第31話 やわらかな区切り
午後の予約がひと段落すると、店の中には精油のやわらかな香りと、少し気の抜けた静けさが残った。フロアでは片づけをしながら次の準備に入るスタッフの声が、あちこちで小さく交わっている。洗濯を終えたタオルをたたむ者、カルテを整える者、備品を確認する者。手はそれぞれ動いていても、その動きはもう忙しさの芯を抜けたあとのものだった。
真帆が片づけの手を止めたのは、その静けさが店じゅうになじみはじめた頃だった。
「未沙さん、少しお話いい?」
いつもと変わらないような、でもどこか決めた響きのある声に、近くにいた美咲がふと顔を上げる。真帆の表情は落ち着いていた。けれど、何かを胸の中で整えてきた人の空気が、そのひと言ににじんでいた。
受付で伝票を見ていた未沙が手を止める。
「ええ、いいわよ」
「ちょっとだけ、奥で」
未沙はすぐにうなずいた。
「美咲ちゃん、こっち少しお願いしていい?」
「はい」
「紗英ちゃんも、気になることがあったら見ておいてね」
「わかりました」
そうして二人がバックヤードの奥へ入っていくのを、美咲はタオルを持ったまま見送った。店内には他のスタッフたちの動く気配がある。誰も露骨には見ていない。でも、なんとなく空気がひとつ変わったことだけは、皆が感じているようだった。
バックヤードの奥にある小さな休憩スペースは、表のフロアよりいくぶん空気がやわらぐ場所だった。真帆は椅子に腰を下ろす前に小さく息をつき、それから未沙を見た。
「急にごめんね」
「ううん。どうしたの?」
真帆は少しの間、言葉を選ぶように黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「少し前から、母の具合が安定しなくて」
未沙はそれだけで口をはさまず、ただ真帆の続きを待った。
「大きく崩れるってほどじゃない日もあるの。でも、波があって。実家の近くにいたほうがいいなって思うことが、前より増えてきたの」
「……そう」
「今すぐ何かがあるわけじゃない。でも、このままここで働きながらだと、どっちにもちゃんと手をかけられなくなりそうで」
真帆は少しだけ笑った。困らせないようにする時の、あの穏やかな笑い方だった。
「中途半端なのが、いちばん嫌なのよね」
未沙はすぐには返さない。その沈黙は重たくはなく、真帆の言葉がきちんと落ち着くのを待つための時間のようだった。
真帆は視線を落としきらないまま、続ける。
「だから、お店は今月で一区切りにさせてもらえたらと思ってる」
未沙は小さく息をついた。驚きと寂しさはたしかにあったが、それでもその息に引き止める色はなかった。
「……そうだったのね」
やがて未沙は、静かにうなずいた。
「寂しいわ。もちろん、とても」
「うん」
「でも、お母さまのことがいちばん大事だもの。真帆さんが考えて決めたことなら、私はちゃんと受け止めたい」
真帆の肩から、見えない力が少しだけ抜けたようだった。
「ありがとう」
「こちらこそよ。今までどれだけ助けてもらったか、私のほうが言い足りないくらい」
未沙はそこで少し考えるように目を伏せ、それから顔を上げた。
「たしか、真帆さんのご実家のほう、前に聞いたことがあったでしょう」
真帆がわずかに目を上げる。
「あのあたりなら、知っているサロンがあった気がするの」
「……え?」
「はっきりとは、今すぐ言えないんだけど。前にご縁があったところで、場所もたぶんそう遠くなかったと思うわ」
真帆は少し驚いたように未沙を見た。退職のことを伝えるだけで精一杯だったのだろう。その先に別の働き方があるかもしれないと示されて、表情がわずかに揺れる。
「すぐに決めなくていいし、私の記憶違いかもしれないから、一度確かめてみるわ」
「……未沙さん」
「お母さまのそばにいながら働ける形があるなら、そのほうがいいでしょう?」
「うん……」
真帆の声が少しだけやわらいだ。
「辞めることしか考えてなかった」
「それでもいいのよ。いったん手放して、落ち着いてから考えるのでも。でも、道はひとつじゃないから」
真帆はゆっくりとうなずいた。
「少し、考えてみてもいい?」
「もちろん。返事を急がせるつもりはないわ」
「ありがとう」
その言葉は、最初に口にした時よりずっと深く聞こえた。
ふたりが表に戻ると、店の空気は一見さっきまでと変わらなかった。スタッフたちはそれぞれの持ち場で手を動かしている。けれど、美咲にはわかった。何かが決まったあとの静けさが、そこにはあった。
真帆はいつも通りの調子で仕事に戻ったし、未沙も普段と変わらない声で必要な指示を出した。だからこそ、その落ち着きがかえって胸に残った。
営業が終わり、最後の片づけがひと段落した頃。フロアにはまだ数人のスタッフが残っていた。ロッカーを開ける音、洗濯物を運ぶ気配、明日の備品を確認する声。店を閉じる前のいつもの時間だった。
未沙がみんなのほうを向いて、やわらかく声をかける。
「少しだけ、みんなに伝えておきたいことがあります」
大きな声ではなかったのに、その場の手が自然と止まった。スタッフたちが顔を上げる。美咲も紗英も、持っていたものをそのまま手にしたまま未沙を見た。
未沙は一度だけ真帆に視線を向けた。真帆が静かにうなずく。
「真帆さんが、今月でお店を一区切りにすることになりました」
一瞬、空気が止まる。
「え……」
思わず声を漏らした若いスタッフが、すぐに口をつぐんだ。別のスタッフは驚いたように目を見開き、そのまま背筋を伸ばす。言葉がすぐに出る人も出ない人もいたが、誰も軽くは受け取っていなかった。
真帆が一歩だけ前に出る。
「急な話に聞こえるかもしれないけど、少し前から家のことを考えていて。今月で一区切りにさせてもらうことにしました」
それ以上、事情を細かく並べることはしなかった。けれど、それで十分だった。真帆が簡単な気持ちで言っているのではないことは、その落ち着いた声だけで伝わった。
「お母さまのことだそうです」
未沙がそう添えると、何人かが静かにうなずいた。納得したというより、受け止めようとするうなずきだった。
「ただ」
未沙はそこで言葉を継いだ。
「真帆さんのご実家のほうで、もしかしたらご縁をつなげそうな場所があるかもしれなくて。まだ確かなことではないけれど、私のほうでも少し確認してみようと思っています」
そのひと言で、場の空気がわずかに変わった。ただ辞める、ただ去る、という響きだけではなくなる。
「未沙さんらしいですね」
誰かが小さくそう言って、張りつめていた空気がほんの少しやわらいだ。何人かがかすかに笑う。真帆も困ったように笑って、「ほんとにね」と返した。
それでも寂しさが消えたわけではなかった。長く一緒にいた人がいなくなる。その事実は、店の空気の中にしっかりと残っている。けれど、それはただ失われる感じではなかった。真帆が自分の暮らしに必要なほうへ重心を移していく、そのための区切りなのだと、皆が少しずつ理解していく時間でもあった。
話が終わったあとも、誰かが大きく泣いたり、派手に言葉を重ねたりはしなかった。それぞれが持ち場に戻り、帰り支度をしながら、その知らせを自分の中に落としていく。こういう時、この店の人たちは必要以上に騒がない。その静けさが、かえって真帆への敬意のように美咲には思えた。
ロッカーの前で着替えをしながら、紗英がぽつりと言った。
「まだ、ちょっと実感ないです」
「うん……わかる」
美咲も小さく返す。少し離れたところでは、別のスタッフが真帆に「無理しないでくださいね」と声をかけていた。真帆はいつものように「ありがとう」と笑っている。その笑い方が、今日は少しだけやわらかく見えた。
帰る人たちがひとり、またひとりと店を出ていく。最後に残った美咲は、バックヤードの棚に積まれたタオルを見つめた。真帆がそろえた角はきれいで、いつもと何ひとつ変わらない。けれど、その変わらなさが、かえって胸にしみた。
未沙が消灯前のフロアを見渡しながら、静かに言う。
「区切りはあるけど、終わりとは限らないのよね」
美咲はその言葉を胸の中で繰り返した。
区切りはある。
でも、終わりとは限らない。
精油の香りが、静かな店の中にまだかすかに残っている。
それは消えていくものというより、次の時間へ手渡されていくもののように思えた。




