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第11話 触れるということ

仕事が終わったのは、いつもより少し遅い時間だった。


最後の片付けを終え、美咲がエプロンを外していると、未沙が声をかけた。


「美咲ちゃん」


「はい?」


「このあと、時間ある?」


「ありますけど」


「じゃあ、少しお酒飲みに行かない?」


「いいんですか?」


「うん」


「行きたいです」


二人はサロンを出た。


駅へ向かう途中にある、小さな居酒屋に入る。


平日の夜ということもあって、店内はそれほど混んでいなかった。


二人でカウンターに並んで座る。


「何飲む?」


「ビールにします」


「じゃあ、私も」


注文を済ませる。


しばらくして、二つのグラスが運ばれてきた。


「お疲れさま」


未沙がグラスを軽く上げる。


「お疲れさまです」


二人で乾杯する。


美咲が一口飲んで、ふっと息を吐いた。


「おいしいですね」


「仕事のあとのビールはね」


「未沙さん、こういうところ来るんですね」


「たまにね」


「なんか意外です」


「そう?」


「もっと静かなお店に行ってそうです」


「私、そんなに上品に見える?」


「そういう意味じゃないです」


美咲が笑う。


未沙も少し笑った。


料理がいくつか運ばれてくる。


二人で取り分けながら、仕事の話をする。


最近のお客さんのこと。


忙しかった日のこと。


サロンで起きた小さな出来事。


仕事中には話さないようなことまで、少しずつ話題が広がっていった。


やがて、未沙が美咲を見る。


「そういえば、美咲ちゃんって、どうしてこの仕事を選んだの?」


「私ですか?」


「うん」


美咲は少し考えた。


「どうして……」


しばらく黙ってから、笑う。


「そういえば、ちゃんと話したことなかったですね」


「そうね」


「実は、中高の部活でバレーボールやってたんです」


「へえ」


「好きだったんです」


美咲は少し懐かしそうに笑った。


「でも、高校のときに腰を痛めちゃって」


「腰?」


「はい。練習中に、ちょっと変な感じがして」


「最初は大したことなかった?」


「そうなんです」


美咲は笑った。


「自然に治るかな?って、そのまま練習してました」


「無理してたのね」


「してましたね」


「それで?」


「だんだん痛くなってきて。最後は、普通に座ってるのも少しつらくなって」


「それは大変だったね」


「はい」


「病院に行って診てもらいました」


美咲はグラスを置いた。


「でも、しばらく通っても良くならなくて」


「そうだったのね」


「それで、整体に通うことになったんです」


「最初から興味があったの?」


「全然です」


美咲は笑った。


「早く治して、部活に戻りたいって、それだけでした」


「そうよね」


「整体って何をするのかも、よく分かってなかったです」


「初めてなら、そうかもしれないね」


「最初の日なんて、ちょっと緊張しました」


「怖かった?」


「怖いというより……何されるんだろうって」


未沙が笑う。


「それは分かる」


「でも、終わったあと、ちょっと身体が軽かったんです」


「すぐに?」


「はい。劇的に痛みが消えたとかじゃないんですけど」


美咲は少し考える。


「身体がちゃんと動く感じがして」


「うん」


「それで、何回か通うようになりました」


料理を一口食べる。


「通ってるうちに、少しずつ面白くなってきたんです」


「何が?」


「自分の身体のことを知るのが」


「身体のこと?」


「はい」


美咲は頷く。


「腰が痛いから腰だけが悪いと思ってたんですけど、肩とか背中とか、脚とかも関係してるって教えてもらって」


「そうね」


「自分では全然気づかなかったんです」


「そういうこと、あるよね」


「それで、ある日、施術してくれてた人に言われたんです」


美咲の声が少し小さくなる。


「『かなり無理してましたね』って」


未沙は黙って聞いている。


「その言葉が、なんか妙に残ったんですよね」


「その言葉が?」


「はい」


美咲はグラスを見る。


「自分では、無理してるつもりなかったんです」


「でも、無理してた」


「たぶん」


少し間があった。


「部活を休みたくなかったし、みんなに迷惑かけたくなかったし」


「うん」


「痛いって言うのも嫌だったんです」


美咲は少し笑った。


「若かったんでしょうね」


「今も若いけどね」


「そうですけど」


二人で笑う。


「でも、その人に言われて、初めて気づいたんです」


「何に?」


「自分の身体のこと、何も分かってなかったんだなって」


未沙は静かに頷く。


「痛いから休むだけじゃなくて、痛くなる前に気づくこともできるんだって」


「それで、この仕事に興味を持ったの?」


「たぶん、そこからです」


美咲は少し照れたように笑った。


「私も、こういうことができたらいいなって思って」


「施術する側に?」


「はい」


「すぐ決めた?」


「いえ」


美咲は首を横に振った。


「そのときは、まだ本当に自分にできるのかなって思ってたし」


「うん」


「でも、進路を考える時期になって、また思い出したんです」


あのときのこと。


痛かった腰。


何も分からなかった自分の身体。


そして、身体に触れながら、静かに話を聞いてくれた人。


「それで、やってみようかなって」


「そう」


「だから、すごく大きなきっかけがあったわけじゃないんです」


「そういうものかもしれないね」


未沙は料理を口に運ぶ。


「人生を変えるような出来事って、案外、後から気づくものだから」


「そうですね」


美咲も笑った。


少し沈黙が続いた。


店内の奥から、誰かの笑い声が聞こえる。


美咲がグラスを持ち上げる。


「でも、今でもたまに思います」


「何を?」


「私、向いてるのかなって」


「施術師に?」


「はい」


未沙は美咲を見る。


「どうして?」


「もっと上手な人もたくさんいるし」


「そうね」


「知識も技術も、まだまだだし」


「そうね」


「……そこは否定してほしかったです」


美咲が笑う。


未沙も笑った。


「でも、それは普通じゃない?」


「普通ですか?」


「うん」


未沙はグラスを置いた。


「ずっと、自分は完璧だと思ってる人のほうが怖いもの」


「それは確かに」


「美咲ちゃんが今も勉強してるのは知ってるよ」


「はい」


「それでいいと思う」


美咲は少し黙った。


「ありがとうございます」


「うん」


しばらくして、美咲が未沙を見る。


「未沙さん」


「なに?」


「私、この仕事選んで良かったです」


未沙は美咲を見る。


「そう」


「はい」


「それなら、よかった」


美咲は笑った。


料理が少しずつ減っていく。


二人のグラスも、何度か空になった。


話はいつの間にか、仕事のことから離れていた。


美咲がふと、未沙を見る。


「未沙さんって……」


「うん?」


「やっぱり、すごいですよね」


「また?」


「だって」


美咲は少し笑う。


「技術もすごいし、お客さんへの接し方もそうだし」


「そうかな」


「私からすると、ちょっと雲の上の人みたいな感じです」


未沙は少し困ったように笑った。


「そんなわけないよ」


「でも、本当にそう思います」


「私、そんなにすごくないよ」


「いやいや」


「挫折なら、人一倍したと思う」


美咲の表情が変わった。


「……え?」


未沙は何でもないことのように、グラスを口に運ぶ。


「本当ですか?」


「うん」


「どんなだったんですか?」


未沙は少し黙った。


美咲が待つ。


「聞きたいです」


「今日は美咲ちゃんの話だから」


「でも……」


「それは、また今度ね」


「えー……」


美咲が少し残念そうな顔をする。


未沙は笑った。


「そのうち話すよ」


「気になります」


「そう?」


「すごく」


「じゃあ、また今度」


「約束ですよ」


「うん」


未沙はグラスを持ち上げる。


「今日は美咲ちゃんの話」


「はい」


美咲もグラスを持ち上げる。


二人で、もう一度乾杯した。


店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。


駅へ向かって二人で歩く。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


「誘ってもらえてよかったです」


「そう?」


「はい」


美咲は少し笑った。


「昔のこと、あまり話す機会なかったので」


「私も聞けてよかった」


「何がですか?」


「美咲ちゃんが、この仕事を選んだ理由」


美咲は少し考えた。


「私も、久しぶりに思い出しました」


「そう」


「最初は腰を治したかっただけだったんですけどね」


「うん」


「今は、誰かが少し楽になって帰ってくれたらいいなって思います」


未沙は美咲を見る。


「できてると思うよ」


美咲が少し足を緩めた。


「……そうですか?」


「うん」


「まだまだなのに?」


「まだまだでもいいんじゃない?」


美咲は少し笑った。


「そうですね」


二人はまた歩き始めた。


駅前の明かりが近づいてくる。


美咲はふと、自分が初めて整体を受けた日のことを思い出していた。


痛くて。


悔しくて。


早く元に戻りたくて。


そんな自分の身体に、初めてちゃんと向き合った日。


あの日、施術をしてくれた人がいた。


身体に触れて。


話を聞いて。


無理をしていることを教えてくれた。


あのときは、それが自分の未来につながるなんて思っていなかった。


でも。


今、自分も同じように誰かの身体に触れている。


誰かの疲れを感じ取っている。


そして、ときには本人も気づいていないことに気づく。


美咲は少しだけ笑った。


「未沙さん」


「なに?」


「私、この仕事好きです」


「そう」


「はい」


「それなら、よかった」


二人は駅の前で別れた。


「じゃあ、また明日」


「はい。また明日」


美咲は一人で歩き出す。


ふと腰に手を当てる。


もう痛くない。


あの頃とは違う。


でも、あの痛みがあったから、今の自分がいる。


そう思うと、少しだけ不思議だった。


人生の中には、避けたかった出来事が、あとになって自分を別の場所へ連れていってくれることがある。


美咲にとって、あのときの痛みは、そういうものだった。


そして今度は、自分の手で。


誰かの痛みや疲れが、ほんの少し軽くなるように。


その人が、自分の身体を少しだけ大切にできるように。


そんな仕事を続けていきたいと思った。

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