↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/38

第27話 あなたはあなた

綾瀬が来店したのは、夕方に差しかかる少し前のことだった。


その日の最後の予約だった。


店の中は静かで、昼間のあわただしさが一段落したあとの、やわらかな空気が残っている。


受付で名前を確認したとき、美咲は目の前の女性にそっと視線を向けた。


五十歳前後だろうか。


落ち着いた色の服をきちんと着て、髪も整っている。

姿勢も崩れていない。


けれど、肩のあたりだけが少し固い。


無理に背筋を伸ばしているような、抜けきらない緊張があった。


「綾瀬さん、こちらへどうぞ」


「はい」


綾瀬は小さく会釈をして、美咲のあとをついてきた。


個室に案内し、椅子に腰かけてもらう。


問診票を受け取りながら、美咲は必要なことを一つずつ確かめていった。


「お疲れが出やすいのは、肩と首まわりですか?」


「そうですね。あと背中も。気づくと固くなっていて」


綾瀬の声は静かで、受け答えも落ち着いていた。


初めての来店にしては、緊張を表に出さない人なのだと思った。


けれど、ふとしたところで言葉が少し遅れる。


そのわずかな間が、美咲には気になった。


「眠りはどうですか?」


そう尋ねると、綾瀬は少しだけ視線を落とした。


「浅いですね。眠れても、途中で起きることが多くて」


「そうなんですね」


美咲はそれ以上急がせないように、静かに頷いた。


施術が始まる。


綾瀬の身体は、見た目以上に張っていた。


肩甲骨のまわり。

首の付け根。

背中の上のほう。


触れるたび、長く抜けずに積もってきた疲れのようなものが指先に伝わってくる。


「だいぶ力が入りやすくなっていますね」


美咲がやわらかく言うと、綾瀬はうつ伏せのまま小さく息をついた。


「自分でも、そう思います」


少し間があった。


「昔は、こんなふうじゃなかったんですけど」


その言い方が、ただ年齢のせいにしているようには聞こえなかった。


美咲は手を止めず、声も変えずに尋ねる。


「何か続いていたことがあったんですか?」


綾瀬はすぐには答えなかった。


沈黙が重いというほどではない。


ただ、言葉を選んでいる時間のようだった。


「娘がいたんです」


静かな声だった。


美咲の指先が、ほんのわずかに止まりかける。


止まった、と自分で分かるほど短い間だった。


けれど仕事のあいだ保っていた手のリズムが、一瞬だけ乱れた。


「……そうだったんですね」


声は崩さないようにしたつもりだった。


それでも、いつもより少しだけ息が浅くなった気がした。


綾瀬はそれきり黙ってしまうかと思った。


けれど、しばらくしてから静かに続けた。


「いつも何かしていた気がします」


「何か……ですか?」


「食事だとか、洗濯だとか、迎えの時間だとか」


少し笑ったような気配がした。


「忙しいときは大変だったはずなのに」


そこで綾瀬の声がわずかに遠くなる。


「今思うと、ああいうふうに動いているほうが、余計なことを考えなくて済んだのかもしれません」


美咲は相槌を打ちながら、肩の奥の硬さを少しずつほどいていった。


綾瀬の言葉は淡々としていた。


泣いているわけでもない。


感情をぶつけてくるわけでもない。


それなのに、その静けさの中に、長く抱えてきたものの重みがにじんでいた。


「娘さんは、おいくつくらいだったんですか」


聞いてから、美咲は少しだけ慎重になった。


踏み込みすぎたかもしれない。


けれど、綾瀬は気を悪くした様子もなく、しばらくしてから答えた。


「今のあなたと、ちょうど同じくらいの年でした」


その一言が、美咲の胸の奥に静かに落ちた。


二十五歳前後。


自分がいま立っている、この年齢。


胸に落ちるというより、どこか狭いところに引っかかったような感覚だった。


息を吸うタイミングが、少しだけ分からなくなる。


思わず、その娘の姿を想像しかける。


けれど、すぐに分かった。


重ならない。


きっと似てはいない。


顔立ちも、雰囲気も、話し方も違う。


自分とは別の時間を生きて、別の癖で笑っていた人なのだろう。


それでも。


同じくらいの年頃だったという事実だけが、妙に深く残った。


自分と同じだけの歳月を生きるはずだった人が、もういない。


その不在の輪郭だけが、言葉より先に胸へ触れてきた。


「……そうなんですね」


美咲はそれだけを言った。


それ以上は、足さないほうがいい気がした。


綾瀬も多くは語らなかった。


しばらくして、ぽつりと言う。


「似てはいないんですけどね」


美咲は少しだけ手を止めそうになった。


でも、止めずに続きを待つ。


「同じくらいの年の方を見ると、たまに考えるんです」


綾瀬の声は穏やかだった。


「このくらいだったのかな、とか」


少し間があく。


「こんなふうに働いていたのかな、とか」


美咲は黙って聞いていた。


「でも」


綾瀬が小さく息を吐く。


「あなたは、あなたですね」


その言葉は、美咲が思っていたより静かで、やわらかかった。


重ねるための言葉ではなく、重ねないために口にした言葉のように聞こえた。


美咲は返事をするまでに、ほんの少しだけ間を置いた。


「はい」


それだけだった。


綾瀬が何を見て、何を見ないようにしているのか。


美咲には完全には分からなかった。


ただ、その「あなたは、あなたですね」という言い方の中に、救われるような寂しさがある気がした。


重ねたいわけではない。


重ねられないことも分かっている。


分かっているまま、それでも年頃の近さにふと立ち止まってしまう。


そんな気配だった。


美咲は手を動かし続けた。


特別なことをしようとは思わなかった。


娘の代わりになることなどできない。


なる必要もない。


いま目の前にいるのは、綾瀬という一人のお客様だ。


だから、美咲はいつもと同じように、身体の状態を見ながら施術を続けた。


しばらくすると、綾瀬の呼吸が少しずつ深くなっていった。


首から肩へ。


肩から背中へ。


固くなっていた場所がゆるむにつれて、張りつめていた空気もわずかにほどけていく。


美咲もまた、さっきまで胸の奥に引っかかっていたものを、そのまま抱えたまま手を動かしていた。


消えたわけではない。


けれど、施術の流れの中で、それをいったん置いておけるくらいには呼吸が戻っていた。


やがて施術が終わった。


「お疲れさまでした」


綾瀬がゆっくり身体を起こす。


来たときより、肩の位置が少し下がって見えた。


「お加減はいかがですか?」


美咲が尋ねる。


綾瀬はすぐには答えず、自分の肩にそっと触れた。


「……楽です」


それから、少し笑った。


「久しぶりに、ちゃんと息ができた気がします」


大げさではない言い方だった。


けれど、そのひと言で、美咲の胸の奥に残っていた緊張も、ほんのわずかにほどけた気がした。


「よかったです」


それ以上にふさわしい言葉が見つからず、美咲は静かにそう返した。


着替えを終えた綾瀬が、施術室から出てくる。


会計を済ませると、綾瀬は小さく頭を下げた。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


美咲も頭を下げる。


綾瀬はそのあと、少しだけためらうように立ち止まった。


「……変な話をしてしまって、すみません」


美咲は反射のように首を振った。


「変な話じゃなかったです」


言ってから、自分でも少し驚いた。


けれど、それは取り繕った言葉ではなかった。


「話していただいて、ありがとうございました」


綾瀬はしばらく美咲を見ていた。


それから、ゆっくり頷く。


「そう言ってもらえると、少し楽ですね」


「……はい」


短い返事しかできなかった。


それでも綾瀬は、来たときより柔らかな顔で微笑んだ。


「また来ます」


「はい。お待ちしております」


綾瀬は小さく会釈をして、入口へ向かった。


扉が開く。


ベルが鳴る。


そして、静かに閉じた。


美咲はその背中を見送った。


すぐには動かなかった。


夕方の光がガラス越しに細く差し込んで、床に長い影をつくっている。


さっきまでそこにいた綾瀬の静かな声が、まだ近くに残っている気がした。


似てはいない。


でも、同じくらいの年頃だった。


その事実を、美咲はうまく言葉にできなかった。


誰かの代わりになれるわけではない。


そして、なるべきでもない。


けれど、重ならないまま触れてしまうものがある。


今日、初めてそんなことを思った。


「……美咲ちゃん?」


不意に後ろから声がした。


振り向くと、未沙が立っている。


「お疲れさま。少し長く感じたけれど、大丈夫?」


大丈夫です、とすぐに返すつもりだった。


けれど、声になるまでにほんの少し間があいた。


「……はい。大丈夫です、未沙さん」


未沙は美咲の顔を少し見た。


それ以上、詳しく聞こうとはしなかった。


「そう。それならよかった」


そして、やわらかく言う。


「温かいものでも飲む?」


その何気ないひと言に、美咲はふっと力が抜けるのを感じた。


「いただきたいです」


「分かった。待ってて」


未沙はそう言って、奥へ入っていった。


その背中を見送りながら、美咲は静かに息をついた。


久しぶりに、ちゃんと息ができた気がします。


綾瀬の言葉が、胸の中でもう一度響く。


それが綾瀬のための言葉だったのか。


自分にも少し触れていたのか。


美咲には、まだ分からなかった。


ただ、施術室に残っていた見えない緊張が、いまは少しだけほどけている気がした。


外はもう、夕方から夜へ移りはじめていた。


今日という一日の終わりに、言葉にならないものだけが静かに残っている。


美咲はその輪郭を急いでつかまえようとはせず、ただそこにあるまま受けとめていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。