第28話 少しだけの間
次の日も、サロンはいつもと変わらず始まった。
予約表を確認して、タオルを整えて、使うオイルの残りを見ておく。
窓際の植物に水をやり、受付まわりを軽く拭く。
いつもと同じ朝だった。
スタッフルームから出てきた未沙が、店内を見渡してから言う。
「今日も暑くなりそうね」
「そうですね。外、もうけっこう日差し強かったです」
美咲がそう返すと、未沙は小さく頷いた。
「午前のお客様、少し早めにいらっしゃるかもしれないから、準備だけお願いしていい?」
「はい。分かりました、未沙さん」
短いやり取りをして、またそれぞれの動きに戻る。
本当に、それだけだった。
それなのに美咲は、自分の中に何かが少し残っているのを感じていた。
言葉にできるほどのものではない。
昨日のことを引きずっている、というのとも少し違う。
ただ、相手が何かを言い終えたあとのわずかな間に、
前よりも耳が向くようになっている気がした。
急いで返さなくてもいいのかもしれない。
そんなふうに思う自分がいる。
それがいい変化なのかどうかは、まだ分からなかった。
午前のお客様を迎え、施術をして、見送る。
昼前には常連客がひとり来て、他愛ない世間話をしながら肩をほぐした。
大きな出来事は何もない。
けれど美咲は、相槌の打ち方や、言葉を返すまでのほんの短い時間が、
いつもより少しだけ変わっているのを、自分でうっすら感じていた。
昼を過ぎたころ、次のお客様が来店した。
三十代後半くらいの女性で、予約票には「佐田」とある。
「こんにちは。美咲です。本日担当させていただきます」
「お願いします」
控えめな声だった。
感じが悪いわけではない。
でも、どこか力が入っている。
個室に案内して、カウンセリングを始める。
「佐田さん、本日は首と肩のお疲れが中心ですか?」
「はい。ずっと重くて」
「お仕事、忙しいですか?」
「まあ……そうですね」
答えは短い。
話したくないのか、何から話せばいいか分からないのか。
美咲はすぐには判断しなかった。
前なら、ここで何か話しやすい話題を足していたかもしれない。
天気のこととか、季節のこととか、少し気持ちがゆるむような言葉を。
けれど今日は、それを急がなかった。
「分かりました。では、今日は首と肩まわりを中心に見ていきますね」
そう言って施術に入る。
触れてみると、思った以上に張っていた。
首の付け根は固く、肩の上には力が乗ったまま落ちていない感じがある。
「かなり頑張っていらっしゃいますね」
やわらかくそう言うと、佐田は少しだけ苦笑したようだった。
「そう見えますか」
「はい。お身体に出ています」
少し沈黙があった。
美咲は、その沈黙を埋めなかった。
ただ手を動かし、呼吸の浅さや筋肉の硬さを追っていく。
しばらくして、佐田がぽつりと言った。
「最近、家に帰っても気が抜けなくて」
美咲は手を止めずに聞く。
「そうなんですね」
それだけ返す。
すると佐田は、自分でも意外そうに小さく息をついた。
「仕事が忙しいのもあるんですけど」
「母が少し体調を崩して、実家との行き来が増えていて」
美咲は黙って頷いた。
「たいしたことではないんです。入院とか、そういうことじゃないので」
「でも、何というか……気持ちが、ずっと途中で」
途中で、という言い方が美咲の耳に残った。
全部張りつめているわけではない。
全部崩れているわけでもない。
気を抜いていい場所まで、ずっとたどり着けないような響きだった。
「気持ちが休まりにくい感じですか?」
そう尋ねると、佐田は小さく「そうです」と答えた。
「家でも、次にやることを考えてしまって」
「寝ようとしても、あれをしなきゃ、これを返さなきゃって」
「それは、しんどいですね」
美咲がそう言うと、佐田はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が落ちたあとで、ぽつりとこぼれる。
「しんどいって、自分で言ったことなかったかもしれません」
美咲は指先に少しだけ意識を込めた。
肩の奥に残った強い張りを、無理なくほどくように触れていく。
「言える場所、あまりないですか?」
問いかけは短くした。
佐田は少し考えてから答える。
「ないですね」
「言ったら、もっとちゃんとしなきゃいけない気がして」
美咲はその言葉を聞きながら、昨日の綾瀬の声を思い出しかけて、
すぐに意識を目の前へ戻した。
似ているわけではない。
同じ話でもない。
目の前にいるのは、佐田だ。
「ちゃんとしようとする方ほど、気が抜けなくなることありますよね」
そう言うと、佐田の肩がほんの少し落ちた気がした。
「……そうかもしれません」
それからしばらく、部屋の中には静かな時間が流れた。
オイルの香り。
タオルのやわらかな感触。
小さく流れる音楽。
言葉はない。
けれど、さっきまでとは違う沈黙だった。
何も話せない沈黙ではなく、
話さなくても少し息ができる沈黙に変わっていた。
美咲はそれを壊さないように、いつもより少しゆっくり手を動かした。
施術の終わりが近づいたころ、佐田の呼吸は最初よりずっと深くなっていた。
「お疲れさまでした」
声をかけると、佐田がゆっくり身体を起こす。
首を軽く回して、それから少し驚いたような顔をした。
「……あ、軽い」
「よかったです」
「こんなに肩が上がっていたんですね、私」
そう言って、自分の肩に手を触れる。
「たぶん、思っていたよりずっと頑張っていらしたんだと思います」
佐田は、ふっと笑った。
その笑い方は、来たときよりずっと自然だった。
「そうかもしれません」
「なんだか、久しぶりにちゃんと力が抜けました」
その言葉に、美咲も小さく笑う。
「よかったです」
会計を済ませ、見送りのために入口まで出る。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
佐田は靴を履いてから、少し振り返った。
「あの」
「はい」
「さっき、しんどいですねって言ってもらえたの、少しうれしかったです」
美咲は一瞬だけ目を見開いた。
「……そうだったんですね」
「はい」
「大したことじゃないって思ってたので」
「大したことじゃないことでも、積み重なると苦しくなることはあります」
自分でも、するりと出た言葉だった。
佐田は静かに頷く。
「また来ます」
「はい。お待ちしております」
扉が閉まり、ベルの音が小さく残った。
美咲はそのまま数秒、入口の前に立っていた。
「今のお客様」
後ろから声がして振り向くと、未沙が受付の奥に立っていた。
「少し表情がやわらかくなって帰られたわね」
美咲は小さく笑った。
「そうだといいんですけど」
未沙は伝票を整えながら、何でもないふうに言う。
「美咲ちゃん、今日ちょっと間の取り方が違った」
美咲は目を瞬いた。
「間、ですか?」
「ええ。前より少し、急がなくなった感じ」
指摘された瞬間、自分でも気づいていた違和感の輪郭が少しだけはっきりした。
「……そうかもしれません」
未沙は美咲の顔を見る。
「悪い意味じゃないわ」
「はい」
「待てるようになると、お客様のほうから出てくる言葉もあるもの」
美咲はその言葉を、すぐには返さなかった。
昨日のことと、今の施術と、いま未沙に言われたことが、
胸の中でゆっくりつながっていく。
「私、前は埋めようとしてたのかもしれません」
美咲がそう言うと、未沙は小さく頷いた。
「優しい子ほどね、沈黙を埋めたくなるのよ」
その言い方がやさしくて、美咲は少しだけ肩の力を抜いた。
「でも、今日は埋めないほうがよかった気がしました」
「うん」
未沙は短く返す。
「たぶん、それで合ってた」
それだけだった。
褒めすぎるわけでもなく、説明しすぎるわけでもない。
けれど、その短さがかえって美咲にはありがたかった。
「ありがとうございます、未沙さん」
「どういたしまして」
未沙はそう言ってから、ふっと笑う。
「とはいえ、美咲ちゃんが黙りすぎると今度は緊張するお客様もいるから、そのへんは使い分けね」
美咲もつられて笑った。
「そこは、まだ難しいです」
「少しずつでいいのよ」
午後の光が店の中にやわらかく落ちていた。
いつものサロン。
いつもの時間。
けれど美咲には、昨日までと少しだけ違って見えた。
言葉をかけることだけが、誰かに寄り添うことではない。
急いで励ますことだけが、やさしさでもない。
相手が言葉になるまでの短いあいだを、
そのまま置いておけること。
その静かな待ち方もまた、この場所にできることなのかもしれなかった。
受付横の時計に目をやると、次の予約までそう間はない。
奥では別のスタッフの声がして、
フロアの向こうでは、別のお客様を案内する気配もある。
いつもの営業の流れが、そのまま続いていた。
美咲は受付横の鏡に映る自分をちらりと見た。
何かが大きく変わったわけではない。
未沙のようにはまだできないし、
自分のやり方が見えたとも言い切れない。
それでも、昨日触れたものが、
今日の自分の手や声の置き方に少しだけ残っている気がした。
「美咲ちゃん、次のお客様の準備だけお願い」
未沙の声に、美咲は振り向いた。
「はい」
返事をしてから、少しだけ背筋を伸ばす。
「行ってきます、未沙さん」
未沙は軽く頷いた。
「お願いね」
美咲はそのまま施術室のほうへ向かった。
すぐに言葉にならないものもある。
けれど、言葉にならないまま残るものもある。
それが悪いことではないのだと、
今日は昨日より少しだけ自然に思えた。
サロンの午後は、静かに続いていく。
誰かが来て、
少し身体をゆるめて、
少し息をついて帰っていく。
その繰り返しの中で、
美咲もまた、自分の手の置き方を覚えていくのかもしれなかった。




