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第25話 任せてみる

午後のサロンに、五条が3才の娘未輝と訪れた。


入口のベルの音に顔を上げた美咲は、すぐに表情をやわらげる。


「いらっしゃいませ」


「こんにちは」


五条の声のあとに、小さな声が続いた。


「こんにちは」


「未輝ちゃん、こんにちは」


美咲が笑いかけると、未輝は五条のそばに立ったまま、美咲を見上げた。


もう何度も顔を合わせている相手だ。緊張した様子はない。


五条は、美咲が新人の頃から来ている常連だった。


未沙の夫でもあり、美咲にとっては、サロンの外でも顔を合わせる相手だった。


ときどき未沙の家に遊びに行けば、そこに五条がいることもある。


だからこそ、お客様ではあるけれど、まったく知らない相手という感じもしない。


「今日は一緒なんですね」


美咲が言うと、五条が頷いた。


「うん。少し都合が合わなくてね」


「そうだったんですね」


美咲がそう返したところで、奥から未沙が出てきた。


「いらっしゃい」


五条に向けた声のあと、未沙はすぐに未輝を見て少し笑う。


「未輝も来たのね」


未輝は未沙を見ると、ぱっと顔を明るくした。


「おかあさん、こんにちは」


「こんにちは」


未沙が返すと、未輝はそのまま続ける。


「おしごとちゃんとやってる?」


一瞬だけ間が空いて、美咲は思わず口元をゆるめた。


五条も小さく笑っている。


未沙は目を細めた。


「やってるわよ」


「ほんと?」


「ほんと」


未輝は納得したように頷いた。


そのやり取りがあまりに自然で、この場所が仕事場であるのと同時に、未沙たちにとって日々の延長でもあることを、美咲はあらためて感じた。


「本日の施術は紗英さんが担当します」


五条は自然に頷いた。


「うん。未沙から聞いてるよ」


その返し方に迷いはなく、美咲は少しだけほっとする。


「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」


声をかけられて、紗英が背筋を伸ばした。


「よろしくお願いします」


「はい。よろしくお願いします」


紗英が五条を個室へ案内する。


扉が閉まる前に、五条が未輝に振り返った。


「未輝、待ってられる?」


「うん」


「絵本読む?」


今度は美咲が声をかけると、未輝は素直に頷く。


「よむ」


美咲は受付のそばに置いてあった絵本を手に取り、未輝へ渡した。


未輝は慣れた様子でそれを受け取ると、椅子に座ってすぐにページを開いた。


ひとりで静かに読めることを、美咲も未沙も知っている。


個室の扉が閉まり、店の中にまた落ち着いた空気が戻る。


美咲は受付に戻りながら、なんとなく施術室のほうへ意識を向けていた。


中の様子が見えるわけではない。


けれど、扉越しにときどき声は聞こえる。


「本日は、どこか気になるところはありますか?」


少しかたい紗英の声だった。


「肩と背中かな」


五条の声は、いつも通り落ち着いている。


「分かりました。状態を見ながらやっていきますね」


そのやり取りを聞きながら、美咲は伝票を整える。


未輝は小さな手で絵本のページをめくっていた。


静かな店の中に、紙のこすれる音だけがやさしく混じる。


「気になる?」


いつの間にかそばへ来ていた未沙が、小さな声で言った。


「え?」


「紗英さんのこと」


美咲は少し笑った。


「気になります」


未沙もわずかに笑う。


「でも、大丈夫よ」


「はい」


そう答えながらも、美咲には分かっていた。


今日のこれは、ただ施術をこなせるかどうかを見る時間ではない。


紗英が、自分の手でいつものお客様に向き合う時間なのだ。


しばらくすると、扉越しに聞こえる声の調子が少しずつ変わってきた。


最初よりも、やり取りがなめらかになっている。


「少し張っていますね」


「やっぱり?」


「はい。右のほうが強い感じがします」


「ああ、そうかも」


「強さは大丈夫ですか?」


「うん。ちょうどいい」


その受け答えを聞きながら、美咲は少しだけ肩の力を抜いた。


未輝が絵本から顔を上げる。


「みさきちゃん」


「なあに?」


「これ、くまさん」


開いたページを見せられて、美咲が笑う。


「ほんとだ。くまさんだね」


未輝は満足したようにまた絵本へ目を落とした。


その向こうで、施術室から五条の声が聞こえる。


「紗英さん、落ち着いたね」


「え?」


「最初より」


少し間があって、紗英の小さな声が返る。


「分かりますか?」


「うん。でも、最初から丁寧だったよ」


「ありがとうございます」


その声は、もう最初ほどかたくなかった。


やがて施術が終わり、個室の扉が開いた。


「お疲れさまでした」


「ありがとうございました」


五条がゆっくり出てくる。


来たときより、少し肩の力が抜けたように見えた。


「おわった?」


未輝が絵本から顔を上げる。


「終わったよ」


五条がそう答えると、未輝は安心したように絵本を閉じた。


その後ろに立つ紗英は、まだ少しだけ緊張の余韻を残していた。


「どうでしたか?」


紗英がためらいがちに尋ねる。


五条は肩を軽く回してから頷いた。


「うん。楽になった」


その一言に、紗英の表情がやわらぐ。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


五条は少し笑った。


「いつもと違ったけど、よかったよ」


紗英は目を上げる。


「本当ですか?」


「うん。ちゃんと見てもらってる感じがした」


「……ありがとうございます」


その声には、ほっとしたものが混じっていた。


受付で会計を済ませる。


美咲が顔を上げた。


「お疲れさまでした」


「ありがとう」


五条はそう答えて、それから未沙のほうを見る。


「よかったよ」


「そう」


未沙が笑う。


「それならよかった」


五条は短く頷き、今度は紗英へ向き直った。


「ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


未輝も絵本を抱えたまま、小さく頭を下げる。


「ありがとうございました」


「またね、未輝ちゃん」


美咲が言うと、未輝は素直に頷いた。


「またね」


五条が未輝の手を引いて店を出ていく。


ベルの音が静かに鳴って、扉が閉まった。


そのあとで、紗英が小さく息を吐いた。


「緊張しました……」


美咲が少し笑う。


「してたね」


「やっぱり分かりましたか?」


「少しだけ」


紗英も照れたように笑った。


「でも、途中から落ち着けました」


「うん。声で分かったよ」


「本当ですか?」


「うん」


未沙がそばに来る。


「よかったわね」


「はい」


紗英はまだ少し緊張の残る顔で頷いた。


「最初、すごく緊張したんですけど……」


「そうでしょうね」


未沙の声はやわらかかった。


「でも、ちゃんとやれていたわよ」


「ありがとうございます」


紗英は少し迷ってから言った。


「五条さん、いつも未沙さんか美咲さんが担当されてたから」


「うん」


「私で大丈夫かなって、最初は思いました」


未沙は小さく笑った。


「だからお願いしたのよ」


「え?」


「いつもの方だから」


紗英が未沙を見る。


「任せてみたかったの」


その言葉に、紗英はしばらく何も言えなかった。


美咲も黙って聞いている。


未沙は続けた。


「紗英さんにも、紗英さんの手があるから」


紗英の表情が、少しだけ変わる。


緊張がほどけたあとのような、でもまだ少し信じきれないような顔だった。


「……はい」


未沙はそれ以上言わなかった。


そのとき、受付の端に置かれた絵本を見て、美咲がふっと笑う。


「未輝ちゃん、ちゃんと待ってましたね」


未沙もそちらを見る。


「ええ。あの子、絵本があれば静かだから」


その言い方には、母親らしいやわらかさが混じっていた。


紗英も少し笑う。


「さっきのやり取り、かわいかったです」


「何が?」


と未沙が聞くと、美咲が口元をゆるめる。


「おしごとちゃんとやってる、って」


未沙も少しだけ困ったように笑った。


「見られているのは私のほうかもしれないわね」


三人のあいだに、小さくやわらかな空気が流れる。


午後の光が、店の奥まで静かに伸びていた。


特別なことがあったわけではない。


いつものお客様が来て、施術をして、帰っていった。


ただ、そのいつもの流れの中で、少しだけ違うことがあった。


任せること。


任されること。


そのどちらも、サロンの中で少しずつ増えていくのかもしれない。


美咲はそんなことを思いながら、未輝が読んでいた絵本をそっと元の場所へ戻した。


店の中には、またいつもの静かな空気が流れていた。


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