第12話 昔を知っている人
午後の店は、少しだけ静かだった。
昼過ぎの慌ただしさがひと段落し、店内には穏やかな時間が流れている。
そのとき、入口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、美咲ちゃん」
「あ、瀬川さん。お久しぶりです」
顔を見た瞬間、名前が出てきた。
五年前、美咲がこの店に入った頃から、ときどき来てくれているお客さんだった。
「久しぶりね」
「はい。お元気でした?」
「元気よ。ちょっと忙しくて、なかなか来られなくて」
「そうだったんですね」
美咲は笑った。
「今日はゆっくりしていってください」
「そうする」
瀬川さんも笑った。
美咲はいつものように案内をして、施術の準備をする。
久しぶりとはいえ、特別なことはない。
いつもの店。
いつもの仕事。
ただ、施術を受けながら、瀬川さんがふと口にした。
「美咲ちゃん」
「はい?」
「なんか変わったね」
「……そうですか?」
「うん」
美咲は少し考えた。
「髪型ですか?」
「違う違う」
瀬川さんが笑う。
「なんていうのかな」
少し考えてから、
「前より、ここにいるのが自然になった」
と言った。
「ここにいるのが?」
「そう」
美咲は少しだけ笑った。
「もう五年になりますから」
「五年かぁ」
瀬川さんが天井を見上げるようにして言った。
「そういえば、美咲ちゃんが入ったばかりの頃から知ってるんだもんね」
「そうですよね」
「最初の頃、覚えてる?」
「もちろん……」
美咲は答えかけて、少しだけ言葉を止めた。
「……どんな感じでした?」
「やっぱり自分では覚えてないんだ」
「そんなに変でした?」
「変じゃないよ」
瀬川さんは笑った。
「ただ、すごく緊張してた」
「私が?」
「うん」
「そんなに?」
「お客さんと話すときも、ちょっと肩に力が入ってた」
美咲は苦笑した。
「そうだったんですね」
「何か聞くと、すぐ誰かのほうを見てた」
「ああ……」
美咲は少しだけ思い出した。
分からないことがあると、誰かに確認する。
自分で判断するのが怖い。
間違えたらどうしよう。
そんなことを、いつも考えていた。
「確かに、そうだったかもしれません」
「でしょう?」
瀬川さんは嬉しそうに笑った。
「でもね」
「はい」
「私、あの頃の美咲ちゃんも好きだったよ」
美咲は少し驚いた。
「……ありがとうございます」
「一生懸命だったから」
「一生懸命というか、いっぱいいっぱいだっただけだと思いますけど」
「それも含めてよ」
瀬川さんはそう言った。
「見てると、頑張ってるなって思ったの」
美咲は返事をしなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「今はね」
瀬川さんが続ける。
「今のほうが、もっといい顔してる」
「……そうですか?」
「うん」
「自分では分からないです」
「そういうものよ」
瀬川さんは笑った。
「毎日一緒にいる自分のことって、意外と分からないから」
その言葉に、美咲は少しだけ黙った。
施術を終える。
いつものように最後の確認をして、身支度を整えてもらう。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
瀬川さんは立ち上がった。
受付へ向かう途中で、ふと店内を見回す。
「でも、変わらないね」
「そうですか?」
「うん。店の雰囲気は変わってない」
「私も、そう思います」
美咲は笑った。
「変わったのは、私だけかもしれませんね」
「そうかもね」
瀬川さんが笑う。
会計を済ませ、入口へ向かう。
「また来ますね」
「はい。お待ちしています」
「今度はもう少し早く来るわ」
「そうしてください」
「じゃあ、またね」
「はい。お気をつけて」
ドアが閉まった。
美咲はしばらく入口を見ていた。
五年前。
自分がこの店に入った頃。
瀬川さんは、その頃の自分を覚えていた。
けれど美咲自身は、細かなことまでは覚えていない。
毎日必死だったからだ。
何を教わったのか。
どんなことで失敗したのか。
どんな顔をしてお客さんを迎えていたのか。
少しずつ記憶が薄れている。
それでも、誰かの記憶の中には残っている。
「……五年か」
美咲が小さく呟いた。
「長いような、短いような」
「何が?」
後ろから声がした。
振り返ると、未沙がいた。
「瀬川さんが、昔の私のこと覚えてたんです」
「ああ」
「私、そんなに緊張してました?」
「してたよ」
未沙は迷いなく答えた。
「そうでした?」
「うん」
美咲は少し笑った。
「自分では、あんまり覚えてないです」
「最初の頃は、何かあると私の顔を見てたから」
「……そうでした?」
「そうだったよ」
美咲は少し考えた。
「今は……どうですか?」
「今は、もう見ないでしょう」
「……たしかに」
美咲は小さく笑った。
「自分で考えて決めるようになったからね」
「そうなんですね」
「それだけじゃないけど」
未沙は店内を見回した。
「最初の頃は、ここにいていいのかなって顔してた」
「……」
「今は、ここにいるのが当たり前って顔してる」
美咲は何も言わなかった。
店の中をもう一度見回す。
受付。
施術室。
いつもの匂い。
いつもの音。
何も変わっていないように見える。
でも、自分は変わっていた。
少しずつ。
毎日、ほんの少しずつ。
だから、自分では気づかなかっただけなのかもしれない。
「……瀬川さんに会えてよかったです」
「どうして?」
「昔の私を教えてもらえたから」
「自分では覚えてなかった?」
「はい」
美咲は笑った。
「でも、誰かが覚えていてくれたんだなって思ったら、ちょっと嬉しくて」
未沙は何も言わなかった。
ただ、静かに笑った。
そのとき、入口のドアが開く。
「いらっしゃいませ」
美咲が顔を上げる。
「こんにちは」
新しいお客さんが入ってくる。
「こんにちは」
美咲は自然に笑って、その人を迎えた。
五年前なら、少し緊張していたかもしれない。
今はもう、そんなことを考えることもない。
ただ、いつものように。
いつもの仕事をする。
それだけだった。
そして、その何気ない一日もまた、いつか誰かの記憶になるのだろう。
五年前の美咲を覚えている人がいるように。
今の美咲を覚えている人も、きっといる。
そんなことを、美咲はまだ知らない。
けれど今日もまた、店の中には穏やかな時間が流れていた。




