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第2話 嬉しいことがあったのに言えない人

朝のサロンには、まだ少しだけ静けさが残っていた。


開店時間までは、あと三十分。


大きなガラス窓から差し込む朝の光が、白い床をゆっくり明るくしている。


受付では予約表を確認するスタッフがいて、奥では今日使うタオルがきれいに積み上げられていた。


アロマの香りも、営業中より少しだけ淡い。


十人ほどいるスタッフが、それぞれの持ち場で開店の準備を進めている。


「美咲ちゃん、今日の午後、ご新規様一名入ってるよ」


受付のスタッフから声をかけられ、美咲は手にしていたタオルを置いた。


「はい、確認してます」


予約表をもう一度見る。


午後二時。


高橋。


三十歳前後の女性。


メニューはボディケアとヘッド。


備考欄には、短くこう書かれていた。


――肩、首まわりの疲れ。


「美咲ちゃん、よろしくね」


「はい」


美咲は予約表を閉じた。


ご新規様を担当することは、もう珍しくない。


働き始めたばかりのころなら、名前を見るだけで少し緊張していた。


どんな人だろう。

どんなことを求めているんだろう。

ちゃんと満足して帰ってもらえるだろうか。


そんなことを考えていた。


今では、そこまで構えなくなった。


五年もここで働いていれば、それなりにいろいろなお客様を見てきた。


よく話す人。

ほとんど話さない人。


疲れている場所を細かく説明してくれる人。

「なんとなくお願いします」としか言わない人。


施術中ずっと眠っている人もいれば、話しているうちにいつの間にか自分の悩みを話し始める人もいる。


美咲は、そういう違いを見るのが嫌いではなかった。


同じように疲れていても、疲れ方は人によって違う。


身体に出る人もいれば、言葉に出る人もいる。


そして、ときどき。


自分でも気づいていないところに、疲れが出ている人もいる。


「今日もよろしくお願いします」


「はい。お願いします」


スタッフ同士で声を掛け合いながら、開店時間を迎える。


ガラスの向こうを歩く人の姿が増えていく。


扉が開くたびに、外の空気が少しだけ店内へ入ってくる。


サロンの一日が始まった。


午前中は、いつものように慌ただしかった。


予約の変更があったり、電話が入ったり、スタッフ同士で確認をしたり。


それでも、この店では慌ただしさをそのまま表に出さない。


美咲も今では、忙しいときほど声を落ち着かせることを覚えていた。


「美咲さん、次お願いします」


「はい」


時計を見る。


午後二時。


予約表に書かれていた時間だった。


受付を見ると、一人の女性が立っていた。


肩までの髪。


シンプルな服装。


年齢は三十代前半くらいに見える。


受付のスタッフと話しているが、どこか申し訳なさそうに笑っている。


「高橋様ですね。お待ちしておりました」


「はい」


「本日は美咲が担当させていただきます」


「よろしくお願いします」


美咲は笑顔で頭を下げた。


「こちらへどうぞ」


高橋は小さく会釈をして、美咲について歩いてくる。


歩き方は普通だった。


特に疲れているようには見えない。


ただ、少しだけ背中が丸い。


それくらいだった。


施術室へ案内し、説明をしてから、高橋がベッドへ横になる。


「本日は肩と首まわりがお疲れとのことでしたが、ほかに気になるところはありますか?」


「そうですね……」


高橋は少し考えてから笑った。


「特にないです」


「分かりました」


「なんか、すみません。予約するときも、何て言ったらいいか分からなくて」


「大丈夫ですよ」


美咲は笑った。


「疲れてるから来ました、で十分です」


「……そうですか?」


「はい」


高橋は少し安心したように笑った。


「じゃあ、それでお願いします」


施術が始まる。


肩に触れた瞬間、美咲は少しだけ驚いた。


硬い。


かなり張っている。


首も同じだった。


肩から首にかけて、ずっと力が入っている。


「高橋さん、少し力を抜いて大丈夫ですよ」


「はい」


返事はする。


けれど、力は抜けない。


美咲は少し待ってから、もう一度ゆっくり肩に触れた。


「ここ、結構張ってますね」


「そうですか?」


「はい」


「自分ではあんまり分からなくて」


「そういうこと、ありますよ」


美咲はそれ以上言わなかった。


しばらく静かな時間が流れる。


高橋は目を閉じている。


けれど眠っているわけではなさそうだった。


「最近、お仕事忙しいですか?」


「うーん……」


少し間があった。


「普通です」


「普通?」


「はい。たぶん、普通です」


その答え方が少し気になった。


でも、美咲は深く聞かなかった。


サロンで話すことは、必ずしも問題を解決するためではない。


話したい人には話してもらえばいい。


話したくない人には、無理に話してもらう必要はない。


しばらくして、高橋の呼吸が少し深くなった。


肩の力も、ほんの少し抜けている。


「……気持ちいいです」


「よかったです」


「最近、こういう時間なかったかもしれません」


「お忙しかったんですか?」


「忙しいというか……」


高橋はそこで言葉を止めた。


「何か、ずっと落ち着かなくて」


「そうなんですね」


「別に嫌なことがあるわけじゃないんです」


「はい」


「むしろ、最近ちょっと嬉しいことがあって」


美咲の手が止まったわけではない。


けれど、少しだけ意識が高橋の言葉へ向いた。


「嬉しいこと?」


「はい」


高橋は笑った。


さっきまでより、少しだけ明るい声だった。


「仕事で昇進が決まったんです」


「わあ。それはおめでとうございます」


「ありがとうございます」


高橋の声が少し弾む。


「ずっと頑張ってきたので、決まったときは本当に嬉しかったんです」


「それは嬉しいですよね」


「はい」


そこで高橋は、また黙った。


美咲はその沈黙を急かさなかった。


しばらくして、高橋がぽつりと言う。


「でも……まだ誰にもちゃんと言えてなくて」


「そうなんですか?」


「はい」


「どうしてですか?」


聞いたあと、美咲は少しだけ言い方を変えたほうがよかったかなと思った。


けれど高橋は嫌そうな様子もなく、天井を見つめたまま話し始めた。


「会社では、同じチームの人が最近あんまりうまくいってなくて」


「はい」


「その人もすごく頑張ってるんです。だから、私だけ昇進したって言いにくくて」


「なるほど」


「友達にも言えてなくて」


「お友達にも?」


「みんなそれぞれ大変そうだから」


高橋は小さく笑った。


「家族にも、まだ言ってません」


「家族にも?」


「はい」


「それは……」


美咲は少し考えた。


「ちょっともったいないですね」


「ですよね」


高橋が笑う。


「自分でもそう思います」


「嬉しいことなのに、誰にも言えないって、ちょっと寂しいですよね」


「……そうなんです」


声が少し小さくなった。


「嬉しいはずなんです」


「はい」


「本当に嬉しいんです」


「うん」


「なのに、なんか……苦しいんです」


その言葉が落ちたあと、施術室は静かになった。


美咲は高橋の肩に手を置いたまま、何も言わなかった。


嬉しいことなのに苦しい。


その気持ちは、美咲にも少し分かる気がした。


嬉しいことは、明るいものだと思っていた。


だから、嬉しいなら笑えばいい。


喜べばいい。


そう思ってしまう。


でも、人はそんなに単純じゃない。


誰かを大切に思うほど、自分だけ喜ぶことに罪悪感を覚えることもある。


高橋は、たぶんそういう人なのだろう。


「高橋さん」


「はい」


「嬉しいことって」


「はい」


「案外、身体に力が入るんですよ」


高橋は少しだけ首を動かした。


「……そうなんですか?」


「はい」


美咲は笑った。


「嫌なことだけじゃなくて、嬉しいことでも緊張することってありますから」


「……嬉しいことで?」


「ありますよ」


「知らなかったです」


「私も、昔は知りませんでした」


「美咲さんでも?」


「私だって何でも知ってるわけじゃないですよ」


高橋が少し笑った。


「なんか、安心しました」


「何がですか?」


「嬉しいのに苦しい自分が、変なのかなって思ってたので」


「変じゃないと思います」


美咲は、今度は迷わず言った。


「嬉しいなら、嬉しいだけじゃなきゃいけないわけじゃないですから」


高橋は黙った。


しばらくすると、鼻をすする小さな音がした。


美咲は何も言わなかった。


泣いていることに触れない。


それも、この仕事を五年続けてきて覚えたことだった。


しばらくして、高橋が小さく笑う。


「……すみません」


「謝らなくて大丈夫です」


「こんなところで泣くつもりなかったんですけど」


「そういう日もあります」


「ありがとうございます」


そのあとは、あまり話さなかった。


美咲も無理に話題を探さなかった。


静かな時間が流れる。


高橋の呼吸が少しずつ深くなっていく。


最初に触れたときにはあれほど固かった肩が、少しずつ柔らかくなっていた。


施術を終え、高橋がゆっくり起き上がる。


「どうですか?」


「すごく軽いです」


「よかったです」


高橋は首を回してから、少し笑った。


「身体だけじゃなくて、なんか……気持ちも軽くなりました」


「それならよかったです」


受付へ戻る。


会計を済ませた高橋は、バッグを持って入口へ向かった。


そこで一度、足を止める。


「美咲さん」


「はい?」


「さっきの話なんですけど」


「はい」


「やっぱり、嬉しかったんだと思います」


「……はい」


「ちゃんと嬉しかったって、自分で認めてもいいですよね」


美咲は笑った。


「もちろんです」


高橋は小さくうなずいた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ、ありがとうございました」


扉が開く。


外には午後の明るい光が広がっていた。


高橋は一度だけ振り返り、会釈をしてから歩き出した。


美咲はその背中を見送った。


大きなことを言ったわけではない。


問題を解決したわけでもない。


高橋が誰に昇進を報告するのかも分からない。


それでも、来たときより少しだけ背筋が伸びているように見えた。


「美咲ちゃん」


背後から声がした。


振り返ると、未沙が受付の向こうに立っていた。


「はい?」


「今のお客様、泣いてた?」


「……見てたんですか?」


「ちょっとだけ」


未沙は微笑んだ。


「どうだった?」


美咲は少し考えた。


「嬉しいことがあったのに、誰にも言えなくて苦しかったみたいです」


「そう」


「昇進したんですって」


「それは、おめでたいね」


「ですよね」


美咲は笑った。


「でも、嬉しいことって、意外と身体に力が入るんですね」


未沙は少しだけ目を細めた。


「そうだね」


「知ってました?」


「知ってた」


「さすがオーナー」


「でも、美咲ちゃんが言ったから、その人は少し楽になったんじゃないかな」


「そうですかね」


「うん」


未沙はそれだけ言って、受付に置かれていた予約表へ目を戻した。


美咲もその隣に立つ。


サロンの奥から、スタッフの笑い声が聞こえてきた。


次のお客様を迎える準備をする声。


電話の応対。


タオルを運ぶ足音。


いつもの日常。


誰かの人生が少しだけ軽くなって、また次のお客様がやってくる。


この場所では、それが特別なことではない。


美咲はふと、入口のガラス越しに外を見た。


さっきの高橋の姿は、もう見えない。


きっと今ごろ、どこかで誰かに連絡をするのかもしれない。


あるいは、まだ何も言わないのかもしれない。


それでもいい。


今日ここで、自分の嬉しさをちゃんと「嬉しい」と思えたのなら。


それだけでも、十分なのだと思う。


「美咲ちゃん」


「はい?」


「次のお客様、そろそろいらっしゃるよ」


「はい!」


美咲は笑って、受付へ戻った。


自動ドアの向こうから、次のお客様が歩いてくる。


「いらっしゃいませ」


今日もまた、このサロンに誰かがやってくる。


疲れた人。


迷っている人。


嬉しいのに、うまく喜べない人。


そして、まだ自分でも気づいていない何かを抱えている人。


美咲はいつものように笑顔で迎える。


この場所でできることは、きっとそれほど大きくない。


人生を変えることもできない。


答えを教えることもできない。


ただ、少しだけ身体の力を抜いてもらう。


少しだけ息を深くしてもらう。


そして、帰るときに何かひとつだけ、自分の心に持って帰ってもらう。


それでいい。


朝から続いていた柔らかな香りが、午後の店内にも静かに残っている。


誰かの心に残るものは、いつだって大きな言葉とは限らない。


今日の高橋にとっては、


「嬉しいなら、嬉しいだけじゃなくてもいい」


そのくらいの言葉だったのかもしれない。


美咲は次のお客様へ笑顔を向けた。


「お待ちしておりました」


扉が開く。


またひとり。


ここへ、誰かの日々がやってくる。

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