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第4話 新しい家族

これは未沙と五条が結婚して少し経った頃のお話し。


最近、家が広く感じる。


ある日の夜、夫の五条がソファに座ったまま、そんなことを言った。


未沙は隣でスマートフォンを見ていた手を止める。


「広く感じる?」


「うん」


「前はそんなこと言ってなかったよね」


「言ってなかったけど、最近なんとなく」


「家具が少ないから?」


「そういう話じゃないんだよ」


「じゃあ、どういう話?」


五条は少し考えてから、リビングを見渡した。


「……二人だと、ちょっと広いなって」


未沙は黙った。


それから、少しだけ笑った。


「じゃあ、見に行こうか」


「何を?」


「家族」


五条が顔を向ける。


「……犬?」


「犬」


「本当に?」


「うん」


「未沙、犬好きだったっけ?」


「好きだよ」


「知らなかった」


「言ってなかったから」


「なんで?」


「聞かれなかったから」


五条が少し考える。


「そういうもの?」


「そういうものじゃない?」


「なるほど」


あまり納得していない顔で頷く五条を見て、未沙は笑った。


そんなわけで、休日に二人で譲渡会へ行くことになった。


できればペットショップではなく、譲渡会がいい。


ちゃんと話を聞いて、自分たちに無理のない形で迎えたい。


そんなことを話しながら、二人で予定を合わせた。


そして当日。


会場に入ってしばらくすると、未沙の足が止まった。


「……かわいい」


五条が未沙の視線の先を見る。


そこには白と黒のぶち模様をした、小さな犬がいた。


未沙は完全に心を持っていかれている。


「未沙」


「なに?」


「もう決まってる?」


「まだ」


「顔が決まってる人の顔だけど」


「そんなことないよ」


そう言いながら、未沙は犬から目を離さない。


五条は小さく笑った。


「説明、聞こうか」


「うん」


スタッフから性格やこれまでのことを聞く。


二人で顔を見合わせる。


もう一度、犬を見る。


そして――。


結局。


その日、家にやってきたのは犬ではなかった。


猫だった。


「……なんで?」


ソファに座った五条が、足もとを横切っていく白黒の猫を見ながら呟く。


未沙は、その猫を目で追いながら笑った。


「かわいいから」


「それは分かる」


「じゃあ、いいじゃない」


「いや、犬を見に行ったよね?」


「見に行ったよ」


「犬、いたよね?」


「いたね」


「なのに猫?」


「猫もいたから」


「理由になってないよ」


未沙は楽しそうに笑った。


猫はそんな二人の会話などまったく気にする様子もなく、部屋の隅を歩いていく。


「名前、どうする?」


未沙が聞く。


五条は猫を見る。


「未沙が決めていいよ」


「じゃあ……あわ」


「……あわ?」


「うん。泡」


「ずいぶん直球だね」


「いいじゃない」


「猫に泡って」


「かわいいでしょ?」


五条は猫を見る。


白い毛が光を受けて、少しだけふわっと見える。


「まあ……いいか」


こうして、あわが家族になった。


ただし。


五条が思い描いていた「新しい家族」とは、かなり違っていた。


帰れば駆け寄ってくるわけでもない。


名前を呼べば喜んで近づいてくるわけでもない。


気が向いたときだけ近くに来て、気が向かなければ、こちらの存在など最初から知らないような顔をしている。


「……猫って、こういうものなの?」


ある日の夜、五条が聞いた。


「そうじゃない?」


「未沙には来るよ」


「私、好かれてるから」


「俺は?」


「これからじゃない?」


「いつから?」


「さあ」


未沙は膝の上のあわを撫でる。


あわは気持ちよさそうに目を細めている。


五条も手を伸ばす。


すると、あわはすっと立ち上がり、五条の手を避けてソファの反対側へ移動した。


「……ほら」


「今のはたまたまだよ」


「昨日もだった」


「一昨日も?」


「一昨日も」


未沙が笑う。


「日頃の行いじゃない?」


「そんな曖昧な理由で?」


「じゃあ、愛情の差かな」


「もっと嫌な理由になった」


あわは二人の会話など気にもせず、ソファの背もたれの上で丸くなった。


「俺、嫌われてるのかな」


「嫌われてはいないと思うよ」


「じゃあ、なんで逃げるの?」


「距離感を大事にしてるんじゃない?」


「俺より人間関係うまいな」


未沙が吹き出した。


そんな生活にも、少しずつ慣れていった。


あわは自由だった。


買ってきた猫用のおもちゃには興味を示さない。


そのくせ、丸めたレシートには妙に食いつく。


高いところには勝手に上る。


降りられなくなると、こちらを見る。


「……助けてほしいなら、最初から上らなきゃいいのに」


五条が抱き上げると、あわは何事もなかったような顔をしている。


「ねえ、ひかるん」


「なに?」


「かわいいね」


「うん」


「認めた?」


「かわいいのは認める」


「じゃあ、もう犬じゃなくてよかった?」


「そこはまだ考え中」


「しつこい」


未沙は笑いながら、あわの頭を撫でた。


そんなある日。


未沙が仕事の都合で二日ほど家を空けることになった。


出かける準備をしながら、未沙は玄関であわを抱き上げる。


「いい子にしてるんだよ」


「俺にも言って」


「ひかるんは大人だから大丈夫でしょ」


「俺だって寂しいんだけど」


「知ってる」


「じゃあ、もう少し心配して」


「大丈夫。ひかるんなら」


「……あわより信頼されてる?」


「そこは当然」


「よかった」


未沙は笑って、五条の頬に軽く触れた。


「じゃあ、行ってくるね」


「うん」


扉が閉まる。


静かになった家で、五条はあわを見る。


あわも五条を見る。


「……二人になったね」


あわは何も答えない。


「仲良くしようか」


あわは、ゆっくり瞬きをした。


「……まあ、よろしく」


その日の夜。


あわは少し落ち着かなかった。


いつも未沙が座っている場所を何度も見ている。


ごはんを出しても、すぐには食べない。


五条がソファに座ると、少し離れたところで丸くなった。


「未沙がいないと、寂しい?」


あわは答えない。


「俺も」


それからしばらく、二人で黙っていた。


翌日。


五条が仕事から帰ると、玄関まであわが出てきた。


「……お」


あわは一瞬だけ五条を見る。


そして、何事もなかったようにリビングへ戻っていく。


「今、迎えに来た?」


あわは振り返らない。


「来たよね?」


返事はない。


「……まあいいか」


少しだけうれしかった。


その日の夕方。


五条がゴミを出そうとして玄関を開けた。


その瞬間だった。


足もとを白い影がすり抜ける。


「あわ!」


猫はそのまま外へ出ていった。


「ちょっと待って!」


五条も慌てて追いかける。


けれど、あわは思った以上に速い。


角を曲がる。


駐車場の脇を抜ける。


さらにその先へ。


「おい、あわ!」


返事はない。


当たり前だ。


猫なのだから。


「返事くらいしてくれてもいいだろ……」


そんなことを言いながら走っている自分が、少しおかしかった。


けれど、笑っている余裕はすぐになくなった。


あわの姿が見えなくなった。


「……あわ?」


周囲を見回す。


いない。


胸の奥が、嫌なふうにざわついた。


未沙がいない二日間。


ちゃんと預かっているつもりだった。


それなのに。


「頼むから、変なところ行くなよ……」


そのとき。


少し離れた路地の奥から、低い唸り声が聞こえた。


五条は足を止めた。


「……なんだ?」


もう一度、聞こえる。


今度は猫の鳴き声も混じっていた。


「……あわ?」


五条は路地へ入った。


そして、足が止まった。


古いブロック塀の陰に、あわがいた。


身体を小さく縮めている。


その前に、二匹の野良犬がいた。


犬たちはあわを追い詰めるようにして、低く唸っている。


「……おい」


五条の声に、犬たちが振り向いた。


一瞬、足がすくむ。


怖かった。


正直に言えば、かなり怖い。


でも。


あわはもっと怖いはずだった。


「……あわ」


呼んでも、あわは動かない。


ただ、五条を見ている。


「今行くから」


犬が一匹、こちらへ向かって一歩出た。


五条は思わず後ずさりしそうになる。


それでも、足を止めなかった。


「こっち来い」


近くに落ちていた空き缶を拾い、少し離れた場所へ投げる。


ガシャン、と大きな音がした。


犬たちが一瞬そちらを見る。


その隙に、五条はあわとの距離を詰めた。


「今だ」


しゃがみ込む。


「おいで」


あわは動かない。


「……頼むから」


もう一度、手を伸ばす。


すると。


あわが、ほとんど飛び込むように五条の腕の中へ入ってきた。


「うわっ」


思わず声が出る。


けれど、すぐに両腕で抱きしめた。


小さな身体が震えている。


「大丈夫だから」


自分自身にも言い聞かせるように、何度も背中を撫でる。


「もう大丈夫」


犬たちを警戒しながら、五条はゆっくり後ろへ下がった。


やがて犬たちは興味を失ったのか、別の方向へ歩いていった。


それを確認してから、五条はようやく大きく息を吐いた。


「……怖かった」


腕の中のあわを見る。


「お前も怖かったよな」


あわは答えない。


ただ、五条の服に顔を押しつけたまま動かなかった。


「帰ろう」


五条はあわを抱いたまま、家へ戻った。


玄関の扉を閉めた瞬間。


五条はその場に座り込んだ。


「……疲れた」


腕の中を見る。


あわはまだ離れない。


「どうしたんだよ」


そっと床へ下ろそうとする。


すると、あわが前足で五条の服をつかんだ。


「……え?」


離れない。


五条はしばらく黙ってから、小さく笑った。


「もしかして、俺のこと好きになった?」


もちろん返事はない。


でも。


その夜から、少しだけ変わった。


ソファに座ると、あわが少し離れたところに来る。


五条が立つと、あわも顔を上げる。


寝室へ向かえば、その後ろをついてくる。


まだ膝の上には乗らない。


まだ自分から触れてもこない。


それでも。


昨日までとは、明らかに違った。


翌朝。


五条がソファに座ると、あわが近づいてきた。


一度、五条の顔を見る。


それから、そっと前足を膝に乗せる。


「……ん?」


五条が動きを止める。


あわは少し迷ったあと、そのまま膝の上に乗った。


丸くなる。


そして目を閉じた。


「……うそだろ」


五条はしばらく動けなかった。


やがて、恐る恐る背中を撫でる。


あわは逃げない。


むしろ小さく喉を鳴らした。


「……それ、反則だろ」


五条は笑った。


犬がよかったと思っていた。


でも。


これはこれで、悪くない。


そう思った。


そして、その日の夕方。


玄関の扉が開いた。


「ただいま」


未沙の声だった。


五条はリビングから答える。


「おかえり」


未沙が部屋に入ってくる。


そして、ぴたりと足を止めた。


「……え?」


五条の膝の上。


そこには、あわが丸くなっていた。


「何?」


五条が聞く。


未沙は五条とあわを交互に見る。


「……何があったの?」


「いろいろ」


「その“いろいろ”が怖いんだけど」


「外に出た」


「え?」


「野良犬に囲まれてた」


未沙の顔から笑みが消えた。


「……大丈夫だった?」


「うん。俺も、あわも」


「よかった……」


未沙はほっと息を吐いた。


そして、あわを見る。


「だから、ひかるんのところにいるの?」


五条はあわの頭を撫でた。


「たぶんね」


未沙は少しだけ笑った。


「そっか」


それから、あわの頭を撫でる。


「よかったね。助けてもらったんだね」


あわは目を細める。


未沙はその様子を見ながら、ふっと笑った。


「……でも」


「ん?」


「ちょっと悔しい」


「また?」


「だって、私よりひかるんのほうが好きみたい」


「そんなことないでしょ」


「じゃあ、私のところにも来てよ」


未沙が手を差し出す。


あわは未沙の指先に鼻を寄せる。


それから。


五条の膝の上で、また丸くなった。


「……ほら」


「なんで得意そうなの」


「いや、これはちょっと嬉しい」


「ずるい」


未沙が笑う。


五条も笑う。


その真ん中で、あわは気持ちよさそうに目を閉じた。


翌日。


未沙がリビングに入ると、ソファに置いてあった五条のジャケットの上で、あわが丸くなっていた。


「……あ」


未沙が立ち止まる。


そこは、五条が帰ってきたときによく置く場所だった。


あわは気持ちよさそうに眠っている。


「ひかるん」


「なに?」


「見て」


五条がやってくる。


「……あ」


「また“あ”」


「いや、これは……」


「完全にひかるんの匂いの上で寝てる」


「そうみたいだね」


未沙は少しだけ考えた。


「なんか悔しい」


「また?」


「だって、私もそこ好きだったのに」


「ジャケットが?」


「そういう意味じゃない」


「どういう意味?」


「……ひかるんの匂い」


五条が一瞬黙る。


「未沙」


「なに?」


「それ、本人に言う?」


「今言った」


「そうだね」


未沙は少し照れながら、ジャケットの端をそっと自分のほうへ引いた。


あわは起きない。


「共有ね」


「猫と?」


「猫と」


「平和だなあ」


「平和が一番でしょ」


五条が笑う。


その横で、あわが小さく伸びをした。


二人のほうを見る。


そして、何事もなかったようにまた丸くなる。


五条はその姿を見ながら、少しだけ笑った。


最初は、犬がいいと思っていた。


帰れば駆け寄ってきてくれて、名前を呼べば喜んでくれる。


そんな家族を想像していた。


でも、実際にやってきたのは、自由で、気ままで、なかなか思い通りにならない猫だった。


それでも。


気づけば、家の中にあわがいることが当たり前になっている。


未沙が笑う。


五条が笑う。


あわは眠っている。


それだけで、少し広く感じていた家が、ちょうどいい。


「ねえ、ひかるん」


「ん?」


「この子、来てくれてよかったね」


五条は少しだけ考えてから、うなずいた。


「うん」


あわが小さく尻尾を動かした。


聞こえているのか。


たまたまなのか。


二人には分からない。


でも、そんなことはもう、どうでもよかった。


家の中には、トーストの匂いも、コーヒーの香りも、二人の笑い声もある。


そして今は、あわの気配もある。


消えてしまうと思っていたものが、いつの間にか日常になっている。


それはきっと、泡みたいに消えてしまうものではなくて。


毎日の中に、静かに残っていくものなのだ。


少し広すぎると思っていた家は、今日もちゃんと、ちょうどいい。


新しい家族と、新しい残り香に包まれながら。

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