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第29話 にじむもの

午後の予約が重なって、店の中は朝から少し落ち着かない空気だった。


受付では次の来店時間を確認する声がして、

奥では使用済みのタオルをまとめる音がする。


誰かが歩けば、別の誰かも動く。

そんなふうに、店全体がひとつの流れの中で回っていた。


紗英はワゴンの上を整えながら、小さく息をついた。


まだ慣れないことが多い。


予約の流れ。

スタッフ同士の声のかけ方。

お客様が来店したときの空気の変わり方。


頭では分かっているつもりでも、実際にその中に立つと、うまく合わせきれないことがある。


「紗英さん、そのタオルこっちお願い」


少し離れた場所から未沙の声が飛ぶ。


「はい、今持っていきます」


返事をして動きながら、紗英は視線の端で美咲の姿を見つけた。


美咲はちょうど、お客様を施術室へ案内するところだった。


「こちらへどうぞ」


声も、歩く速さも、いつもと同じように見える。


なのに、少し前より落ち着いて見えるのは気のせいだろうかと、紗英は思った。


前からやさしい人ではあった。

話し方も柔らかいし、お客様への気づかいも自然にできる。


けれど最近は、そのやさしさが前より静かになった気がする。


押し出さないのに、相手がそれに触れていくような。

そんな感じだった。


自分でも、うまく言えない。


タオルを置き、次の準備をしているあいだも、紗英はなんとなく美咲のことが気になっていた。


その日の美咲のお客様は、四十代くらいの女性だった。


来店したときは笑顔もあって、感じのいい人に見えた。

けれど会話の途中、ふとしたところで表情がほどけなくなる瞬間があった。


紗英は受付の補助をしながら、その様子を少しだけ見ていた。


「お疲れ、肩と首が中心ですか?」


美咲の声が聞こえる。


「そうですね。肩もなんですけど、最近は顔まで固くなってる気がして」


女性はそう言って笑った。

冗談めかした言い方だったけれど、本気で困っている感じも混じっていた。


「眠りはどうですか?」


「浅いですね。夜中に何回か起きちゃって」


「そうなんですね」


美咲は、それ以上すぐには言葉を重ねなかった。


その短いやり取りだけなのに、相手の女性が少し話しやすそうな顔をしたのが、紗英には不思議だった。


どうしてだろう。


もっと気の利いたことを言ったわけでもない。

特別に盛り上げたわけでもない。


それなのに、場が少しやわらかくなったように見えた。


しばらくして、美咲とお客様は個室へ入っていった。


紗英はそのあとも別の準備に追われていたが、何度か個室の前を通るうちに、扉の向こうの気配がなんとなく伝わってきた。


大きな声はしない。


けれど、静かすぎるわけでもない。


ときどき会話が途切れて、そのあとまたぽつりと続く。

そんなゆるやかな流れだった。


慌ただしい店内の中で、そこだけ少し空気の濃さが違うような気がした。


施術が終わって、お客様が個室から出てくる。


来たときより、表情がやわらかかった。


受付で会計をしているときも、さっきまでより声が低く落ち着いている。


「ありがとうございました」


そう言う笑顔が、無理に作ったものには見えなかった。


「こちらこそ、ありがとうございました」


美咲もいつものように見送る。


扉が閉まったあと、紗英は思わずその背中を見た。


すごい、と思った。


けれど何がすごいのか、うまく説明できなかった。


技術なのか。

話し方なのか。

雰囲気なのか。


たぶん、そのどれかひとつではない。


少しして、手が空いたところで、紗英は給湯室の前にいた美咲へ声をかけた。


「あの、美咲さん」


「うん?」


振り向いた美咲は、いつも通りの顔だった。


さっきのお客様に特別なことをした人には見えない。

それが余計に、紗英には不思議だった。


「さっきのお客様……来たときと帰るとき、全然顔が違いましたよね」


美咲は少しきょとんとしたあと、小さく笑った。


「そうだった?」


「はい。なんか、すごくやわらかくなってて」


そう言ってから、紗英は少し迷った。

でも、聞きたかったことは別にある。


「……ああいうのって、どうやるんですか?」


美咲は一瞬、返事に詰まった。


「どうやる……?」


「はい。なんていうか、話してるうちにお客様が少しずつ楽になっていく感じです」

「私、まだうまくできなくて」


美咲はすぐには答えなかった。


困らせてしまったかもしれないと紗英が思ったころ、美咲が小さく息をつく。


「私も、そんなに分かってやってるわけじゃないよ」


「でも、さっき……」


「うーん」


美咲は少し考え込むように視線を落とした。


「ちゃんと返さなきゃって思いすぎないようには、してるかも」


その答えは、紗英が思っていたものとは少し違った。


もっと、こう言えばいいとか。

こういう順番で聞けばいいとか。

そういう話かと思っていた。


「返さないんですか?」


「返さないわけじゃないんだけど」


美咲は言葉を探すように笑った。


「急いで埋めない、っていうのかな」

「何か言わなきゃって思いすぎると、逆に相手が話しにくくなることもあるし」


紗英は黙って聞いていた。


分かるような、まだ少し分からないような話だった。


そのとき、近くを通りかかった未沙が足を止めた。


「無理に話させようとしてないだけよ」


ふたりが振り向くと、未沙は伝票の束を持ったまま、いつもの落ち着いた顔で立っている。


「お客様が話したいときに話せるようにしてるの」

「美咲ちゃんは、前よりそれが自然になったのかもね」


美咲は少し驚いたように未沙を見る。


「前より、ですか?」


「ええ」


未沙はあっさり頷いた。


「前は優しいぶん、埋めようとしすぎるところがあったから」


美咲は少しだけ照れたように笑った。


「……それはあるかもしれないです」


紗英はそのやり取りを見ながら、胸の中でゆっくり腑に落ちていくものを感じていた。


話がうまいとか、気の利いたことを言えるとか、そういうことじゃないのかもしれない。


相手が言葉になる前のところで、待てるかどうか。


それだけで、こんなに空気が変わるのだろうか。


「でも、難しいですよね」


紗英が正直に言うと、未沙がふっと笑う。


「難しいわよ」


即答だったので、紗英は少し目を丸くした。


未沙は続ける。


「待てばいいってものでもないし、黙ればいいってものでもないもの」

「その人によって全然違うから」


「ですよね……」


紗英が小さくうなだれると、美咲が慌てたように言った。


「でも、紗英さんもちゃんと見てると思うよ」

「今みたいに、帰るときの顔が違ったって気づけるの、大事だと思う」


思いがけない言葉に、紗英は顔を上げた。


「そうですか?」


「うん。見えてないと、気づけないから」


美咲はさらっと言ったが、その言葉は紗英の胸にまっすぐ入ってきた。


未沙も横で小さく頷く。


「最初はそれで十分よ」

「できることより先に、見えるようになることもあるから」


その言葉に、紗英は少しだけ息をついた。


できないことばかり見えてしまう日がある。


周りは動けているのに、自分だけ空気に乗りきれない気がするときもある。


けれど今は、分からないなりに見ているものもあるのかもしれなかった。


「……ありがとうございます」


そう言うと、美咲がやわらかく笑った。


「私も、まだ途中だよ」


その言い方が、慰めのための言葉ではなく、本当にそう思っている声に聞こえた。


だから紗英も、少しだけ肩の力を抜くことができた。


フロアの向こうで、受付のベルが鳴る。


「紗英さん、次のお客様お願いできる?」


未沙の声が飛ぶ。


「はい、今行きます」


返事をして走り出しかけ、紗英は一度だけ振り返った。


美咲はすでに次の準備に向かっていた。

さっきまでの話を、引きずるような様子もない。


けれど紗英には、その背中が少し前より違って見えた。


大きく変わったわけではない。


目立つ何かが増えたわけでもない。


それでも、近くで見ていると分かるくらいには、空気が変わっている。


そういう変化もあるのだと、紗英は思った。


受付へ向かいながら、さっきの言葉をもう一度思い出す。


急いで埋めない。


無理に話させようとしない。


そして、ちゃんと見る。


まだ自分には難しい。


きっとすぐにはできない。


けれど、できるようになる前に、見えるようになることがあるのなら。


それは少し、救いだった。


「いらっしゃいませ」


紗英は姿勢を整えて、お客様を迎える。


声はまだ少し硬いかもしれない。

笑顔も、未沙や美咲ほど自然ではないかもしれない。


それでも、自分なりに見ようとは思えた。


お客様の顔を。

声の速さを。

言葉のあとに残るものを。


サロンの中では、今日もいくつものやり取りが生まれては過ぎていく。


そのひとつひとつの中に、まだ名前のつかない変化が、静かににじんでいるのかもしれなかった。


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