第26話 伝わる形に
午後の予約がひと段落して、サロンの中に少し静かな時間が流れていた。
美咲はカウンターの上を整えながら、ふとこの前の介護施設でのことを思い出していた。
利用者たちの表情や、職員たちの忙しそうな動き。
あの場で感じたことが、まだ自分の中に残っている。
少し離れたところでタオルをたたんでいた紗英が、手を止めて言った。
「この前の施設のことなんですけど」
美咲は顔を上げる。
「うん」
「行って終わりじゃなくて、何か残せたらよかったなって思ってて」
その言葉に、美咲も小さく頷いた。
「私も思ってた」
紗英は少し言葉を探すようにして続ける。
「職員さんも忙しそうでしたし、利用者さんも、その場だけじゃなくて、あとでできることがあればいいなって」
「うん」
美咲は椅子に腰かけながら言った。
「でも、文章だけだと動きって伝わりにくいよね」
「あ、それ、私も思いました」
紗英の声が少し明るくなる。
「だから、短い動画にしたらどうかなって」
美咲はその言葉に目を上げた。
「動画?」
「はい。長いものじゃなくて、本当に短くていいので。職員さん向けと、介助される高齢者の方向けで分けて」
美咲は少し考えてから、納得したように頷いた。
「それ、いいかも」
動きは、言葉で説明するより見たほうが早い。
しかも、介護の現場なら、短くてすぐ見返せるほうが使いやすいはずだった。
「職員さん向けは、肩とか腰とかかな」
美咲が言うと、紗英も頷く。
「あと手首ですね。移乗とか介助のとき、手も使うでしょうし」
「うん。背中もほしいかも」
「高齢者の方には、座ったままできるものがいいですよね」
「そうだね。無理なくできるやつ」
二人の会話が少しずつ形になっていく。
そのとき、奥から未沙が出てきた。
「何をそんなに真剣に話してるの?」
美咲が振り返る。
「この前の施設向けに、セルフケアの動画を作れないかなって話してたんです」
未沙は少し目を細めた。
「動画?」
紗英が頷く。
「文章より、そのまま見てもらったほうが分かりやすいかなと思って」
未沙は少し考え、それから静かに言った。
「いいと思う」
その一言に、美咲と紗英が顔を見合わせる。
「ただし」
未沙は続けた。
「上手に見せることより、無理なく真似できることを優先するのよ」
「はい」
「特に高齢者向けは、頑張るための動きじゃなくて、気持ちよく少し動かせるくらいでいい」
紗英が真剣に頷く。
「分かりました」
未沙は二人のそばへ来て、メモ用紙をのぞき込んだ。
「それと、送るなら、気軽に見られる形がいいわね」
「気軽に見られる形?」
美咲が聞き返すと、未沙は頷く。
「個別に送るより、チャンネルにまとめておいたほうが見やすいかもしれないわ」
「チャンネルですか?」
「ええ。YouTubeみたいに、すぐ見られる形で。
職員向け、高齢者向けって分けておけば、必要なものをそのまま開けるでしょう?」
紗英が目を丸くする。
「それ、すごく分かりやすいですね」
美咲も頷いた。
「その都度送るより、あとから増やしていけるし」
「そういうこと」
未沙は穏やかな声で続けた。
「宣伝みたいにしたいわけじゃないの。
ただ、必要な人が、必要なときに見つけやすい場所に置いておきたいだけ」
その言葉に、美咲は小さく頷いた。
未沙らしい考え方だと思った。
見せるために飾るのではなく、使われるために整える。
その発想が、未沙の仕事にはいつも通っている。
それから三人で、まず内容を紙に書き出すことにした。
職員向け。
肩をゆるめる動き。首まわり。手首。腰。背中。ふくらはぎ。
高齢者向け。
椅子に座ったままの足首回し。手を開いたり閉じたりする動き。肩をすくめて下ろす動き。深呼吸に合わせて腕を少し動かすもの。
「多すぎても見づらいわね」
未沙がメモを見ながら言う。
「一本を短くして、いくつかに分けたほうがいいかも」
「たしかに」
美咲が頷いた。
「一つの動画に一つの動きくらいのほうが分かりやすいですね」
紗英も言う。
「職員さんも、空いた時間にぱっと見られそうです」
内容が決まると、今度は実際にやってみることになった。
スマートフォンを簡単な台に立てかけて、まずは職員向けの肩のストレッチから撮る。
「じゃあ、いきます」
美咲が立ち位置を整え、紗英が横で確認する。
「肩に力が入りやすい方に向けて、簡単にできる動きです」
言いながら肩をすくめて、ゆっくり下ろす。
撮り終えて見返すと、二人は思わず顔を見合わせた。
「……なんか、かたいね」
美咲が言うと、紗英も少し困ったように笑う。
「かたいです」
動きは間違っていない。
説明もおかしくない。
けれど画面の中の自分たちは、どこか力が入って見えた。
笑おうとすると今度は不自然になり、説明を意識すると表情が止まる。
「こんなに難しいんだ……」
美咲が思わずつぶやくと、紗英も頷く。
「見せるって、施術するのと全然違いますね」
未沙は動画をのぞき込み、静かに言った。
「悪くないわよ。でも、もう少し力が抜けてるほうが見てる側も安心するかも」
「やっぱりそうですよね」
美咲が苦笑する。
「説明しなきゃって思うと、顔まで固まっちゃう」
「笑顔も少しあるといいかもしれませんね」
紗英が言うと、未沙も頷いた。
「ええ。うまく見せるためじゃなくて、見てる人がリラックスして見られるから」
その言い方に、二人は少しだけ肩の力を抜いた。
もう一度撮る。
今度は、美咲も紗英も、最初よりほんの少し呼吸をゆっくりにした。
話す速さも落として、表情も意識してみる。
それでも、見返してみるとまだどこかぎこちない。
「笑ってるつもりなんですけど……」
紗英が言うと、美咲が小さく笑う。
「分かる。自分でも、ちょっと頑張ってる顔してる気がする」
未沙はそんな二人を見て、ふっと口元をゆるめた。
「慣れてないだけよ」
そのひと言に、少しだけ空気がやわらぐ。
次は紗英が高齢者向けの動きをやってみる。
椅子に座って、足首をゆっくり回す。
「痛みのない範囲で、ゆっくり動かしてください」
その言葉に、未沙が小さく首を振った。
「悪くないけど、もう少しやわらかい言い方がいいかもね」
「やわらかい言い方、ですか?」
「“痛みのない範囲で”も大事だけど、それだけだと少し緊張する人もいるわ」
未沙は少し考えてから続けた。
「“気持ちよく動かせるところまでで大丈夫です”のほうが、受け取る側は安心するかもしれない」
紗英は何度も頷いた。
「たしかに……」
美咲も言う。
「できるだけ、って言われると頑張っちゃう人もいますもんね」
「そう」
未沙は静かに答えた。
「続けられることのほうが大事よ」
撮って、見返して、少し直す。
また撮って、今度は言い方を変える。
その繰り返しの中で、二人の動きも説明も、少しずつ整っていった。
美咲は職員向けの手首のケアを担当した。
両手を前に出して、手首をやさしく回す。
「手をよく使ったあとにも取り入れやすい動きです」
今度はゆっくり、言葉を置くように話す。
紗英は座ったままできる深呼吸と肩の動きを担当した。
「息を吸いながら少し肩を上げて、吐きながら下ろします」
最初よりずっと落ち着いた声になっている。
何本か撮ってから、紗英が画面を見ながら言った。
「……なんだか、少し静かすぎませんか?」
「静かすぎる?」
美咲も動画を見返す。
説明の声と動きだけの画面は、分かりやすくはある。
けれど、少し張りつめた印象もあった。
「たしかに、ちょっとだけ寂しいかも」
美咲が言うと、未沙も頷いた。
「邪魔にならないくらいの音楽があると、見やすくなるかもしれないわね」
「やわらかい感じのものですよね」
「ええ。前に出すぎないもの」
紗英の声に、美咲も頷く。
「そのほうが、リラックスして見られそう」
音楽を入れる前提で、もう一度いくつか見返す。
表情がかたすぎないか。
説明の速さはどうか。
動きが急すぎないか。
見る人が安心して真似できるか。
考えることは多かったけれど、不思議と嫌な疲れではなかった。
むしろ、自分たちの仕事を別の形に変えていくような感覚があった。
施術をするときの手と、伝えるために見せる動きは、似ているようで少し違う。
自分ができることをそのまま出すだけではなく、相手が受け取りやすい形に整えなければならない。
それもまた、仕事なのかもしれなかった。
夕方が近づくころには、短い動画がいくつか並んでいた。
職員向けが数本。
高齢者向けも数本。
どれも長くはないが、目的ははっきりしている。
美咲がスマートフォンの画面を見ながら言う。
「なんか、少し形になったね」
「はい」
紗英も隣からのぞきこむ。
「最初はどうなるかと思いましたけど」
「私も」
二人が小さく笑うと、未沙が後ろから画面を見た。
しばらく何も言わずに見ていたが、やがて静かに頷く。
「いいんじゃない?」
その一言に、紗英の表情が少しやわらぐ。
「大丈夫そうですか?」
「ええ。ちゃんとやわらかく見えるし、清潔感もあるし」
未沙はそこで少しだけ口元をゆるめた。
「まあ、二人とも爽やかな美人だから、その時点でだいぶ見やすいけど」
一瞬、空気が止まる。
「……え?」
と美咲が言い、紗英も目を丸くした。
未沙は平然としている。
「大事なことでしょう。安心して見られる雰囲気って」
「そういう言い方されると、逆に緊張するんですけど」
美咲が言うと、紗英も小さく頷いた。
「します……」
その反応に、未沙は少しだけ笑った。
さっきまでの張りつめた空気が、そこでふっとほどける。
美咲は苦笑しながら、もう一度画面を見た。
たしかに、少し前までのぎこちなさより、今のほうがずっと見やすい。
力を入れすぎず、でも雑にはならず、相手に届くための形になっている気がした。
「じゃあ、チャンネル、作ってみますか」
美咲が言うと、紗英が少し驚いたように顔を上げた。
「ほんとに作るんですね」
「せっかくなら、そのほうが見やすいでしょ?」
美咲が笑うと、未沙も頷いた。
「今回の分を置いておけば、必要なときにすぐ見てもらえるし、また増やしていくこともできるわ」
「今回だけじゃなくなるんですね」
紗英がそう言うと、未沙は静かに答えた。
「続けられる形にしておくほうがいいもの」
その言葉に、美咲は小さく頷いた。
ただ送って終わりにするより、ずっといい気がした。
必要な人が、必要なときに、気軽に開ける場所がある。
それだけで、届き方は少し変わるのかもしれない。
「職員向けと利用者さん向けで分けておけば、迷わないですね」
「ええ」
未沙は答える。
「使う側が考えなくていいようにしておくのも、大事なことだから」
送る準備をしながら、美咲はもう一度動画を見た。
派手なものではない。
けれど、忙しい合間や、少し疲れたときに、ふと思い出してもらえるかもしれない。
その場だけで終わらず、あとに残る形になっていればいいと思った。
「見てもらえるといいね」
美咲が言うと、紗英も静かに頷いた。
「はい。今度は、その場だけじゃなくて、あとでも使ってもらえそうな気がします」
未沙は二人を見て、やわらかく言った。
「二人の気持ちが届いて使ってもらえたら嬉しいよね」
その言葉は、静かだけれど、まっすぐだった。
美咲は小さく頷く。
紗英も、「はい」と答える。
サロンの窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変えはじめていた。
それがどんなふうに受け取られて、どんなふうに使われていくのかは、まだ分からない。
けれど少なくとも、
あの日その場で終わらなかったものが、
今度は別の形で、誰かの日々の中へ残っていこうとしていた。
美咲はそう思いながら、作りたてのチャンネルの画面を、そっと閉じた。




