↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/33

第13話 何も聞かない

午後の店は、ゆっくりと時間が流れていた。


昼の忙しさがひと段落して、次のお客さんを迎えるまで少し間がある。


美咲は店内を見回し、いつものように準備を整えていた。


そのとき、入口のドアが開いた。


「いらっしゃいませ」


「こんにちは」


顔を上げる。


「小手川さん、こんにちは。お待ちしていました」


「こんにちは。今日はちょっと早かったかしら?」


「大丈夫ですよ。どうぞ」


小手川は笑って店の中へ入ってきた。


美咲がこの店に入った頃から来てくれているお客さんだ。


いつもなら、受付で少し話をする。


最近どうだったとか、仕事が忙しいとか、そんな他愛のない話をしてから施術に入る。


けれど今日は、少し違った。


「今日は、どうされますか?」


「いつもと同じで」


「分かりました」


小手川は、それだけ言って椅子に座った。


美咲は準備をしながら、ふと小手川の顔を見た。


笑ってはいる。


けれど、いつもより少しだけ元気がないように見えた。


「……」


美咲は何も言わなかった。


以前なら、きっと聞いていた。


「何かありました?」


「お疲れですか?」


「大丈夫ですか?」


そんな言葉を、何か一つでもかけようとしていたと思う。


けれど今は、少しだけ違った。


小手川が話したくなったら、きっと話す。


そう思った。


施術が始まる。


店内は静かだった。


小手川も、いつもより口数が少ない。


美咲も無理に話しかけなかった。


ただ、いつものように仕事をする。


それだけだった。


しばらくして、小手川が目を閉じたまま言った。


「美咲ちゃん」


「はい」


「今日、静かね」


美咲は少し笑った。


「そうですね」


「いつもなら、もう少し話すでしょう?」


「……そうですね」


「どうしたの?」


「小手川さんが、今日は静かに過ごしたそうに見えたので」


少しの間があった。


「……分かった?」


「何となくです」


小手川は小さく息を吐いた。


「そっか」


それ以上は何も言わなかった。


美咲も、それ以上聞かなかった。


静かな時間が続いた。


しばらくして、小手川が眠った。


美咲はいつもより少しだけ動きをゆっくりにした。


起こさないように。


疲れている人が、少しでも休めるように。


それだけだった。


やがて施術が終わる。


「小手川さん、終わりました」


「あ……」


小手川がゆっくり目を開けた。


「寝ちゃった?」


「少しだけ」


「ごめんなさい」


「大丈夫ですよ」


小手川は起き上がり、しばらくぼんやりしていた。


そして、小さく笑った。


「なんか、久しぶりにちゃんと寝た気がする」


「それならよかったです」


小手川は身支度を整えながら、美咲を見る。


「今日ね」


「はい」


「朝からちょっと嫌なことがあって」


美咲は黙って聞いた。


「誰かに話そうかとも思ったんだけど」


小手川は少し笑った。


「話したら、余計に疲れそうで」


「……」


「だから、今日は何も話したくなかったの」


美咲は小さく頷いた。


「そうだったんですね」


「うん」


小手川は受付へ向かった。


会計を済ませながら、もう一度美咲を見る。


「何も聞かないでいてくれて、ありがとう」


「いえ……」


美咲は少し戸惑った。


「私、何もしてないですけど」


「それがよかったの」


小手川は笑った。


「何かしてもらいたい日もあるけど、何もされないほうが楽な日もあるのよ」


「……そうなんですね」


「うん」


小手川は少しだけ表情を和らげた。


「今日は、こっちに来てよかった」


「ありがとうございます」


「また来るね」


「はい。お待ちしています」


小手川が入口へ向かう。


ドアを開ける前に、振り返った。


「美咲ちゃん」


「はい?」


「また今度、いっぱい話聞いてね」


美咲は笑った。


「もちろんです」


「じゃあ、またね」


「はい。お気をつけて」


ドアが閉まった。


美咲は、そのまましばらく入口を見ていた。


「何もしてない、か……」


小さく呟く。


「どうしたの?」


未沙が声をかけた。


「小手川さんに、何も聞かないでいてくれてありがとうって言われました」


「そう」


「私、何もしてないんですけど」


未沙は少し笑った。


「何もしないことも、仕事のうちじゃない?」


「……そうなんですか?」


「うん」


未沙は少し考えてから言った。


「お客さんが何を求めてるかは、その日によって違うから」


「はい」


「話を聞いてほしい日もあれば、話したくない日もある」


「……」


「そばにいてほしい日もあれば、一人になりたい日もある」


美咲は静かに聞いていた。


「それが分かるようになったなら、十分だと思うよ」


「分かるようになった……」


美咲は、その言葉を口の中で繰り返した。


五年前の自分だったら。


きっと、何かしなければと思っていた。


お客さんが静かなら、話しかける。


元気がなさそうなら、理由を聞く。


笑っていなければ、笑ってもらおうとする。


それが親切だと思っていた。


今は違う。


話したくなければ、話さなくていい。


眠りたければ、眠ればいい。


何も考えたくなければ、何も考えなくていい。


その人が望んでいることを、無理に変えなくてもいい。


「……難しいですね」


美咲が言った。


「何が?」


「人って、同じじゃないんだなって」


未沙は笑った。


「当たり前でしょう」


「そうなんですけど」


美咲も笑う。


「昔は、みんな同じように接すればいいと思ってた気がします」


「今は?」


「その人によって違うんだなって、少し分かってきました」


未沙は頷いた。


「それでいいと思うよ」


美咲は店内を見回した。


今日も、いつもの店。


いつもの時間。


何か特別なことが起きたわけではない。


小手川が来て、施術を受けて、帰っていった。


ただ、それだけ。


でも、その「それだけ」の中にも、その人にとって必要な時間がある。


美咲は、少しだけそう思えるようになっていた。


「次のお客さん、そろそろですね」


「うん」


美咲は準備を始めた。


タオルを整える。


ベッドを確認する。


店内を見回す。


いつもの仕事。


いつもの一日。


五年前には、何をすればいいのか分からなくて、誰かの顔を見ていた。


今は、目の前にいる人を見ている。


何を言うべきかではなく。


何をしてほしいのか。


何をしないほうがいいのか。


少しずつ、それが分かるようになってきた。


入口のドアが開く。


「いらっしゃいませ」


「こんにちは」


「こんにちは。どうぞ」


美咲はいつもの笑顔で、お客さんを迎えた。


今日もまた、何でもない一日が続いていく。


けれど、その何でもない一日の中に、


誰かが少しだけ楽になる時間がある。


それでいいのかもしれない。


美咲はそう思いながら、いつものように仕事を始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。