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第5話 自分のことになると

朝のサロンは、いつも少しだけ慌ただしい。


開店前の店内には、スタッフの足音や短い確認の声が行き交っている。


受付まわりを確認して、予約表を見直して、昨日の申し送りを確認する。


五年もここで働いていると、何をすればいいのかを考える前に身体が動くようになっていた。


「美咲さん、十時のご新規様、カウンセリング少し長めに取ってます」


「ありがとう。担当、私だよね?」


「はい」


「了解」


美咲は予約表に目を落とした。


新規のお客様。


名前を確認して、施術内容を確認する。


それから時計を見る。


開店まで、あと十分。


「美咲さん」


背後から声がした。


振り返ると、未沙がコーヒーを片手に立っていた。


「はい?」


「今日、なんか機嫌いい?」


「え?」


美咲は思わず自分の顔を触った。


「そうですか?」


「うん」


「別に普通ですけど」


未沙は何も言わず、美咲の顔をじっと見る。


「……何ですか」


「いや」


少しだけ笑う。


「昨日、いいことあったのかなと思って」


美咲は一瞬だけ黙った。


そして、ほんの少しだけ視線を逸らした。


「……まあ」


「まあ?」


「ちょっとだけ」


未沙の眉が上がる。


「へえ」


「何ですか、その顔」


「別に?」


「絶対なんか思ってますよね」


「思ってないよ」


「嘘だ」


「じゃあ聞かない」


「それはそれで気になるんですけど」


未沙が笑う。


美咲もつられて笑った。


そのとき、開店を知らせる音が鳴った。


「ほら、仕事」


「はいはい」


美咲は受付へ戻った。


けれど、その頬にはまだ少しだけ笑みが残っていた。



昨日の夜。


美咲は、久しぶりに男性と二人で食事をした。


相手は、以前から何度か顔を合わせている人だった。


仕事関係というほど近くもなく、完全な友人というほど遠くもない。


何度か話をしているうちに、自然と食事に誘われた。


最初は、ただの食事だと思っていた。


だから、特別な服も着なかった。


少しだけ仕事を早く終わらせて、駅で待ち合わせをして、近くの店へ入った。


料理を食べながら、仕事の話をした。


休日の話もした。


最近見た映画の話もした。


話していることは、どれも特別ではなかった。


なのに。


帰り道、妙に心が軽かった。


駅へ向かって歩いているとき、相手がふいに言った。


「今日は楽しかったです」


「私もです」


「また、誘ってもいいですか?」


美咲は、その言葉に少しだけ驚いた。


でも。


「はい」


と答えていた。


それだけだった。


それだけなのに、家へ帰ってからも、なんとなく落ち着かなかった。


お風呂に入っても。


髪を乾かしても。


ベッドに入っても。


なぜか、何度もスマートフォンを見てしまう。


連絡が来ているわけではない。


ただ、画面を点けて。


また消す。


「……何やってるんだろ」


自分でも笑ってしまった。


恋愛なんて、しばらく縁がないと思っていた。


サロンでは、毎日のようにいろいろな人の話を聞く。


恋人と喧嘩した人。


結婚に悩む人。


別れようか迷っている人。


好きな人に告白できない人。


美咲は、そういう話を聞くのが嫌いではなかった。


むしろ、人の気持ちはよく分かるほうだと思っている。


だから。


自分のことも、少しくらい分かると思っていた。


でも。


自分のことになると、どうも勝手が違う。


嬉しいのか。


期待しているのか。


ただ楽しかっただけなのか。


それすら、よく分からない。


そんなことを考えながら、眠った。



午前中の施術が一段落したころ。


美咲はバックヤードで水を飲んでいた。


「美咲さん」


スタッフの一人が声をかけてくる。


「はい?」


「なんか今日、ずっとニコニコしてません?」


「え?」


「朝からですよ」


「そう?」


「そうです」


美咲は少し考えてから笑った。


「気のせいじゃない?」


「そうですかねえ」


スタッフが不思議そうな顔をして戻っていく。


美咲はその背中を見送ってから、小さく息を吐いた。


やっぱり、顔に出てるのかな。


そう思ったところで、スマートフォンが震えた。


画面を見る。


昨日の相手からだった。


『昨日はありがとうございました。よかったら、また食事に行きませんか?』


美咲は、しばらくその画面を見つめた。


たった一行。


それだけなのに、心臓が少しだけ速くなる。


返信しようとして、やめる。


文章を考える。


消す。


また考える。


『こちらこそありがとうございました。またぜひ』


打ち込んでから、少し考える。


「……これ、普通だよね」


誰に聞くでもなくつぶやく。


そのとき。


「何が普通なの?」


「うわっ!」


背後から声がして、美咲は飛び上がった。


振り返ると、未沙が立っていた。


「びっくりした……」


「ごめん」


「いつからいたんですか?」


「今来たところ」


「絶対嘘ですよね」


未沙は笑った。


「で?」


「で、って?」


「何が普通なの?」


「……何でもないです」


美咲はスマートフォンを伏せた。


未沙はそれ以上聞かなかった。


ただ、少しだけ笑っている。


「美咲ちゃん」


「はい」


「嬉しいことがあるなら、嬉しいでいいんじゃない?」


その言葉に、美咲は顔を上げた。


「……そういうものですか?」


「そういうものじゃない?」


「でも、まだ何も決まってないですよ」


「決まってなくても、嬉しいことはあるでしょう?」


美咲は黙った。


たしかにそうだった。


まだ付き合っているわけでもない。


次の約束をしただけ。


それだけなのに。


昨日から少しだけ気分がいい。


仕事中も、ふとした瞬間に思い出す。


それなら。


「嬉しい」でいいのかもしれない。


「……未沙さん」


「ん?」


「恋愛って、難しいですね」


未沙は少しだけ目を細めた。


「そう?」


「未沙さんは難しくなかったんですか?」


その瞬間、未沙の顔がわずかに固まった。


「……私の話?」


「はい」


「それは……」


未沙は少し考える。


それから、困ったように笑った。


「難しかったかな」


「ですよね」


「うん。すごく」


「ですよねえ」


美咲は妙に安心した。


完璧に見える未沙だって、恋愛になると普通に悩む。


そう思うと、少しだけ気が楽になる。


「じゃあ、美咲ちゃんも大丈夫」


「何がですか?」


「分からなくても」


未沙はそう言って、軽く美咲の肩を叩いた。


「分からないまま、少しずつ分かっていけばいいんじゃないかな」


「……なるほど」


美咲はスマートフォンをもう一度手に取った。


さっきのメッセージを見る。


『また食事に行きませんか?』


今度は、迷わなかった。


『こちらこそ、ありがとうございました。私もまた行きたいです』


送信する。


送った瞬間、少しだけ緊張した。


けれど、それ以上に。


嬉しかった。



その日の閉店後。


スタッフが帰ったあと、美咲は受付まわりを片づけていた。


未沙は少し離れたところで明日の予約を確認している。


静かな店内。


昼間はたくさんの人が行き交う場所なのに、夜になると急に広く感じる。


美咲はスマートフォンを見た。


返信が来ている。


『よかったです。楽しみにしています』


美咲は、思わず笑った。


「……ふふ」


「何?」


未沙の声。


「何でもないです」


「そう?」


「はい」


美咲はスマートフォンをポケットにしまった。


それから、ふと店内を見渡す。


この場所で、これまでたくさんの人の話を聞いてきた。


誰かの恋を。


誰かの迷いを。


誰かの後悔を。


誰かの小さな一歩を。


そのたびに、自分ならどうするだろうと思ってきた。


でも。


自分の番になると、こんなにも分からない。


少しおかしくなって、美咲は笑った。


「私も、まだまだですね」


「何が?」


「恋愛です」


未沙が顔を上げる。


そして、少しだけ笑った。


「そうだね」


「否定してくれないんですか?」


「だって、私もそうだったから」


「……ですよね」


二人で笑う。


閉店後のサロンに、小さな笑い声が残った。


外はもう暗い。


けれど、美咲の気持ちは不思議なくらい明るかった。


まだ何も始まっていない。


これからどうなるのかも分からない。


もしかしたら、うまくいかないかもしれない。


それでも。


次に会う約束がある。


そのことだけで、少しだけ明日が楽しみになる。


美咲は最後の照明を落とした。


「帰ろうか」


未沙が言う。


「はい」


二人で店を出る。


夜の空気が、少しひんやりしていた。


美咲は歩きながら、ポケットの中のスマートフォンをそっと握った。


恋って、こういうものなのかな。


まだ答えは分からない。


でも。


分からないままでも、少し楽しい。


それなら、今はそれでいい。


美咲は小さく笑って、いつもより少しだけ軽い足取りで、夜の街を歩いていった。

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