第3話 言いたかったこと
午後のサロンには、午前中とは少し違う静けさがあった。
昼休憩を終えたスタッフたちが、それぞれの持ち場へ戻り始める時間。
受付では次の予約を確認する声が聞こえ、奥ではタオルを補充するスタッフが行き来している。
大きな窓から差し込む光は少し傾き始めていて、白い床の上に細長い影を落としていた。
美咲は施術室の準備をしながら、予約表を確認した。
次のお客様は二十代後半の女性。
リピーターではあるけれど、担当するのは今日が初めてだった。
予約時の希望は、ボディケア。
備考欄には、
――首、肩、背中。
それだけが書かれている。
「美咲ちゃん、次のお客様いらっしゃったよ」
受付から声が飛んできた。
「はい」
美咲は施術室を出る。
受付の前には、一人の女性が立っていた。
ベージュのコート。
肩までの髪。
きれいに整えられた服装なのに、どこか疲れて見える。
「お待たせしました」
美咲が声をかけると、女性は顔を上げた。
「お願いします」
「本日はボディケアですね」
「はい」
「特にお疲れなのは、首と肩と背中でよろしいですか?」
「そうですね」
そこで女性は少しだけ笑った。
「たぶん、そこです」
「たぶん?」
「自分でもよく分からなくて」
美咲は笑った。
「では、触らせていただきながら確認していきましょう」
「お願いします」
施術室へ案内する。
説明を終え、女性がベッドへ横になる。
名前は、田中。
施術を始めてすぐ、美咲には分かった。
かなり力が入っている。
肩も背中も硬い。
特に首の付け根から肩甲骨にかけて、ずっと緊張しているような張り方だった。
「田中さん、少し力を抜いて大丈夫ですよ」
「はい」
返事はある。
けれど、なかなか抜けない。
美咲は力をかけすぎないようにしながら、ゆっくりと施術を続けた。
しばらくすると、田中がぽつりと言った。
「昨日、彼氏と喧嘩したんです」
突然だった。
美咲は驚かなかった。
こういう話は、珍しくない。
「そうだったんですね」
「はい」
「大きな喧嘩でした?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「私、怒りすぎたのかもしれなくて」
声には、まだ少し怒りが残っていた。
「でも、向こうが悪いんですよ」
「そうなんですね」
「絶対そうです」
「はい」
「約束してたのに、仕事が入ったからって急にキャンセルされて」
「それは悲しいですね」
「そうなんです」
田中の声が少し強くなる。
「しかも、仕方ないって感じで言われて」
「それは……嫌ですね」
「でしょう?」
「はい」
「だから私も、いろいろ言っちゃって」
美咲は肩から背中へ、ゆっくり手を移した。
「いろいろ?」
「前から思ってたこととか」
「たくさん?」
「たくさんです」
田中は少しだけ笑った。
でも、その笑い方には余裕がなかった。
「言わなくてもいいことまで言いました」
「そうだったんですね」
「はい」
少し沈黙する。
「でも、まだ腹が立ってます」
「はい」
「謝ってほしいんです」
「うん」
「ちゃんと謝ってくれたら、たぶん許せるんです」
「そうなんですね」
「……たぶん」
また「たぶん」だった。
美咲はその言葉を聞きながら、田中の首筋に触れた。
硬い。
怒っているときは、身体にも力が入る。
でも、それだけではない気がした。
「田中さん」
「はい」
「今、一番腹が立っているのって、約束をキャンセルされたことですか?」
「……はい」
答えるまでに、少し時間があった。
「たぶん」
美咲は何も言わず、待った。
田中はしばらく黙っていた。
そして、ふっと息を吐く。
「……違うかもしれません」
「はい」
「キャンセルされたことも嫌でした」
「うん」
「でも、それより」
声が少し小さくなる。
「私との約束を、そんなに大事だと思ってなかったのかなって」
美咲は黙って聞いた。
「仕事が入ったこと自体は、仕方ないんです」
「はい」
「仕事なら仕方ないって、私だって分かってます」
「うん」
「でも……」
田中の声が震えた。
「一言くらい、残念だったって言ってほしかった」
美咲の手が、肩の上で止まった。
「私ばっかり楽しみにしてたみたいで」
「……はい」
「なんか、それがすごく嫌だったんです」
怒りの奥にあったもの。
それは、寂しさだった。
美咲はそのことを言葉にしなかった。
本人がもう気づいている。
それなら、自分が名前をつける必要はない。
しばらくすると、田中が小さく笑った。
「私、何でこんなに怒ってるんだろうって思ってたんです」
「はい」
「今なら分かる気がします」
「何がですか?」
「分かってほしかったんですね」
その言葉は、とても小さかった。
「私が楽しみにしてたこと」
「……はい」
「一緒に楽しみにしてほしかったんだと思います」
美咲は、ゆっくり肩をほぐしていく。
「それなら」
「はい」
「謝ってほしいだけじゃないのかもしれませんね」
田中はしばらく黙っていた。
「……そうですね」
少しだけ笑った。
「でも、やっぱり謝ってはほしいです」
美咲も笑った。
「それは、そうですよね」
「ですよね?」
「はい」
「私、怒りすぎたのかな」
「そこは私には分からないです」
「ですよね」
「でも」
美咲は少しだけ間を置いた。
「怒っているときって、本当に言いたいこととは違うことを、たくさん言ってしまうことはありますよね」
「……あります」
「あとから考えると、あれ言わなきゃよかったな、とか」
「あります」
「でも、本当は言わなきゃいけなかったこともあったりして」
田中が小さく息を吐いた。
「難しいですね」
「難しいです」
二人とも少し笑った。
それから、しばらく静かな時間が続いた。
田中の呼吸が少しずつ深くなる。
肩の力も抜けていく。
施術を終えるころには、最初に比べて表情もかなり柔らかくなっていた。
「終わりました」
「ありがとうございます」
田中がゆっくり起き上がる。
首を回し、肩を動かす。
「あ……」
「どうですか?」
「軽いです」
「よかったです」
「身体もですけど」
田中は少し照れくさそうに笑った。
「頭の中も、ちょっと軽くなりました」
「それならよかったです」
受付へ戻り、会計を済ませる。
田中はバッグを肩に掛けると、入口の前で少しだけ立ち止まった。
「美咲さん」
「はい?」
「長々とすみませんでした」
「いえ」
「なんか、聞いてもらっただけなのに」
「それで楽になることもありますから」
「そうですね」
田中はドアのほうへ向かう。
けれど、また少しだけ足を止めた。
「……美咲さん」
「はい?」
「もし連絡するなら」
「はい」
「何て送ったらいいと思います?」
美咲は少し考えた。
ここで「こう送ればいいですよ」と答えるのは簡単だった。
でも、それは違う気がした。
「田中さんが、本当に言いたいことを送ればいいと思います」
「本当に言いたいこと……」
「はい」
「謝って、じゃなくて?」
「それも本当に言いたいなら、それでいいと思います」
田中は少し考えた。
そして、スマートフォンを取り出した。
「……たぶん」
また、その言葉だった。
「『昨日は悲しかった』って送るのは、どうですか?」
美咲は笑った。
「いいと思います」
田中も笑った。
「それなら、言えそうです」
「はい」
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
ドアが開く。
外の空気が店内へ少しだけ流れ込んできた。
田中はスマートフォンを握ったまま、歩き出した。
美咲はその背中を見送った。
しばらくすると、後ろから声がする。
「美咲ちゃん」
振り返る。
未沙が受付のところに立っていた。
「はい?」
「今のお客様、恋人と喧嘩したの?」
「聞こえてたんですか?」
「ちょっとだけ」
未沙は笑う。
「何て言ってた?」
「『昨日は悲しかった』って送ろうかなって」
「そう」
未沙は小さくうなずいた。
「いい言葉だね」
「ですよね」
「怒ってるときって、どうしても相手を責める言葉が先に出るから」
「はい」
「でも、本当に伝えたいことって、案外もっと短いのかもしれないね」
美咲は少し考えた。
「……分かってほしかった、みたいな?」
「そうかもしれない」
未沙はそれ以上言わなかった。
美咲も、もう何も言わなかった。
サロンの中には、いつもの香りが漂っている。
受付では次のお客様を迎える準備が始まっている。
スタッフの一人が予約表を確認し、別のスタッフがタオルを運んでいる。
いつもの午後。
誰かが来て、少し話して、身体の力を抜いて、帰っていく。
そのたびに、何かが大きく変わるわけではない。
恋人との喧嘩がなくなるわけでもない。
仕事の問題が解決するわけでもない。
それでも。
言えなかったことを、少しだけ言えるようになる。
それだけで、昨日とは違う一日になることがある。
美咲は受付へ戻り、次のお客様の名前を確認した。
「美咲ちゃん、次のお客様、あと五分くらい」
「はい」
「よろしくお願いします」
「はい!」
美咲は笑って答えた。
また、扉の向こうから誰かがやってくる。
今度はどんな人だろう。
何を抱えているんだろう。
そして、その人は帰るときに、何を持って帰るのだろう。
答えは、美咲には分からない。
きっと、分からなくていい。
ここは人生の答えを教える場所ではない。
少しだけ立ち止まって、自分の気持ちに気づく場所。
それくらいで、ちょうどいい。
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
美咲はいつもの笑顔で、その人を迎えた。
サロンには今日も、誰かの日々が静かに流れ込んでくる。




