。
「仕事を辞めようかなって、ずっと考えていて」
美咲は急かさず、井上の次の言葉を待った。
「でも、辞めたところで何をしたいのか分からなくて」
「辞めたい、という気持ちはあるんですね」
「はい。でも、その先が何もなくて」
「その先が決まっていないと、辞めるのも怖いですよね」
「そうなんです」
井上は小さく息を吐いた。
「何かを変えたいとは思ってるんです」
「はい」
「でも、何を変えたいのかも、よく分からなくて」
「なるほど……」
美咲はうなずいた。
「何か、やってみたいことはありますか?」
井上は少し考えた。
「それが……ないんです」
「今は、特に思いつかない?」
「はい」
井上は苦笑した。
「周りの人は転職したり、引っ越したり、何か新しいことを始めたりしてるのに、私は何も変わってなくて」
「変わりたい気持ちはあるんですね」
「あります」
「でも、どこへ変わればいいのかが分からない」
「……そうなんです」
井上は少しだけ肩を落とした。
その姿を見て、美咲はそれ以上急いで答えを探そうとはしなかった。
「じゃあ、今はまだ、決めなくてもいいのかもしれませんね」
井上が顔を上げる。
「決めなくても?」
「はい」
「でも、何か始めないと、このまま何も変わらない気がして」
「そう思うと、焦りますよね」
「はい」
美咲は少し笑った。
「何かを始めるって、始めるものが決まってないとできないですもんね」
井上も笑った。
「そうなんです」
「だから、無理に探さなくてもいいんじゃないかなって」
井上は黙った。
「今の井上さんは、何かを始める前に、少し休んだほうがいいのかもしれません」
「休む……」
「はい」
井上はその言葉を、確かめるように繰り返した。
「私、そんなに疲れてます?」
「身体は、かなり疲れていると思います」
美咲は柔らかく笑った。
「だから、何かを始めるために休む、でもいいと思いますよ」
「始めるために……」
「そうです」
井上はしばらく考えていた。
「休むのも、何かを始めることになるんですかね」
「私は、そういうこともあると思います」
井上は小さく笑った。
「なんか、不思議ですね」
「そうですか?」
「はい」
「でも、ずっと走っていたら、どこへ行きたいのか考える余裕もなくなっちゃいますから」
井上は何も言わなかった。
ただ、少しだけ表情が緩んだ。
施術が始まる。
ベッドに横になった井上の肩に触れる。
思っていた以上に硬かった。
首の付け根から肩にかけて、ずっと力が入っている。
「かなり張ってて、肩も首も、ずっと力が抜けていない感じだったの」
「やっぱりそうですか」
「普段から力が入りやすいのかもしれないですね」
「そうかもしれません」
美咲がゆっくり施術を続ける。
しばらくすると、井上の呼吸が少しずつ深くなった。
「最近、ずっとこんな感じなんです」
「身体がですか?」
「身体もですけど……頭の中も」
美咲は少し笑った。
「ずっと考えてしまう?」
「はい」
「辞めるかどうかとか?」
「それもあります」
井上は少し間を置いた。
「何か始めたいんです」
「何か、というのは?」
「それが分からなくて」
「うん」
「何か新しいことを始めたら、今の自分も変わる気がして」
美咲は手を止めずに聞いていた。
「例えば、やってみたいことはありますか?」
「それが……」
井上は少し笑った。
「ないんです」
「まったく?」
「はい」
「じゃあ、今は何かを始めることより、何かを変えたい気持ちのほうが強いのかもしれないですね」
井上は黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
「……そうかもしれません」
小さな声だった。
「でも、何もしてないと、このままずっと何も変わらない気がして」
「そう思うと、焦りますよね」
「はい」
美咲は少しだけ考えた。
「何かを始めることって、必ずしも大きなことじゃなくてもいいと思います」
「大きなことじゃなくても?」
「はい」
「例えば?」
「例えば……」
美咲は少し考えてから笑った。
「帰りに寄り道するとか」
井上が笑う。
「それは始めるっていうんですか?」
「分からないですけど」
美咲も笑った。
「いつもと違うことをひとつしてみるだけでも、何かが変わることってあるんじゃないかなって」
「なるほど」
「それで何か見つかればいいし、見つからなくてもいい」
井上は天井を見たまま、しばらく考えていた。
「……それくらいなら、できそうです」
「それで十分だと思います」
そのあと、しばらく会話は途切れた。
でも、気まずい沈黙ではなかった。
井上の呼吸がゆっくりになる。
肩の力が少しずつ抜けていく。
美咲は何も言わず、施術を続けた。
施術が終わるころには、井上の表情が来店したときより少し柔らかくなっていた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
井上はゆっくり身体を起こした。
「肩、少し軽くなりました」
「よかったです」
「それだけじゃなくて……」
井上は少し迷ってから笑った。
「頭も少し軽くなった気がします」
「それならよかったです」
受付へ戻る。
次回の予約を案内すると、井上は少し考えた。
「また来てもいいですか?」
「もちろんです」
「じゃあ……またお願いします」
「お待ちしています」
井上は会釈をして、サロンを出ていった。
外へ出ると、少し風があった。
井上は駅へ向かって歩きながら、スマートフォンを取り出した。
いつものように検索画面を開く。
転職。
資格。
習い事。
副業。
これまで何度も検索してきた言葉が並んでいる。
何かを探そうとして、指が止まった。
今日は、すぐに検索する気になれなかった。
美咲の言葉を思い出す。
帰りに寄り道するとか。
井上はスマートフォンをしまった。
駅へ向かう途中に、小さな書店がある。
いつもなら通り過ぎる。
でも、その日は少しだけ足を向けた。
店内を歩く。
特に欲しい本があるわけではない。
仕事の本でもない。
資格の本でもない。
ただ、なんとなく気になった棚の前で立ち止まる。
一冊の本を手に取った。
数ページだけ読んでみる。
内容が面白いのかどうかも、まだ分からない。
それでも、なぜかそのままレジへ向かった。
その日の閉店後。
美咲が受付まわりを片づけていると、未沙が予約表を確認しながら声をかけた。
「今日のご新規様、どうだった?」
「井上さんですか?」
「うん」
「少し疲れていたみたいです」
美咲はタオルを棚に戻しながら続けた。
「仕事を辞めたいとは思っているんですけど、その先で何をしたいのか分からないって」
「うん」
「何か始めたい気持ちもあるみたいなんです。でも、始めたいものが見つからないって」
未沙は少し考えた。
「変わりたい気持ちはあるのに、何を変えたいのか分からないことってあるものね」
「そうなんです」
美咲は笑った。
「だから、今は何かを始めるより、少し休んだほうがいいんじゃないかなって話したんです」
「うん」
「それに、いきなり大きなことを始めなくてもいいんじゃないかなって」
未沙は美咲を見る。
「それでいいと思うよ」
「ですよね」
「何かを始めることだけが、前に進むことじゃないから」
「はい」
「立ち止まって、自分がどうしたいのか考える時間も必要だと思う」
美咲はうなずいた。
「今日、帰りに寄り道してみるって言ってました」
「そう」
「それだけでも、何か変わるかもしれませんね」
「うん」
未沙が少し笑う。
「案外、そういう小さなことから始まるのかもしれないね」
美咲も笑った。
サロンの照明を一つずつ落としていく。
昼間はたくさんの人が行き交う場所も、閉店後になると静かになる。
ここへ来たときと、帰るとき。
人生そのものが変わるわけではない。
仕事を辞めるわけでもない。
新しい何かが決まるわけでもない。
それでも。
少しだけ呼吸がしやすくなる。
それだけで十分な日もある。
その夜、井上は買ってきた本を机の上に置いた。
すぐに読み始めることはしなかった。
お茶を淹れて、ソファに座る。
スマートフォンも見ない。
仕事のことも、転職のことも、明日のことも考えない。
ただ、温かいお茶を飲む。
何かを始めるには、少し遅い時間だった。
でも。
休むには、ちょうどいい夜だった。




