第6話 仕事で疲れた人
朝のサロンは、開店前から少しずつ動き始めていた。
受付では今日の予約を確認する声がして、奥ではスタッフがタオルを整えている。
美咲は予約表を見ながら、スタッフからの申し送りを確認していた。
「午前中、少し詰まってますね」
「そうですね。午後は少し余裕があります」
そんな会話をしていると、入口のドアが開いた。
「おはようございます」
「おはようございます」
スタッフが明るく声をかける。
入ってきた男性は、四十代くらいだった。
スーツ姿ではない。
休日らしいラフな服装だったが、肩だけが妙に上がっている。
受付で名前を確認する。
「大竹様ですね」
「はい」
「お待ちしておりました」
大竹は軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
施術室へ案内される。
「本日は肩と首まわりを中心に、ということで承っています」
「はい」
「かなりお疲れでしょうか?」
大竹は少し笑った。
「まあ……普通です」
その答えに、美咲がちらりと未沙を見る。
未沙は何も言わず、穏やかな表情で大竹を案内した。
施術室に入ると、大竹はベッドにうつ伏せになった。
未沙がタオルをかける。
肩に触れた瞬間、指先に硬さが返ってきた。
「……かなり張っていますね」
「やっぱりですか」
「はい。肩も首も、ずっと力が入っている感じがあります」
「自覚はあるんですけどね」
未沙はそれ以上言わず、ゆっくり施術を始めた。
肩。
首。
肩甲骨のまわり。
どこに触れても、力が抜けていない。
「普段から肩こりはありますか?」
「あります。もうずっとですね」
「最近、特にひどくなったということはありますか?」
「最近というより……年々です」
大竹が苦笑する。
未沙も少し笑った。
「それは、あまり嬉しくない年々ですね」
「そうなんですよ」
少しだけ会話が続く。
仕事の話。
部下の話。
最近忙しいという話。
大竹はよく話した。
「最近、部下が増えまして」
「そうなんですね」
「前は自分の仕事だけやっていればよかったんですけど、今はそうもいかなくて」
「気を遣われることも増えますよね」
「そうなんです」
大竹はそこで少し黙った。
「上からは結果を求められるし、下からは相談されるし」
「はい」
「家に帰れば、今度は子どもの話を聞かないといけないし」
「お忙しいですね」
「まあ、みんなそんなものですよ」
また、その言葉だった。
大竹は笑っている。
けれど、肩はまったく笑っていなかった。
未沙は少しだけ手を止める。
「大竹様」
「はい」
「最近、きちんとお休みになれていますか?」
「休んでますよ」
返事が早かった。
「昨日も休みでしたし」
「そうでしたか」
「家にいました」
「なるほど」
それ以上、未沙は聞かなかった。
少ししてから、大竹がぽつりと言った。
「でも……」
「はい」
「休んでると、なんか落ち着かないんですよね」
「落ち着かない、というのは……?」
「仕事をしていないと、遅れているような気がして」
未沙の手が、またゆっくり動き始める。
「休んでいるのに、仕事のことを考えてしまうんです」
「それでは、なかなか休まらないですね」
「そうなんですよ」
大竹は苦笑した。
「休んだらだめになる気がして」
その言葉だけは、笑っていなかった。
未沙は少し間を置いた。
「休むと、だめになりそうだと感じられるんですね」
「……たぶん」
「そう思われるのは、どうしてでしょうね」
大竹はしばらく考えた。
「うーん」
言葉を探すように、少し間が空く。
「自分が止まったら、いろいろ止まりそうで」
未沙は何も言わなかった。
大竹も、それ以上は話さない。
静かな時間が流れる。
施術室には、時計の音が小さく聞こえている。
しばらくして、大竹の呼吸が少し深くなった。
肩も、ほんの少しだけ下がっている。
未沙はその変化を感じながら、静かに施術を続けた。
「大竹様」
「はい」
「休まないと、だめになる前に気づけなくなることもありますよ」
大竹は黙った。
「……それは、どういうことでしょう?」
「頑張っている間は、ご自分がどれくらい疲れているのか、分からなくなることもありますから」
「……」
「気づいたときには、思っていたより疲れていることもあります」
大竹はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「そうかもしれないですね」
「そうかもしれません」
「最近、朝起きるのがちょっとつらくて」
「はい」
「でも、歳かなって」
「それもあるかもしれませんね」
未沙は否定しない。
「ただ、疲れもあるのかもしれません」
「……ですよね」
大竹は少し笑った。
「ここに来るまで、自分がこんなに疲れてるとは思ってなかったです」
「そういうこともありますよ」
「未沙さんは、こういうの分かるんですか?」
「何がでしょう?」
「人が疲れてるとか」
未沙は少し考えた。
「触れると分かることはあります」
「なるほど」
「でも、ご自分のことになると、私も分からないことがありますよ」
大竹が少し意外そうに笑った。
「未沙さんでも?」
「私でも、です」
「なんか安心しました」
「そう思われますか?」
「何でも分かる人に言われると、ちゃんとしなきゃって思うので」
未沙は小さく笑った。
「それは困りましたね」
「え?」
「私も、そんなにちゃんとしているわけではありませんから」
大竹が笑う。
「そうなんですか?」
「そうですよ」
「意外ですね」
「よく言われます」
そのあと、大竹は少し眠った。
起きたときには、最初よりも表情が柔らかくなっていた。
「……寝てました?」
「少しお休みになっていました」
「すみません」
「謝らなくて大丈夫ですよ」
「でも、寝るつもりなかったので」
「眠れるときに眠るのは、悪いことではありませんから」
大竹は起き上がって、首をゆっくり回した。
「軽いですね」
「よかったです」
「肩がこんなに軽いの、久しぶりかもしれない」
未沙は笑った。
「それなら、今日は来ていただいてよかったですね」
「はい」
会計を終えて、受付まで戻る。
大竹は入口のところで一度振り返った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「また来てもいいですか?」
「もちろんです」
大竹は少し笑った。
「今度は、もう少し疲れる前に来ます」
「そのほうがよろしいかもしれませんね」
「はい」
そう言って、大竹は外へ出ていった。
「どうでした?」
受付の近くで美咲が聞いた。
未沙は大竹が出ていったドアを少し見つめてから、美咲に顔を向けた。
「かなり張ってて、肩も首も、ずっと力が抜けていない感じだったの」
「やっぱりそうでしたか」
「うん。最初は大丈夫だとおっしゃってたんだけど、触れてみると、思っていたより疲れていたみたい」
「そういうことってありますよね」
「あるね。頑張っている人ほど、ご自分では気づきにくかったりするから」
美咲は外を見た。
大竹の姿は、もう見えなくなっている。
「少し眠っていかれたから、それだけでもよかったですね」
「うん。帰るときは、来たときより少し表情が柔らかくなってたよ」
「よかった」
美咲はそう言って、少し笑った。
未沙も小さく笑う。
「大竹さん、帰りに温かいものを買って帰るんじゃないかな」
「どうしてですか?」
「なんとなく。今日は少し、自分のことを気にして帰ってくれそうな気がするの」
「そうだといいですね」
「うん。大きなことじゃなくても、そういうところからでいいと思うよ」
美咲は頷いた。
「私も、今日は温かいもの飲もうかな」
「それがいいかもしれないね」
「未沙さんもですよ」
「そうだね。じゃあ、お昼に何か温かいものを探そうかな」
「一緒に行きます?」
「うん。美咲ちゃんが付き合ってくれるなら」
「もちろんです」
二人は笑った。
そして、それぞれ次の仕事へ戻っていった。
サロンを出た大竹は、駅へ向かって歩いていた。
肩が軽い。
首も、いつもより動く。
たった一度の施術で、何かが解決したわけではない。
明日になれば、また仕事がある。
部下から相談も来るだろう。
上司から連絡もあるかもしれない。
家に帰れば、子どもの話も聞く。
何も変わっていない。
それでも。
今日は少しだけ、自分の身体のことを気にしてみようと思った。
駅前のコンビニの前で、足が止まる。
いつもなら、そのまま通り過ぎる。
けれど今日は、店に入った。
冷たい飲み物が並ぶ棚を通り過ぎて、温かい飲み物の棚を見る。
少し迷ってから、ホットのカフェラテを一本取った。
レジに並ぶ。
会計を済ませる。
店を出て、歩きながら一口飲む。
温かかった。
「……うまいな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
スマートフォンが鳴る。
仕事の連絡だった。
大竹は画面を見る。
少しだけ迷ってから、ポケットに戻した。
今すぐじゃなくてもいい。
そう思えた。
ほんの少しだけ。
今日は、これくらいでいい。
大竹は温かいカフェラテを手にしたまま、ゆっくり駅へ向かった。




