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第34話 手の先にあるもの

 帰郷から戻って、数日が過ぎた。


 サロンの朝は、いつもと変わらない。入口の看板を出し、タオルをそろえ、施術室の照明を確かめる。窓から差し込む光が、ベッドの白いシーツに細く伸びていた。


 予約表には、小島という名前があった。紹介で来る初めてのお客様だった。


 受付を済ませた小島は、落ち着いた声で「お願いします」と頭を下げた。四十代の後半くらいだろうか。長身できちんとした身なりで、表情には目立った疲れはない。ただ、椅子に座るとき、ほんの一瞬だけ肩を気にしていた。


 カウンセリングシートを見ながら、美咲は尋ねた。


「今日は、どのあたりがおつらいですか?」

「首と肩が重くて。背中も張っている感じがあります」

「お仕事の影響もありそうですか?」

「わたし、医師をしてるんです」

「では、お医者さんですか…それならば、椅子に座られていることが多いんですね」

「いえ、救命の医師なので……患者さんを受け入れるときは、立って動いていることが多いです」

「あ、そうなんですね。体力すごく使いそう」

「そうなんですよ」


 小島は気にした様子もなく、軽く笑った。


「忙しい日は、ずっと立ちっぱなしですか?」

「そうですね。患者さんが続くと、気づいたら何時間も経っています」

「休憩を取るのも難しそうですね」

「取れるときは取るんですけどね」


 小島は言葉を切って、首を少し傾けた。


「今日は、首と肩を中心に、身体の様子を見ながら進めますね。痛みが出たり、強すぎたりしたら教えてください」

「お願いします」


 施術室に案内すると、小島は説明を聞き、静かに準備を整えた。


 ベッドに横になった小島の肩に、タオル越しに手を置く。首の付け根から肩にかけて、張りが強い。美咲は急がず、手の重さを少しずつ伝えた。


「強さはいかがですか?」

「大丈夫です。ちょうどいいです」


 返事は穏やかだったが、肩にはまだ力が残っている。美咲は圧を変えながら、呼吸の様子を確かめる。小島の息は浅く、吐くたびに肩がわずかに動いていた。


 少しずつ背中へ手を移す。肩甲骨のまわりにも張りがあり、背骨の両側は硬くなっていた。


「ここ、張っていますね」

「そうですか」

「ご自分では、あまり気づかないですか?」

「仕事中は、気にしている余裕がないですね。終わってから、ああ疲れたなと思うくらいで」


 美咲は「そうですよね」とだけ返した。

 それ以上、仕事の話を聞くより、今は手の下にある身体を確かめたかった。


 背中から腰に手を移したとき、思ったより強い張りに気づく。


「腰も張っていますね」

「やっぱり、出ていますか」

「少し。腰のあたり、重さはありますか?」

「あります。痛いというほどではないんですけど、立ち続けたあとに重くなります」

「では、そこも無理のない範囲で見ていきますね」

「お願いします」


 小島の返事に合わせて、美咲は腰まわりをゆっくりほぐしていった。


 立って動く時間が長いこと。患者を受け入れるたび、周囲に気を配り、すぐ次の対応へ移ること。小島の話は多くなかったが、その身体の張りから、仕事の途切れなさが伝わってくるようだった。


 美咲は手の力を少しゆるめた。

 そのとき、小島が長く息を吐いた。


 呼吸が変わった。


 美咲は、次の動きを急がずに続けた。息を吐く時間が少しずつ長くなり、肩がベッドに沈むように下がっていく。


 帰省した夜のことが、ふと浮かんだ。


 母が腰に手を当てたのを見て、声をかけた。ソファに座った母の背中に手を置くと、思ったより張りがあった。仕事のように考えすぎず、手の下の反応を感じながら触れていった。


 「気持ちいい」と母が言ったとき、胸の奥が少し温かくなった。


 その感覚は、もっと前にもあった。

 高校でバレーボールをしていた頃、腰を痛めて通った整体。練習のあと、身体の重さを抱えたまま施術を受け、終わって立ち上がると少し楽になっていた。あのときの安堵を、美咲は今も覚えている。


 誰かの手に助けられた経験が、いつの間にか自分の仕事につながっていた。


「少し姿勢を変えますね」

「はい」


 小島がゆっくり身体の向きを変える。美咲はタオルを整え、首と肩に手を添えた。


 触れると、先ほどより肩の力が抜けていた。小島の呼吸も落ち着いている。


「お仕事のこと、考えずにいられる時間ってありますか?」

 美咲が尋ねると、小島は少し間を置いた。

「あるはずなんですけどね。帰ってからも、今日のことを考えてしまう日はあります」

「そうなんですね」

「でも、今は何も考えてなかったです」

「それなら、よかったです」


 美咲は小島の返事を聞いて、手を止めずに施術を続けた。


 施術が終わるころ、小島は目を開け、しばらく天井を見ていた。それからゆっくり起き上がり、首を左右に動かす。肩も一度、軽く回した。


「少し動かしやすくなった気がします」

「よかったです。腰も、今日は無理をせず様子を見てくださいね」

「はい。ここまでゆっくりしたの、久しぶりでした」

「お忙しいですもんね」

「そうですね。でも、休む時間を取るのも必要ですね」


 小島はそう言って、少し笑った。


 受付まで見送ると、小島は「ありがとうございました」と頭を下げた。美咲も「こちらこそ、ありがとうございました」と返す。


 施術室に戻り、ベッドを整える。タオルを畳み、次のお客様の準備を始めた。


 ふと、自分の手を見る。


 誰かを治す手ではない。すべての疲れを取り除けるわけでもない。

 それでも、身体の張りに気づき、呼吸の変化を感じ、力を抜ける時間をつくることはできる。


 母に触れた夜も、今日、小島に触れた時間も、手の下にあったものは違う。けれど、相手の身体に耳を澄ませるということは、きっと同じなのだ。


「美咲さん、次のお客様です」


 受付から声がかかった。


「はい、今行きます」


 美咲は手を洗い、タオルを持って次の部屋へ向かった。


 手の先にあるものを、急がず確かめながら。


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