第35話 久しぶりに見る顔
サロンの予約がひと段落したころ、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
美咲が顔を上げると、五条が立っていた。未沙の夫で、未輝を保育園へ迎えに行く前に寄ったらしい。仕事帰りのジャケット姿で、片手には鞄を持っている。
「こんにちは。未沙、いるかな?」
「奥にいます。今、片づけているところです」
「じゃあ、少し待たせてもらうね」
五条は待合の椅子に腰を下ろし、壁の時計を見た。お迎えまで、あまり時間はなさそうだった。
しばらくして、未沙が奥から出てくる。手にはタブレットを持っていた。画面には、書きかけのメニュー案が表示されている。
「五条さん、今日はどうしたの?」
「うん。未輝を迎えに行く前に、ちょっと寄ったんだ」
「ありがとう。お願いね」
「うん」
未沙はタブレットに目を落とし、画面を少しスクロールした。新しいメニューの内容や時間、料金の案が並んでいる。いくつかの項目は書き直され、まだ決めきれていない様子だった。
五条が画面をちらりと見る。
「それ、新しいメニュー?」
「うん。まだ考えてるところ」
「僕に相談しようと思ってた?」
「少しだけ。経営コンサルをしてるでしょう」
未沙はタブレットを差し出した。五条は受け取り、画面を眺める。仕事の資料を確認するときのように、いくつかの項目に目を通した。
「ごめん。サロンのメニューのことは、僕の専門外だな」
「そうだよね。施術のことも、お客様の好みも、わからないよね?」
「うん。僕が見ても、これがいいって答えは出せないと思う」
未沙はタブレットを受け取り、少し笑った。
「そりゃそうか」
「でも、ちゃんと考えてるんだね」
「決めてから違ったってなるのも嫌だし」
「そうだよね」
五条は、そこで余計な助言を続けなかった。未沙も、専門的な答えを期待していたわけではなさそうだった。画面を見ながら、もう一度メニュー案を確かめている。
「家では、こういう話しないもんな」
五条が言った。
未沙は画面から顔を上げた。
「うん。家ではサロンのこと、あまり話さないようにしてるから」
「そうだったね」
五条は、それ以上聞かなかった。
未沙は四六時中サロンのことを考えた時期があった。それはとても苦しんでいた時期。だからこそ未沙が家でサロンの話をしないことは、五条も知っている。こうして未沙がタブレットを開き、メニューを考えている姿を目の前で見るのは新鮮だった。
未沙は画面を少し戻し、いくつかの案を見比べた。
「まだ決めないよ。もう少し、お客様の反応を見てから考える」
「それがいいんじゃないかな。……あ、今のも専門家としての意見じゃないよ」
「わかってる」
未沙が笑う。五条もつられて笑った。
経営の相談を受けたわけではない。メニューの答えを出せたわけでもない。それでも、未沙が何を考えて、どうしたいのかを聞けた。
家では見せない仕事の顔。
迷いながらも、お客様のことを考えている顔。
五条はそれを、久しぶりに見た気がした。
「じゃあ、未輝のお迎えそろそろ行くね。」
「うん。よろしくね」
「メニューが決まったら、また見せて」
「そのうちね」
「楽しみにしてるよ」
五条は鞄を持って立ち上がった。
「美咲ちゃん、お邪魔しました」
「お気をつけて」
「未沙、またあとで」
「うん。いってらっしゃい」
ベルが鳴り、五条の姿が外へ消えた。
未沙はカウンターに戻り、タブレットの画面を見直した。さっきまで迷っていた項目を、もう一度ゆっくり読み返す。
家では話さない。けれど、サロンに来た五条には、少しだけ見せてもいいと思った。
五条が答えをくれたわけではない。
それでも、考えていることを口にして、聞いてもらえた。それだけで、胸の中の迷いが少し整った気がした。
未沙は画面を操作し、メニュー案に短いメモをひとつ加えた。
そのころ五条は、保育園へ向かっていた。
未沙の真剣な顔が、しばらく頭に残っていた。




