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第32話 残り香の先で

 真帆が店を離れてから、しばらくが過ぎていた。


 朝、扉を開けたときの空気が、少しだけ軽くなった気がする日がある。

 季節のせいかもしれないし、気のせいかもしれない。

 けれど未沙は、ときどきそんなふうに立ち止まる。


 店はもう、いつものように回っていた。


 開店前の支度をしていると、美咲が奥からボトルを抱えて出てくる。

「こっち、少なくなってたので出しておきます」

「ありがとう」


 棚の前にしゃがんだ美咲は、よく使うものを手前に寄せながら、ラベルの向きを揃えていく。

 未沙はそれを見て、ふっと目を細めた。


「どうしました?」

「ううん」


 似ている、と思っただけだった。

 誰に、とは言わなくても、自分の中ではもうわかっている。


 いなくなった人の気配は、案外こういうところに残る。

 言葉より先に、手の動きに出る。


 未沙がこの店に来た頃、真帆はもうここにいた。


 未沙は、その時点で十分な腕を持っていた。

 一人で店をやってきた時間もある。

 見ることも、決めることも、抱えることも、もう身についていた。


 だからだろう。

 この店でも最初のうち、未沙はなんでも自分で見ていた。


 ある日の営業後、真帆が言った。


「未沙さん、なんでも自分で持つのね」


「そうかしら」

「そうよ。でも、この店にはもう少し人がいるでしょう」


 それだけのことだった。


 けれど未沙は、ときどき今もその言葉を思い出す。


「未沙さん?」


 美咲の声で、未沙は我に返る。

「昔のこと思い出してた」

「真帆さん?」

「ええ」


 美咲は少しだけ笑って、棚の扉を閉めた。

「私も、たまにあります」

「そう?」


「なんか……忙しいときほど、いますよね」

「いる?」

「いる気がするんです。ここ、先に見とくといいよ、とか言いそうで」


 未沙は小さく笑った。

 たしかに、と思う。


 美咲がまだ今より少し危なっかしかった頃、真帆はよく、さりげなく順番を変えていた。

 表立って助けるのではなく、気づかれないくらい自然に、少しだけ流れを整える。

 そのおかげで救われていたことを、美咲はたぶん、いなくなってからのほうがよく知ったのだろう。


「この前、紗英ちゃんに同じこと言ってて、自分でびっくりしました」

「何て?」

「先にこっち見ておこうか、って」

「ああ」

「真似するつもりなんてなかったんですけど」

「そういうものよ」


 昼すぎ、少し手が空いた頃、バックヤードでは紗英がタオルを整えていた。

 引き出しを閉める音も、ワゴンを動かす音も、この頃はずいぶんやわらかくなった。


「紗英ちゃん」

「はい?」

「そのへん、すごく静かになったね」

「え?」

「物の置き方」


 紗英はきょとんとしてから、少し考える顔になる。

「ああ……」

「自分じゃわかんない?」

「言われてみれば、前より気にしてるかもです」


 そう言って、紗英はタオルの端を揃えた。

「真帆さんに前、言われたことあって」

「何て?」

「急いでても、急いで見えないほうが安心するって」


 その言い方に、美咲は思わず笑ってしまう。

「言いそう」

「ですよね」


 紗英にとって真帆は、たくさん話す相手ではなかった。

 でも、よく見ている人だったのだと思う。

 できていないところも、できるようになってきたことも、何も言わずに見ていた。


「ちょっと遠い人だと思ってました」

 紗英が言う。

「遠い?」

「ちゃんとしてる人、っていうか。あんまり隙がなくて」

「うん」

「でも、いなくなってから、けっこう見てもらってたんだなって思いました」


 美咲は返事の代わりに、ただうなずいた。


 その日の最後の客を見送り、店の中が静かになった頃だった。

 やわらいだ夕方の光がフロアの奥までのびて、使い終えた部屋には、まだオイルの香りが薄く残っている。


 未沙がスマートフォンを見たとき、小さく「あ」と声が漏れた。


「どうしました?」

 紗英が顔を上げる。

「……真帆さんから」


 美咲も手を止めた。

「ほんとですか」


 未沙は届いた文面を開く。

 少し読み進めて、ふっと息をついた。


「よかった」

「何かあったんですか?」


 未沙はふたりのほうを見る。

「お母さまの状態、少し落ち着いてきたみたい」

「あ……」

「それで、実家の近くのサロンで働けることになったって。無理のないところから、少しずつ」


 紗英の表情がぱっとやわらぐ。

「よかった……」

「ほんとに」

 美咲も、ほっとしたように笑った。


 大げさな声は出なかった。

 けれど、その場の空気がふっとゆるむのがわかった。


「返信します?」

 美咲がたずねる。

「ええ」


 未沙は短く言葉を打った。


 よかったです。

 少しずつでも、また始められそうで安心しました。

 無理せずに。

 知らせてくれてありがとう。


 少しだけ考えてから、もう一行足す。


 みんなも喜びます。


 送信を終えると、未沙は画面を伏せた。


 美咲が、静かに言う。

「ちゃんと続いていくんですね」

「うん」

 紗英も小さくうなずく。


 未沙は店の中を見渡した。

 整えられた棚、美咲の置いたボトル、紗英の揃えたタオル。

 どこにも真帆はいない。

 それでも、いないだけではなかった。


「残るものって、あるのね」


 ぽつりとこぼすと、美咲が笑う。

「香りみたいにですか」

「ええ」

「見えないけど、ありますよね」

 紗英が言う。


 未沙はふたりを見て、小さくうなずいた。


 窓の外は、もう夕方の終わりだった。

 店の灯りはやわらかく、今日一日の名残を静かに照らしている。


 静かな店に、やわらかな香りが残っていた。

 それはもう、別れの名残だけではなかった。


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