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第10話 ママの笑った顔

午後のサロンに、母親と小さな女の子が入ってきた。


「こんにちは」


「いらっしゃいませ」


美咲が笑顔で迎える。


「大久保です」


「大久保様ですね。ありがとうございます。お待ちしていました」


受付を済ませている間、女の子は店内をきょろきょろと見回していた。


キッズスペースに気づくと、少しだけ目を輝かせる。


美咲はしゃがんで、女の子と目線を合わせた。


「ママが終わるまで、おねえさんと待ってようか?」


女の子が美咲を見る。


「うん」


「わたしは、みさき。お名前おしえて?」


「ゆい」


「ゆいちゃんね」


「うん」


美咲がキッズスペースを指差す。


「おもちゃ、いろいろあるよ」


「おえかきしていい?」


「もちろん。何を描こうか?」


「まだきめてない」


「じゃあ、一緒に考えようか」


「うん」


女の子が少し笑った。


その様子を見て、大久保もほっとしたように笑う。


「すみません」


「大丈夫ですよ。ゆっくり遊んでいてもらいましょう」


大久保は未沙に案内され、施術室へ向かった。


美咲はゆいと一緒にキッズスペースへ座る。


壁一枚を隔てた向こうで、施術室の扉が閉まった。


静かなサロンに、幼い声が小さく響き始めた。


「何描く?」


美咲がクレヨンを並べる。


ゆいはしばらく考えてから、黄色を手に取った。


「これ」


「黄色が好きなの?」


「うん。ママも好き」


「そうなんだね」


ゆいは紙に大きな丸を描いた。


「これ、ママ」


「上手だね」


「こっちはゆい」


「うん」


今度はその隣に、小さな丸を描く。


「二人いるね」


「ママとゆい」


「仲良しなんだね」


「うん」


ゆいは嬉しそうに頷いた。


施術室では、大久保がベッドに横になっていた。


未沙が肩に触れる。


「かなり張っていますね」


「やっぱりですか?」


「はい。肩も首も、ずっと力が抜けていない感じです」


「自分では、そんなに疲れているつもりはなかったんですけど」


「そうだったんですね」


未沙の手がゆっくり肩をほぐしていく。


大久保は目を閉じた。


「最近、お仕事がお忙しいんですか?」


「仕事もありますけど……家に帰ってからのほうが大変かもしれません」


「お子さんのお世話もありますものね」


「はい」


大久保は小さく息を吐いた。


「帰ったら夕飯作って、お風呂に入れて、寝かせて。それから片付けとか洗濯とかしていると、もう自分のことなんて何もできなくて」


「そうだったんですね」


未沙は、それ以上急いで聞かなかった。


壁の向こうから、ゆいの声が聞こえてくる。


「みさきおねえさん、これなあに?」


「クレヨンだよ」


「これは?」


「こっちは青だね」


「じゃあ、これ」


「うん」


大久保が少し笑った。


「楽しそうですね」


「そうですね」


「よかった」


「安心されましたか?」


「はい」


少し間があった。


「この子、最近ちょっと人見知りするようになって」


「そうなんですね」


「家ではすごくおしゃべりなんですけど、外では急に静かになったりするんです」


「今日は大丈夫そうですね」


「はい。美咲さんがいてくれて、よかったです」


未沙は小さく笑った。


「それなら、よかったです」


壁の向こうから、また声が聞こえた。


「ママ」


「お母さんですか?」


「うん」


「かわいいね」


「こっちは、ゆい」


「うん」


「こっちは、おうち」


「素敵ですね」


大久保は目を閉じたまま、その会話を聞いていた。


「……あの子、絵を描いてるんですね」


「はい」


「何を描いてるんだろう」


「お母さまと、ご自分と、お家みたいですよ」


「そうなんですか」


大久保は少し笑った。


「家の絵なんて、最近あまり描いてなかった気がします」


「そうだったんですね」


「保育園では描いてるみたいですけど」


「そうなんですね」


しばらくして、壁の向こうからゆいの声が聞こえた。


「ママ、いつもねむいっていうの」


大久保の身体が、ほんの少しだけ固くなった。


未沙はそれに気づいた。


けれど、何も言わない。


壁の向こうで、美咲が少し困ったように笑っている。


「そうなの?」


「うん」


「ママ、いつもお仕事してる?」


「うん。おしごとして、かえってきて、ごはんつくるの」


「そっか」


「それから、おせんたくする」


「うん」


「だからねむいの」


大久保は目を閉じたまま、しばらく何も言わなかった。


やがて、小さく息を吐く。


「……聞こえてますね」


「はい」


「恥ずかしいです」


「恥ずかしいことではないと思いますよ」


大久保は黙っている。


「この子の前では、疲れているところを見せたくなくて」


「そう思っていらしたんですね」


「はい」


少し間を置いて、大久保が続ける。


「母親なのに、疲れたって言うのもどうかなって」


未沙は施術の手を止めなかった。


「お母さまも、一人の人ですから」


大久保は何も言わない。


「疲れてしまうこともありますよ」


「……はい」


「疲れたときは、ちゃんと休んでいいと思います」


大久保は小さく頷いた。


「でも、この子に心配させたくなくて」


「そのお気持ちも分かります」


未沙は穏やかに続けた。


「でも、ゆいちゃんはもう、ちゃんと見ているみたいですね」


大久保の目元が少し緩んだ。


「そうですね」


そのとき、壁の向こうから美咲の声が聞こえた。


「ゆいちゃん、これは何?」


「ママが笑ってるところ」


大久保が目を開けた。


「……笑ってるところ?」


「そうみたいですね」


大久保はしばらく何も言わなかった。


やがて、小さな声で言った。


「最近、あまり笑ってないのかな」


未沙はすぐには答えなかった。


「どうでしょう」


「自分では、分からないです」


「そういうこともありますよ」


大久保は天井を見つめる。


「この子が見てくれているなら、大丈夫かな」


「何が、でしょうか」


「私がちゃんと笑えてるかどうか」


未沙は少しだけ考えてから答えた。


「今日、少し笑っていらっしゃいましたよ」


大久保は目を閉じた。


「……そうですか」


「はい」


「それなら、よかったです」


未沙はそれ以上何も言わなかった。


ただ、肩に触れる手を少しゆっくりにした。


施術が終わるころには、大久保の表情は来店したときよりずっと穏やかになっていた。


「身体、軽くなりました」


「よかったです」


「なんだか、身体だけじゃない気がします」


「そう感じていただけたなら、よかったです」


大久保は起き上がり、少し照れたように笑った。


「話を聞いていただいたからでしょうか」


「少しでも楽になっていただけたなら、よかったです」


壁の向こうから声がする。


「ママー!」


大久保が笑った。


「呼ばれましたね」


「そうですね」


二人が施術室を出る。


キッズスペースでは、ゆいが描いた絵を持って待っていた。


「ママ!」


「見せて」


紙には、少し大きな女性と、小さな女の子が描かれている。


二人は手をつないでいた。


「上手ね」


大久保が笑う。


「ママ、笑ってる」


「そうね」


「こっちがゆい」


「うん」


「ママとゆい、一緒」


大久保はしゃがみ込んで、ゆいを抱きしめた。


「ありがとう」


「なんで?」


「なんでもない」


「へんなの」


ゆいが笑う。


大久保も笑った。


その笑い声を聞いて、美咲も笑う。


「今日は楽しかった?」


「うん!」


「また来たい?」


「来たい」


「じゃあ、また遊ぼうね」


「うん!」


大久保が美咲に頭を下げる。


「ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


ゆいが美咲を見上げる。


「またあそんでね」


「うん。待ってるね」


「ばいばい」


「ばいばい」


二人が手をつないで、サロンを出ていった。


扉が閉まる。


外の通りを、母親と娘が並んで歩いていく。


ゆいは何かを話している。


大久保は何度も頷いている。


そして、ふと笑った。


「……お母さん、笑ってましたね」


美咲が言った。


未沙は窓の外を見ながら、


「そうね」


と答える。


「娘さん、よく見てましたね」


「子どもは、よく見ているものよ」


「そうなんですね」


美咲は少し考える。


「お母さんのこと、大好きなんでしょうね」


「きっとそうね」


「私も、あんなふうにお母さんのこと見てたのかな」


「美咲ちゃんも、見ていたんじゃない?」


「覚えてないです」


「そう」


少しの沈黙。


美咲は片付けながら、ふと思いついたように言った。


「お母さんって、大変ですね」


未沙は美咲を見る。


「そうね」


「でも、あの子にとっては、お母さんが笑ってるだけで嬉しいんでしょうね」


「そうかもしれない」


「それなら、お母さんもちゃんと笑っていていいんですよね」


未沙は少しだけ目を細めた。


「うん」


短い返事だった。


美咲には、それで十分だった。


サロンの中には、さっきまで聞こえていた幼い笑い声の余韻が残っている。


壁一枚向こうで交わされた、何気ない会話。


その声を聞いていた大久保が、少しだけ自分のことを思い出した。


母親である前に、一人の人として。


疲れていたら、疲れたと言っていい。


笑えない日があってもいい。


そして、また笑える日が来たら、それでいい。


閉店後。


照明を少し落とした店内で、未沙はレジの確認をしていた。


美咲が最後のタオルを片付けている。


「今日は、かわいかったですね」


「ゆいちゃん?」


「はい」


「そうね」


「ずっとお母さんのこと話してました」


「そうだったね」


美咲が少し笑う。


「お母さんも、最後はすごくいい顔してましたね」


「ええ」


未沙はそう答えてから、少しだけ手を止めた。


昼間の光景が浮かぶ。


キッズスペースで絵を描く小さな女の子。


その声を聞きながら、ベッドの上で静かに笑った大久保。


そして、帰り際に手をつないで歩いていった二人。


「……美咲ちゃん」


「はい?」


「今日の親子、素敵だったね」


「はい。ゆいちゃん、お母さんのこと大好きでしたね」


「そうね」


未沙は少しだけ黙った。


そして、窓の外へ視線を向ける。


「……私も、子どもが欲しいな」


美咲の手が止まった。


「え?」


未沙は少し照れたように笑った。


「前から、そう思っていたのかもしれないけど」


「そうなんですか?」


「うん」


少し間を置いて、未沙は続ける。


「今日、あの二人を見ていて、もう一度そう思ったの」


美咲は未沙の横顔を見る。


「五条さんも、知ってるんですか?」


「ちゃんとは、話していないかな」


「そうなんですね」


「でも……」


未沙は小さく息を吐いた。


「家族が増えたらいいなって、思う」


美咲は少し笑った。


「なんか、いいですね」


「そう?」


「はい」


未沙も笑う。


「そういうものなのかもしれないね」


「何がですか?」


「家族って」


未沙は店内を見渡した。


二人で暮らす家。


あわが加わった家。


そこに、まだ見たことのない誰かが加わる未来を、ほんの少しだけ想像する。


「……楽しそう」


未沙が小さく呟いた。


美咲は何も言わなかった。


ただ、少しだけ笑っていた。


その夜。


未沙は帰宅して、リビングのソファに座った。


あわがいつものように近くを通り過ぎる。


「ただいま」


返事はない。


少しして、五条がキッチンから顔を出した。


「おかえり」


「ただいま」


「今日は遅かったね」


「少し話してたの」


「何を?」


未沙は少し迷った。


それから、笑う。


「今日ね、子どもが来てたの」


「そうなんだ」


「うん」


あわがソファの上に飛び乗る。


未沙の隣に丸くなる。


未沙はその背中を撫でながら、五条を見る。


「……ひかるん」


「ん?」


「子どもって、かわいいね」


五条は一瞬だけ未沙を見る。


そして、少し笑った。


「急だね」


「そう?」


「うん」


「今日、そう思ったの」


五条は何も言わなかった。


ただ、未沙の隣に座った。


二人の間で、あわが小さく丸くなっている。


未沙はその背中を撫でる。


「家族って、増えていくのかな」


「どうだろうね」


「増えたら、いいね」


五条は少しだけ未沙を見る。


「うん」


それだけだった。


でも、その短い言葉の中に、二人がまだ知らない未来が、ほんの少しだけ置かれたような気がした。


未沙はあわの頭を撫でる。


その向こうにいる五条を見る。


今ある家族を大切にしながら。


いつか増えるかもしれない家族を、少しだけ想像する。


今日見た親子の姿が、静かに心に残っていた。


それは、まだ形のない願いだった。


けれど。


願いは、気づいた瞬間から、もう少しだけ現実に近いところにあるのかもしれない。


未沙は小さく笑った。


隣では五条が笑っている。


足もとでは、あわが眠っている。


三人の夜は、静かに過ぎていった。

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