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第1話 何も始められない人

第1話 何も始められない人


朝のサロンには、まだ少しだけ静けさが残っていた。


開店時間まであと三十分。


十人ほどいるスタッフたちが、それぞれの持ち場で準備を始めている。


受付では予約表の確認。

フロアではタオルや備品のチェック。

施術室ではアロマの香りを整え、照明の明るさを確認する。


大きな声が飛び交うことはない。


それでも、店の中には一日の始まりに必要な動きが、途切れることなく続いていた。


「美咲さん、今日の午前中、三番のお部屋お願いできますか?」


受付から声が飛んできた。


「はーい。誰ですか?」


「ご新規の佐藤さん。三十代前半。ボディとフェイシャルです」


「了解です」


美咲は予約表をのぞき込んだ。


佐藤。

三十代前半。

新規。

ボディとフェイシャル。


それだけ。


備考欄には、


『疲れているので、ゆっくりしたい』


とだけ書かれていた。


「ゆっくりしたい、か」


美咲は小さく呟いた。


その言葉自体は珍しくない。


このサロンに来る人の多くは、何かしら疲れている。


肩が凝っている人。

眠れていない人。

仕事で神経を使っている人。

家族のことで頭がいっぱいの人。


中には、特に理由もないけれど、とにかくここに来たという人もいる。


それでも美咲は、備考欄の短い一文をもう一度見た。


疲れているので、ゆっくりしたい。


なんとなく、少しだけ気になった。


「美咲さん、また考え込んでる」


横から声がして、振り向く。


紗英だった。


「考え込んでないですよ。予約見てただけです」


「その顔、予約見てる顔じゃないもん」


「どんな顔ですか、それ」


「探偵の顔」


「まだ言ってるんですか」


美咲は笑いながら予約表を閉じた。


五年前、このサロンで働き始めた頃は、何をするにも先輩の動きを見てからだった。


タオルを補充するタイミング。

お客様への声のかけ方。

施術後の片づけ。

予約が重なったときの動き。


今では、考えるより先に身体が動く。


後輩から質問されることも増えた。

忙しい時間帯には全体を見ながら、誰がどこへ入ればいいかを考えることもある。


自分でも、少しは成長したと思う。


でも、客のことになると、昔から妙に気になるところがあった。


言葉と身体が違う人。


大丈夫と言いながら、まったく大丈夫そうではない人。


平気な顔をしているのに、どこかだけがずっと緊張している人。


そういうものを、美咲は見過ごせない。


「まあ、探偵でも何でもいいですけど」


美咲は立ち上がった。


「今日も普通に仕事しますから」


「普通に仕事しながら探偵するんでしょ?」


「しません」


「はいはい」


紗英が笑う。


その向こうで、未沙が施術室の準備をしていた。


「美咲ちゃん」


「はい?」


「三番、お願いね」


「はい。佐藤さんですよね」


「そう。新規だから、最初だけ少しゆっくりめに話を聞いてあげて」


「了解です」


未沙はそれだけ言うと、手元のタオルを整えた。


相変わらず、無駄がない。


動きは静かで、声も穏やか。

それなのに、店全体が未沙の動きに合わせて自然に整っていく。


美咲はそんな未沙を見ながら、ふと思う。


五年働いても、まだこの人の全部は分からない。


でも、それでいい気もしていた。


この店には、言葉にしなくても分かることがたくさんある。


だから、美咲も必要以上には聞かない。


聞かれなければ、大丈夫だと思います。


それが、この店で働くうちに覚えたことのひとつだった。


午前十時。


開店時間になる。


自動ドアが開き、最初のお客様が入ってくる。


「おはようございます」


「おはようございます。お待ちしておりました」


受付の声。

スタッフの挨拶。

静かな足音。


サロンはいつもの一日を始めた。


それから二十分ほどして、佐藤さんがやって来た。


「こんにちは」


「こんにちは。佐藤様ですね。お待ちしておりました」


美咲が声をかける。


佐藤は三十代前半くらい。

服装はシンプルで、髪もきれいに整っている。


見た目だけなら、特に疲れているようには見えなかった。


「今日はボディとフェイシャルですね」


「はい」


「気になるところはありますか?」


「えっと……」


佐藤は少し考えてから、笑った。


「特にはないです」


「肩とか首も?」


「うーん……大丈夫だと思います」


「では、施術中に気になるところがあれば、いつでも言ってくださいね」


「はい」


笑顔。


受け答えも丁寧。


感じのいい人だ。


美咲はそのまま案内した。


「こちらへどうぞ」


施術室に入り、カウンセリングを続ける。


「今日はゆっくりされたいということでしたけど、何か特にお疲れのところはありますか?」


「それが……」


佐藤は少し困ったように笑った。


「自分でもよく分からなくて」


「よく分からない?」


「はい。なんか疲れてるなあとは思うんですけど、どこが疲れてるのかって聞かれると……」


「なるほど」


「だから、とりあえず疲れてます、みたいな感じで予約しちゃって」


「全然大丈夫ですよ」


美咲は笑った。


「そういう方、結構いらっしゃいます」


「本当ですか?」


「はい。『とりあえず疲れました』っていう予約、珍しくないです」


佐藤が少しだけ笑った。


「よかった」


「なので、今日はゆっくりしていってください」


「ありがとうございます」


施術が始まる。


最初に肩へ触れた瞬間、美咲は少しだけ目を細めた。


硬い。


思っていたよりずっと硬かった。


首も張っている。

肩甲骨の周辺もかなりこわばっている。


そして意外だったのが、手だった。


手のひらまで、力が入っている。


「佐藤さん」


「はい?」


「普段、パソコンのお仕事ですか?」


「そうです」


「やっぱり」


「そんなに分かります?」


「手に出てます」


「手?」


「はい。ずっと力が入ってます」


佐藤は自分の手を見ようとするように、少し指を動かした。


「……本当だ」


「無意識だと思います」


「そうなんですね」


「普段、手をぎゅっと握ってること多くないですか?」


「うーん……」


佐藤は少し考えた。


「仕事中は、たぶん」


「たぶん?」


「なんか、ずっと集中してるので」


「なるほど」


美咲はそれ以上聞かなかった。


施術を続ける。


しばらくすると、佐藤がぽつりと言った。


「私、最近、何も始められなくて」


「何か始めたいことがあるんですか?」


「あります」


返事が早かった。


「でも、始められないんです」


「何を始めたいんですか?」


「それが……」


また少し間が空く。


「いろいろです」


「いろいろ?」


「転職とか」


「はい」


「引っ越しとか」


「はい」


「あと、恋愛とか」


美咲は思わず少しだけ笑った。


「結構ありますね」


「ですよね」


佐藤も笑った。


「でも、どれも決められなくて」


「決めるのが苦手なんですか?」


「たぶん」


そこで佐藤の声が少し小さくなった。


「何か変えたいとは思ってるんです。でも、何を選んでも失敗しそうな気がして」


美咲は黙って手を動かした。


「転職したら、今より大変になるかもしれない」


「はい」


「引っ越したら、今より孤独になるかもしれない」


「はい」


「恋愛したら、傷つくかもしれない」


「……はい」


「だから、結局何も始めないままになってます」


その言葉のあと、佐藤は少し笑った。


「私、何もしたくない人みたいですよね」


「そうは思いませんけど」


「でも、実際そうなんです」


「うーん」


美咲は少しだけ考えた。


こういうとき、何か気の利いたことを言いたくなる。


せっかく来てもらったのだから、少しでも楽になって帰ってほしい。


五年前の美咲なら、きっと何か励ます言葉を探していた。


でも今は、少し待てる。


相手が言葉を出すまで待つこともできる。


そして、自分が答えを出さなくてもいいことも知っている。


「佐藤さん」


「はい」


「もしかしたらですけど」


「はい」


「始めたいんじゃなくて、先に休みたいのかもしれませんね」


佐藤の身体が、ほんの少しだけ止まった。


「……休む?」


「はい」


「でも、私、そんなに頑張ってるつもりないんです」


「そういう人ほど、休むのが苦手だったりします」


「そうなんですか?」


「たぶんですけど」


美咲は笑った。


「転職するか、引っ越すか、恋愛するかを決める前に、まず今の自分が疲れてるのかもしれません」


佐藤はしばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吐いた。


「……なんか、それかもしれない」


「そうですか」


「私、ずっと何か決めなきゃって思ってたんです」


「はい」


「今年中には転職しようとか。来年には引っ越そうとか。恋愛もちゃんとしなきゃとか」


「うん」


「でも、考えてるだけで疲れちゃって」


「それなら、今日は決めなくていいですよ」


「……いいんですか?」


「はい」


美咲は当たり前のように答えた。


「ここ、そういうことを決める場所じゃないので」


佐藤が小さく笑う。


「そうですね」


「今日は休む場所です」


「……じゃあ、休みます」


「はい。どうぞ」


それからしばらく、会話はなくなった。


美咲は黙って施術を続ける。


佐藤の呼吸が、少しずつ深くなっていく。


肩の力が抜ける。

手のひらの緊張も、ほんの少し緩んでいく。


しばらくして、佐藤が眠った。


美咲は何も言わなかった。


起こさないように、いつもより少しだけ動きをゆっくりにする。


施術が終わるころ、佐藤は目を覚ました。


「あ……寝てました?」


「少しだけ」


「すみません」


「謝らなくて大丈夫ですよ」


佐藤は起き上がりながら、何度か首を動かした。


「なんか……」


「はい?」


「呼吸しやすいです」


「それはよかったです」


「来る前は、何か始めなきゃってずっと考えてたんですけど」


「はい」


「今は、別に今日決めなくてもいいかなって思えます」


「それで十分だと思います」


受付へ戻る。


佐藤は会計を済ませ、バッグを肩に掛けた。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


ドアの前で、佐藤が一度振り返る。


「あの」


「はい?」


「また来てもいいですか?」


「もちろんです」


「何も決まってなくても?」


美咲は笑った。


「何も決まってない人、大歓迎です」


佐藤も笑った。


「じゃあ、また来ます」


「お待ちしてます」


自動ドアが開く。


佐藤が外へ出ていく。


美咲はその後ろ姿を少しだけ見送った。


店の中へ戻ると、未沙が受付の向こうからこちらを見ていた。


「どうだった?」


「寝ました」


「それはよかったね」


「はい」


美咲は予約表を整理しながら言った。


「何も始められないって言ってました」


「うん」


「でも、たぶん何もしたくないわけじゃないんですよね」


「そうだね」


「先に休みたかったんだと思います」


未沙は小さく笑った。


「美咲ちゃん、いいこと言うようになったね」


「やめてください。恥ずかしいです」


「五年目だもんね」


「それ言われると、余計恥ずかしいです」


二人で笑う。


その向こうでは、別のスタッフがお客様を案内している。


「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」


また一人、誰かがこの場所へ入ってくる。


疲れた人。

悩んでいる人。

何かを決めたい人。

何も決められない人。


きっと今日も、いろんな人が来る。


美咲は予約表を閉じた。


「次のお客様、入ります」


「うん。お願いね」


「はい」


美咲は笑って立ち上がった。


何かを変えることだけが、前へ進むことじゃない。


立ち止まること。

休むこと。

何も決めないこと。


それだって、ちゃんと自分のための時間なのかもしれない。


そんなことを、五年かけて少しずつ覚えてきた。


そして今日も、このサロンでは誰かが少しだけ肩の力を抜いて帰っていく。


それでいい。


大きく人生が変わらなくても。


帰り道に、いつもより深く息を吸えたなら。


それだけで、ここへ来た意味はあるのだから。


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