第33話 帰る日の手
美咲が実家に帰るのは、思っていたより久しぶりだった。
帰れない距離ではない。
休みが合えば行けるし、連絡もしている。
それでも、帰ろうと思わないまま過ぎていく日は、気づけば案外たまっていた。
最寄り駅を出ると、前より明るくなった店先や、新しくなった看板が目に入る。
変わったところもあるし、変わっていないところもある。
そのどちらにも少しずつ馴染みながら、美咲は見慣れた道を歩いた。
実家のインターホンを押すと、ほどなくして母が出た。
「着いたなら連絡くれたらよかったのに」
「歩いてすぐだったし」
「荷物、それだけ?」
「一泊だから」
母は「はいはい」と笑ってドアを開ける。
美咲もつられて少し笑った。
リビングに入ると、家具の位置が少し変わっていた。
照明も前より明るいものに替わっている。
それでも、ソファやカーテンの色合いは見慣れたままで、部屋の空気はちゃんと実家だった。
「お父さんは?」
「まだ。今日は少し遅いって」
「そっか」
キッチンから母が声をかける。
「コーヒーでいい?」
「うん、ありがとう」
美咲はソファに腰を下ろした。
懐かしい、というほど大げさでもないのに、ここにいるだけで身体のどこかが少しゆるむ。
家ではまだ、自分は娘のままでいられるのだと思う。
母がマグカップを二つ持って戻ってくる。
「仕事どう?」
「忙しいよ」
「でしょうね」
「でも、前よりは回せるようになってきたかも」
「ふうん」
母は向かいに座ってコーヒーを飲む。
細かくは聞かないくせに、見ていないわけでもない。
そういうところは昔から変わらない。
「前より、そんなに疲れた顔しなくなったね」
「ほんとに?」
「うん。忙しいのは忙しいんだろうけど」
「慣れたのかも」
「そういう感じ」
そう言われると少し照れくさい。
仕事のことを家で話すと、普段より輪郭がはっきりする気がする。
父が帰ってきたのは、20時前だった。
「帰ってたのか」
「うん、さっき」
「そうか」
それだけ言って着替えに行く父を見て、母が小さく笑う。
「相変わらずでしょ」
「うん」
夕飯は思ったより長引いた。
最近見ている配信の話になったり、父が途中で適当に口を挟んだりして、それを母が軽くあしらう。
何でもない会話なのに、こういう時間はずいぶん久しぶりだった。
食後、母がマグカップをシンクまで運んだとき、小さく腰に手を当てた。
「腰、つらい?」
美咲が言うと、母は「う、うん」と振り向いた。
「ちょっとね。痛いってほどじゃないんだけど、重いのよ」
「最近ずっと?」
「前から多少はあったけど、この頃ちょっとね」
美咲は少しだけ迷ってから言った。
「あとで見る?」
「見る?」
「軽く触るだけでも違うかも」
「いいの?」
「うん」
「家でまで仕事みたいなこと、悪い気もするけど」
「そんな大げさなやつじゃないから」
母は少し笑って、
「じゃあお願いしようかな」
と言った。
父が先に風呂に入っているあいだ、母はリビングのソファに座った。
美咲はその後ろに回る。
「痛かったら言って」
「はいはい」
軽く手を置いただけで、思ったより張っているのがわかった。
背中の下のほうから腰にかけて、疲れがそのまま固まっている感じがする。
「ああ、そこかも」
母が小さく言う。
「やっぱり」
「わかるんだ」
「なんとなくは」
服の上から、少しずつ場所を探るように触れていく。
立っている時間、台所にいる姿勢、買い物袋を持つ手。
毎日の小さな積み重ねが、ここに出ている気がした。
「けっこう張ってるね」
「年かな」
「それでまとめないで」
「じゃあ何よ」
「積み重ね」
「あんた、そういう言い方するんだ」
「するよ」
「ちょっとそれっぽい」
母が笑う。
その声に、美咲も少し笑った。
呼吸が少しずつゆるんでいくのがわかる。
肩の力も、さっきより抜けてきていた。
こうして誰かの身体に触れていると、ときどき昔の感覚が戻ることがある。
今日はそれが、思っていたよりはっきりしていた。
高校の体育館。
バレーボールの練習帰り、重たい腰を引きずるように歩いたこと。
しゃがむのも立つのも嫌になるくらい、鈍い痛みが残っていた時期。
帰りに寄った整体の部屋で、少しずつ身体が楽になっていったこと。
終わって立ち上がると、呼吸まで軽くなっていた。
あの感じを、今も覚えている。
こんなふうに、人を楽にできる仕事があるのだと知ったのは、たぶんあの頃だった。
「気持ちいい」
母がぽつりと言う。
その一言で、美咲は我に返った。
「ほんと?」
「うん。なんか、ちゃんと違う」
よかった、と思う。
その気持ちは、昔も今もあまり変わらない。
誰かの身体が少し楽になること。
呼吸が深くなること。
その変化が、手の下でわかること。
自分がこの仕事を選んだ理由を、うまく言葉にできる気はしない。
けれど、たぶんこういうことなのだと思う。
「美咲」
「ん?」
「助かる」
「うん」
短いやりとりだった。
でも、それで十分だった。
しばらくして手を離すと、母は腰を軽く動かしてみせた。
「あ、違う」
「ほんと?」
「うん。さっきよりだいぶいい」
「ならよかった」
「すごいね」
「そんなでもないよ」
「いや、これは言う」
そう言って笑う母の顔を見て、美咲も少し照れた。
「なんか変な感じ」
母が言う。
「何が?」
「娘にこういうことしてもらうの」
「そう?」
「でも、いいものね」
リビングの照明が、夜の空気をやわらかく照らしていた。
廊下の向こうから、風呂上がりの父の物音が少し聞こえる。
見慣れた部屋の中で、美咲は自分の手を見た。
毎日使っている手だった。
仕事の手でもある。
けれど今夜は、その始まりのほうに少しだけ戻れた気がした。
痛くて、つらくて、少し楽になる。
その感じを自分が知っていたから、今は誰かに返したいと思う。
「明日、肩もお願いしていい?」
母が言う。
「いいよ」
「予約取れる?」
「実家は優先だから」
「あら、助かる」
ふたりで笑う。
帰ってきただけなのに、自分の中の何かが少し整った気がした。
母の身体に触れながら、美咲は忘れていたわけではないものを、もう一度たしかめていた。
この手でやっていこうと思った気持ちは、
ちゃんと今の自分まで続いている。




